Back to toppage


このページでは彫刻家・田中等および宮崎の彫刻に関する最新情報をお届けします。

過去の日記

2023   1-2     3-4    5-6   7-8   9-10   11-12

2022   1-2     3-4    5-6   7-8   9-10   11-12

2021   1-2     3-4    5-6   7-8   9-10   11-12

2020   1-2     3-4    5-6   7-8   9-10   11-12


10月31日(火)

☆快晴。

朝夕は冷え込むが、日中はとても陽射しが強く、都城市は夏日となったようだ。

☆午後に宮崎市へ出て、兄弟空港展のために作品を預かっていた写真家の某氏の事務所へ作品の返却。

なんと氏は、今朝に空港を訪れて、3階ギャラリーがもぬけの殻でびっくりされたということ。

DMをきちんと確認していなかったと謝罪されたが、普通は月末31日までが開催期間となることが多いので、そうなったのだろう。

こちらこそ申し訳ない。

今の写真界は、写真とはそもそも何なのかという問い直しの渾沌の只中に在ると言う。

そんな話など小一時間ほど雑談する。

☆夜に入浴して、体を洗っていて左手の甲を見てびっくりした。

どす黒く内出血していて、パンパンに腫れている。

押してみると、打撲後のような痛みがある。

しかしそんな打撲を受けた記憶が全く無い。

昨日の搬出の時に、重い彫刻の梱包荷を抱えている最中に手の甲を何処かにぶつけたのではと妻は言うが、そんな記憶は全く無い。

最近こんな、全く記憶の無いことが頻発する。

☆とうとう10月も終った。

ポルトガルのハードな作業の疲れをまだ引きずっていて、体調は万全ではない。

最近、急激に胃が小さくなった気がする。

ポルトガルでは一品の量が多過ぎて、毎食、半分も食べられなかった。

今夜も何時も完食出来ていたパスタの量が、半分ほどで満腹になってしまった。


10月30日(月)

☆晴れ。

雲の多い一日で、雲で陽射しが遮られると一気に冷え込んだ。

☆兄弟空港展、最終日。

何事も無く終わる。

私は会期中の大半をポルトガル滞在で留守にしたので、私の不在中の来場者の反応はわからない。

最終日に来てくれた高鍋町美術館の青井学芸員と話していたら、こういう形で私の彫刻と版画を展示した空間は初めてであり、それなりにインパクトは

あったようである。

この際、売れた売れなかったは考えずにおこう。

私は私の版画が大好きである。

また版画の作品タイトルにも感じ入って下さった方がかなりおられたようである。

そう確認できたことだけでも収穫であろう。

☆午後3時から搬出。

私一人での搬出作業は大変である。

そして帰宅しての自宅工房への彫刻作品収納作業も、もう年齢的に限界に近くなってきた。

☆自宅への荷降ろし作業が終わったらヘロヘロで、夕食を作る気力も無し。

ありあわせのもので夕食を済ませ、ハーモニカの練習もせず、早々に床に就く。

あっという間の慌ただしい11月であった。


10月29日(日)

☆快晴。

陽射しは暑く、絶好の行楽日和。

☆兄弟空港展。

今朝も一ッ葉有料道路はトライアスロン大会で通行止めだったので、宮崎市内の一般道路を通ったら、スカスカだった。

空港は様々なイベントや秋の行楽シーズンで大混雑。

久々にコロナ禍以前のように、手荷物検査前には長蛇の列が出来た。

しかし、兄弟空港展会場は閑古鳥状態。

最後の日曜日なのに、知人が2組みえたのみ。

あまりに暇で、兄夫婦は今日も受付に座った途端に船を漕いでいた。

☆9年前の兄弟展同様、兄の作品はそれなりに売れたが、私の作品は販売の打診すらないままに終わりそうである。

今年の空港彫刻展は近年になく作品が売れたので、購買欲が恢復したと期待したが、3階ギャラリーでは彫刻は売れないということがはっきりした。

兄の絵も売れたのは受付のある壁面の作品だけで、正面壁面の作品は1点も売れていないので、ましてエレベーター前の奥まった空間にある私の作品など誰も見ない。

兄の作品と私の作品は混合配置にすべきだったかと思うが、9年前は兄の作品の間に私の彫刻を配置したが、反応は今回と同じだった。

とまれ、兄との兄弟展は今回が最後であろう。


10月28日(土)

☆快晴。

日中は陽射しが強く、とても暑かった。

☆今日は宮崎市内は色んな行事で交通渋滞。

朝は一ッ葉有料道路はトライアスロン大会のために早朝から通行止めで、大島通線を走ると大渋滞。

午後は宮崎市内は神武祭の御神幸行列で市内は通行止め、裏通りはう回路でまたも大渋滞。

高鍋町も燈籠祭りで、我が家への入り口は通行止め。

うんざり、苛々であった。

☆そんな気持ちでの兄弟空港展。

受付の傍らで、お客の対応は兄の知人たちと兄の絵を購入打診をされる方ばかり。

私の彫刻と版画を観る人は誰もいない。

結局は、私は兄の個展の穴埋めで終わった。

ただこれまでの私の彫刻と版画を並べてみて、私の在り方を肯定的に見つめ直すことの出来たのは大きな意義があった。

☆夕刻に買い物に出ると、東の空に月齢13,4の美しい月がぽっかり。

そのまま高鍋駅まで走ったが、月は高鍋駅舎の背後の樹木に潜ったまま。

タイミングが合わず、”MOON DANCE”との共演撮影を諦める。


10月27日(金)

☆午前は陽射しの暑い晴れ。

午後から一転して強風の吹き荒れる曇天となり、雨となる。

午後後半からは天候は回復し、急激に底冷えて来る。

☆今日は、兄弟空港展には出かけず、自宅で体を休める。

午後に、妻とライブの練習。

☆ラインで、高鍋駅前”MOON DANCE”のミニチュアが欲しいと言う問い合わせがあった。

先日は、兄弟空港展会場でも同様の申し出があった。

問いあわせてくれた方の反応では、やはり駅前モニュメントと同じフォルム・同じ材質によるミニチュアが欲しいようだ。

需要が有ればいくつか作ってみても好いが、石で作ればすべて1点物の制作になるし、小さいほど手がかかる。


10月26日(木)

☆快晴。

日中の陽射しは強くて、車を走らせていても窓全開が気持ちが良い。

☆兄弟空港展。

今日も空港自体は混雑しているが、ギャラリーはまばら。

午前のうちは知人たちが見えられたが、午後からは全くの閑古鳥。

眠いので、2階のみやげ物売り場を一巡りしてギャラリーに戻ると、兄夫婦は2人とも受付で爆睡状態。

☆午後は早めに退出させてもらったが、眠くて、帰宅後は夕刻まで和室で寝る。

この兄弟展は私にとって何ほどかの意味があったのだろうか。

対外的に”仲の好い田中兄弟”を印象付けただけではなかったか。

☆伊藤先生から献呈された「牧水・啄木・喜志子」を読了。

先日は俵万智の「牧水の恋」を読んで、このところ牧水関係の本ばかり目を通しているので、牧水に関する意識が全く変わった。


10月25日(水)

☆快晴。

日中は陽射しが強く、冷え込みはなし。

☆いちにち、兄弟空港展会場。

人の動きはほとんど無し。

午後は眠くて仕様が無い。

やはりまだポルトガル滞在中のハードワークのダメージを引きずっている感じである。


10月24日(火)

☆晴れ。

雲の多い天候で、冷え込みは無し。

☆午前に、彫刻制作の打診のあった某所の担当者とのオンライン打合せ。

九州内の彫刻家の中から数名の作家を選ばれ、私にはこのHPでの掲載作品画像を見ていただいて、問い合わせをいただいたようだ。

オンラインでは作品設置予定場所の映像を見たりの大まかな設置概要を聞く。

具体的な打合せは近日に現場を訪れてからになる。

現在設置されている作品は小作品ばかりなので、おそらく小ぶりな作品になるのだろう。

☆午後から兄弟空港展会場へ。

空港自体は平日なのに駐車場は満杯で空港内もごった返していたが、3階ギャラリーへ足を運ばれる方はわずかである。

そんな中、私が会場に着いてすぐに、東京へ帰る前の高校同級のM君が顔を出してくれた。

彼は私がポルトガル滞在中に帰省して、その時に兄弟展会場へ顔を出してくれている。

高校時代は同じ美術部での親友だった。

帰省したのは、この夏に妹さんが病で亡くなり、49日忌で帰省していたと言うこと。

実家は御両親もすでになく、妹さんが家を守っておられたようで、とうとう実家は無人になってしまった。

本人は東京を引き揚げて帰ってきたい意向を語っていたが、家族もありそうはいかないようだ。

人生、思うようにはうまく行かない、とうなだれて帰京していった。

私は今が、人生で一番楽しいのだが・・・。

私の木版画の刷りがすごくいいと何度も褒めてくれた。

厳しい審美眼を持つプロの絵描きの彼に褒めて貰えて嬉しかった。


10月23日(月)

☆快晴。

日中はとても暑かった。

数日前から我が家の桜が咲いている。

この時季になると、あちこちで桜が狂い咲く。

☆まだ時差ボケが続いているのか、夜中に目が醒めると眠れなくなり、今朝は夜明け前に起きた。

逆に日中はお昼から眠くてたまらない。

☆朝一に、遅延の工具用のスーツケースが宅急便で届いた。

16日にポルトガルを出て以来だから、我が家に帰って来るまで8日もかかってしまった。

リスボン空港で壊れた持ち手は、完全に壊れて存在していなかったし、南京錠も消えていた。

工具の重さに耐えられず、キャスターの一部が潰れていた。

やはり工具を入れるスーツケースは、ホームセンターで売っている安物では使い物にならない。

とまれ、無事にスーツケースは2個とも戻って来た。

☆今日は妻のボーカルレッスン日で、11月18日のライブの練習をしなければならないので、兄弟空港展には出かけられず。

午前に妻と練習。

午後から講師の片貝さんとレッスン。

今回は新曲が何曲かあるのだが、初見の楽譜で何が何やらわからないまま対応。

1曲は口笛での演奏で、これは夕食の準備をしながらワイヤレススピーカーで繰り返しオリジナル曲を流し、楽譜で音を確かめてほぼマスターする。

☆ネットでのユーロ買取の振込を確認。

やはり空港で両替するよりレートが良い。

今後は購入も売却もネットを使おう。


10月22日(日)

☆快晴。

昨日までの冷え込みは無し。

☆朝一に、遅延の衣料スーツケースが宅急便で届く。

早速洗濯ものを洗濯乾燥機に突っ込んで、兄弟空港展へ出かける。

☆一日、兄弟空港展。

今日は日曜日なので空港の駐車場も満杯で、兄弟展も何時もより来場者が多かった。

しかしほとんどは兄関係。

帰り間際に私の教え子が一人。

彼の撮ってくれた写真がラインで送られてきたが、私は相当に疲れ切った顔をしている。

兄の方が若く見える感じで愕然とした。

☆知人の方が、高鍋駅前の”MOON DANCE”のマケットが欲しいと言われた。

☆ANAのカウンターで、搭乗できなかったチケットの払い戻し手続きをやってもらった。

ところが変更の手続きをしていないので、払い戻し手続き期限が過ぎていて、手数料を差し引くと払い戻しは110円(!?)だと言う。

しかし、キャンセルの手続きをしようにも海外にいた私はネットでしか手続きが出来ないのにも関わらず、ウェブ上では変更・キャンセルは出来なかった。

帰国して、問い合わせ先へ何度も電話したのに、払い戻しの手続きの案内がまったくない、とスマホの度重なる送信履歴を見せる。

カウンターの娘さんは困って上司に事情を説明してくれたが、上司には冷淡な表情で門前払いされた。

結局、払い戻しは110円。

この110円のために私はどれだけ電話代を使ったことか。


10月21日(土)

☆快晴。

非常に爽やかな秋晴れだが、気温は冷え込む。

☆今日は兄弟空港展会場に詰める。

体調的には恢復したかに見えたのだが、会場に来られた方たちと会話を始めると途端にろれつが回らなくなり、現実感が無くなり、とても辛くなってきた。

やはりまだ体調は恢復していない。

じっと受付でデスクワークをしていると、眠くてたまらない。

☆土曜日だと言うのに、兄弟展への来場者もまばら。

兄の作品が1点、私の「月の雫」が一冊売れたのみ。

「月の雫」は伊藤先生の短歌を英訳してくれたマイケルの元の上司が来られたので、無理やり買ってもらった次第。

☆夜になってANAからの連絡で、もう1点の預け荷物が羽田に届いたという言うこと。

これで近いうちに無事に荷物が我が家に帰って来る。

☆11月18日の次のライブまでもう一月を切ったので、今夜からハーモニカの特訓を再開する。

昼間の兄弟空港展会場でのヘロヘロ状態では、まだハーモニカを吹ける体調には戻っていないと思ったが、あにはからんや、これまでに演奏したことのある曲を

吹いてみると、なんともスムーズに吹けるのである。

8月のライブでは本番までとちってばかりだった”MOON DANCE”が、今夜はまったくスムーズに吹けたのでびっくりした。

やはり体が覚えているのだ。

何時もなら、久しぶりにハーモニカを吹くと息切れで死にそうになり、しばらくは床に倒れ込んで動けなくなるのだが、体調は最悪な筈の今夜は全く息切れしなかった。

☆クレジットカードの請求明細が届いたので開いてみると、ロンドンのホテル手配の請求がすでに含まれていた。

しかしその金額を見てびっくり。

私の思っていた金額と桁が一つ違う。

あらためてバウチャーの明細を確認して、請求額の26ポンドと言うのが、タクシーの片道分であることに気が付いた。

実際の請求額はタクシー往復分、ホテル代を合算した249,65ポンド、日本円で46,519円だった。

道理でロンドンのホテル代が安すぎると思っていた。

と言うことはホテルで手配したタクシーに40ユーロ(約6000円)も請求されたのは、確かにぼられたのは間違いないが、それほどの高額請求では無かった訳だ。

飛行機の遅延でこれだけの自己負担出費が生じていたのなら、何んとしても海外保険での補償が必要になる。


10月20日(金)

☆一日、小雨。

気温は上がらず、一気に冷え込む。

☆旅行の残務処理で過ぎる。

まず加入していた海外旅行保険に、予定のフライトに乗れなかった場合の補償について問いあわせる。

予定のフライトに乗れなかった時刻から6時間を経過しても次の便に乗れなかった場合に、宿泊費やタクシー代、食事代が補償の対象となると言うこと。

フライトが次の日になった証拠のために当初のフライトの搭乗券と、振替になった翌日の搭乗券は保管してある。

宿泊費のバウチャーも保管してある。

書類が届いて、これらの証拠書類と一緒に申請する。

また荷物が届かない件について、ANAの担当者から海外保険に加入しているかの確認を取られたので、補償について問いあわせてみると、この場合は

荷物が届かないことによって出費した経費に対して補償されると言うこと。

私の場合は特に何も困ったことは無いので、補償の対象にはならない。

ただ結果的に荷物が届かない結果になった場合は、改めてその件で補償を申請すると言うこと。

☆次に、払い戻しは無いと思っていたANAの福岡ー宮崎便の払い戻し案内のメールが届いていた。

しかし、昨日自宅に帰ってメールの整理をしている時に、誤ってこのメールを削除してしまった。

それでANAのウエブサイトを調べたり、問い合わせ先に電話したりするが、一向に払い戻し手続きの方法が出てこない。

仕方ないので、空港のANAカウンターで尋ねてみることにする。

☆返ってこない預け荷物について、ANAの担当者から随時報告の電話が這入ったが、状況は段々怪しくなってきた。

朝の電話では、昨夜のロンドンからのフライトには、こちらから連絡を入れたにも関わらず、載せられていなかったので、宅急便での配達が送れます、と言う報告。

夕刻の電話では、私が乗ったロンドンー東京便の荷物が福岡空港に届いていました、と言う報告。

しかしスーツケースの色が、私の申請した色と違っていて、赤だと言う。

つまり、それは私の物ではない、と言うことで、また様子見と言うことになった。

更に夜になって、意外な報告が這入った。

なんと大韓航空から連絡が入り、ANA便ではなく、大韓航空機に私の荷物が積載されて羽田に届いたと言うのである。

しかも2個の裡の1個しか載っていなかったと言うこと。

そんなことがあるのか?

ANAのフライトで戻ってくると安心していたのだが、こうしてバラバラになって他社のフライトに乗せられてしまうなんて、先行きが暗澹たるものになって来た。

本当に無事に戻って来るのか、不安が大きくなってきた。

☆ポルトガルの報酬を羽田空港で日本円に両替したら、一日の両替限度額があって、残りを持ち帰って来た。

今の円安で、買い取り額がとても良いので、今のうちに全部両替したくて、買取もネットで出来ることが分ったので、午後にネットで両替の申し込みをして、

郵便局から書留でユーロを送る。

届き次第、口座に振り込まれる。

今はこうしたネットでの両替が手数料も安くて、利用が増大しているようだ。


10月19日(木)

☆晴れ。

☆メールでANAのアプリによる事前オンラインチェックインの案内が来ていたので、アプリをダウンロードする。

生まれて初めて、アプリのQRコードで搭乗手続きをするが、列に並んでいた家族連れの女性のスマホが全く読み取れず、家族はオロオロするし、並んでいるお客も

苛々して操作の手順をアドバイスするし、とうとうその家族は列から外されて、別のカウンターに廻された。

見ていて、本来の紙媒体の搭乗手続きなら何の問題も無いのに、世の中が全てスマホ操作に偏ってしまっていることに大きな社会的疎外感を感じた。

☆そんな苛立ちで9時55分発のANAに搭乗。

時差ボケの眠さと疲労困憊で、座席に着いた途端に、気が付いたら宮崎空港に着陸していた。

☆宮崎空港へ着いた時には、疲労で足腰も立たない状態だった。

3階ギャラリーの兄弟空港展会場へ上がってみたが、兄夫婦はまだ来ておらず、会場を一巡してみると兄の作品はかなり売れていたが、私の作品は全く売れていない。

版画の展示を始めて、作品が1点も売れないのは初めてである。

兄の個展への協力と言う形で、私の展示スペースをエレベーター前の誰も来ない場所に固定してしまったのがこの兄弟展の失敗であった。

やはり私にとって、この兄弟展は全く意味のない展覧会だったのだと愕然となり、兄に書置きをして、特急電車で帰宅する。

☆宮崎はポルトガル以上に暑かった。

電車の窓から眺める日本の風景が、先日までのヨーロッパの風景と余りに異なっている。

こじんまりとし過ぎて、あまりにも長閑過ぎる。

その暗澹とした平和な日常がまた今日から始まる。

このあまりにも平淡なヌーボーとした日常の中で、作品を制作してゆく”表現活動”の困難さをつくづく感じる。

☆妻は今日は勤務なので、だれも居ない自宅でエアコンを着けて、カンビールを飲み、届いていた数少ない郵便物をチェックして、ヘロヘロの状態で寝室に上がって寝る。

☆夜はお寿司を取って、無事に作品が制作できたこと、無事に帰国できたことを祝って妻と乾杯する。

今回の旅のハプニングもこうして無事に帰宅できたことで、貴重な経験となった。


10月18日(水)

☆定刻の17時に羽田空港に着く。

時差ボケで眠いが、ここでもまだトラブルが待ち受けていた。

☆入国手続きを済ませて、出口へ向かうと、ANAの従業員が”たなか ひとし 様”というプラカードを持って待機していた。

そうしたら、乗って来たフライトに私の預け荷物が載っていないと言う。

昨夜にフライトが飛び立った後に積み忘れが発覚したようだ。

荷物は後日に宅急便で送るので、預け荷物受け取りレーンで担当者が手続きのために待機しているという。

ここまでいろんなトラブルがあると、もう何も驚かない。

それに行方不明になったわけではないし、きちんと宅急便で届くと言うから何の心配も無い。

重い荷物を抱えて、国内線ターミナルまで移動する厄介さが省けて身軽になるだけ助かる。

特に工具を入れたスーツケースはハンドルの持ち手が壊れてしまったので、その状態で国内線ターミナルへ持ち運ぶことが憂鬱だったのである。

☆預け荷物受け取りレーンで、やはり”たなか ひとし 様”というプラカードを掲げた担当者と会い、手続きを進める。

そうしたら、スーツケースの鍵も預けることになった。

つまり税関を通さないと、荷物を空港から出すことが出来ず、通関で引っかかったら、荷物を開けなければならないからだ。

と言うことは、私が一昨日のフライトに間に合っていたら、私の荷物は羽田空港止まりになって、通関出来なかったらもっと面倒なことになっていた訳である。

今回はトラブル続きだったが、トラブルが無かったらもっと面倒なことになっていた。

☆カバン一つの身軽さで国内線ターミナルへ移動して、福岡行きにチェックイン。

電光掲示板をみたら、搭乗に間に合う宮崎便があった。

こんなことなら福岡経由しなくて済んだのであった。

時差ボケで眠くて、福岡まではぐっすり眠る。

☆博多でホテルへチェックインして、ホテル近くの馴染みの店で呑む。

博多の食べ物は滅茶苦茶に旨い。

感激しながら呑む。


10月17日(火)

☆ロンドンは曇り。

午後からは陽射しも出て、思ったよりも冷え込みは無し。

☆今日も波乱の一日となった。

☆午前は雑務であっという間に過ぎた。

今夜泊まる筈だった福岡のホテルのキャンセルが、昨夜は”じゃらん”サイトで出来なかった。

予約そのものが登録されていなかった。

おそらく直前のキャンセルなので、”じゃらん”ではキャンセル出来なかったのだろうと思って、ホテルに電話を入れてみた。

そうしたらやはり今夜の予約は這入っていなかった。

どうやら、出発するときに空港近くのホテルに変更してキャンセルした時に、今夜の分も一緒にキャンセルされていたようだ。

そして明日搭乗予定だったANAのキャンセルをしようと思うが、いくらやってもネットでは出来なかった。

私のフライトは特割りなので変更できないチケットで払い戻しも無いのだが、キャンセル待ちの人もいるだろうからと思うが、ネットではキャンセルできなかった。

☆お昼の12時を過ぎて、ホテルのレセプションから、チェックアウトは12時なのに何をしているのかと電話が這入った。

えっ、タクシーは4時に迎えに来ることになっているので、4時まで部屋に居てよいのではと問うと、チェックアウトは12時で、その後は4時までロビーで

過ごせばよいのだと言う返事。

荷物も少ないので、直ぐに片づけてチェックアウトする。

☆午後はロビーでデスクワーク。

他の客も、みんな迎えが来るまでロビーで過ごしている。

☆バングラデシュのナルギッシュから、絵画作品の写真を2点送って欲しいと言うメッセンジャーが届いた。

インドでの展覧会に出品して欲しいと言う。

しかしインドの展覧会では、出品した妻の版画が返ってこなかったので、出品しない旨の返事をすると、今回は送ったデータを元に写真にして展示するのだと言う。

それでパソコンの中に保存している版画作品の画像を送り、その中から2点を選んでもらった。

☆4時が近づいたので、タクシーの迎えを待つ。

4時直前に、昨夜のトラベル案内所から携帯に電話が這入り、今どこに居るのかと言うので、ホテルのロビーでタクシーを待って居ると答える。

SMSでもタクシードライバーの名前と、タクシーの車種、プレートナンバーも届いた。

だがこの電話のやり取りが、英語のほとんどできない私は誤った返事をしてしまったらしい。

いくら待ってもタクシーが来ない。

ようやくSMSと同じナンバープレートと同じ車種のタクシーが来たので、乗り込もうと思ったら、別の客を乗せてきていて、私のタクシーは別のタクシーで

直ぐに来ると言う。

しかしタクシーは一向に来ず、しびれを切らして、昨夜のバウチャーに記されていた番号に電話する。

通じない英語でやり取りしていると、予約番号から私の名前がわかったので、別のタクシーを手配すると言う。

しかし4時半を過ぎてもタクシーは来ない。

このままでは、今夜もフライトに乗り遅れる事態になるので、ホテルのフロントに別なタクシーを手配してもらった。

こちらは自腹になる。

ところが夕刻の交通渋滞でなかなかタクシーが来ない。

我慢の限界に達した処で、ようやく5時15分になってタクシーが来た。

なかなか愛想の好い丁寧なタクシー運転手だったが、降りるときに料金を40ユーロ(6000円余)も取られてしまった。

昨夜に支払った朝食込みのホテル代、送迎のタクシー代を含めたバウチャーが26ポンド(約4700円余)だったのと較べると、べらぼうな金額である。

☆何んとか搭乗手続きには間に合った。

TPAポルトガルのカウンターで事情を話すと、搭乗するフライトのANAと隣接しており、ANAの担当者に案内され、ANAの担当者が直ぐに私だとわかり、昨夜は皆で

私のことを心配して、PTAポルトガルからも電話をしたらしい。

無事に搭乗手続きが済んだが、思わぬことがわかった。

昨日の搭乗手続きでは、預け荷物は福岡空港まで運ばれると言うことだったが、羽田ー福岡便は国内便なので預け荷物は羽田でいったん受け取り、国内線ターミナルへ

移動しなければならないと言うこと。

つまり、昨夜にきちんとフライトに間に合っていたら、私は羽田で荷物を受け取らずに福岡へ飛んでいたことになる。

不幸中の幸い、と言うことだったのか。

チェックインでも、当然もう通路側の席は全部埋まっていたが、搭乗ゲートでのチェックでは通路側に変更されていて助かった。

とまれ、無事に一日遅れで19時発の羽田行きに搭乗できた。


10月16日(月)

☆朝から深い霧。

今日の出来事を象徴するようなポルトマオ

☆8時にホテルを発ち、パウロにファーロ空港まで送ってもらう。

作家たちがみんな見送りをしてくれた。

パウロの話では、ポルトマオは真冬でも摂氏2度以下に下がることは無く、ポルトガル自体も山岳部で少し雪が降る程度で、その雪も午後には消え、多くの

ポルトガル人は雪を見たことは無いと言うこと。

☆ところがファーロ空港で搭乗手続きをすませ、搭乗口へ向かうと、出発予定時刻になってもゲートが開かない。

みんなゲートが間違っているのでは、と電光掲示板を何度も確かめている。

ようやく搭乗が始まったが、今度は滑走路から動く気配がない。

出発したのは定刻を1時間も過ぎていた。

☆リスボン空港へ着くと、預け荷物クレームの場所がものすごく遠い。

レーンへ着くと、すでに手荷物は流れていたので直ぐに重い2個のスーツケースを抱えて、搭乗手続きに走る。

なかなか搭乗手続きの場所がわからず、ようやくTAPポルトガルのセルフチェックイン機にたどり着く。

しかし私の便はロンドンからはANAに乗り継ぎなので、担当の女子職員にセルフチェックインをやってもらったが、私のデータが出てこない。

それで、カウンターでのチェックイン窓口があったので、そこでパスポートを照合すると、スムーズに搭乗手続きが出来て、手荷物も福岡空港で受け取れことが確認できた。

空港内を必死で急いだので、工具の這入ったスーツケースのハンドルが壊れてしまった。

☆無事にギリギリにチェックインが終わり、出国審査を経て搭乗ゲートへ。

やれやれと思っていたら、またも搭乗時間になっても一向に搭乗が始まらない。

どうやら何かのトラブルで、搭乗機の到着が大幅に遅れているらしい。

ようやく15時05発のフライトは16時20分発に変更の案内が出たが、それもほどなくしてさらに16時35分発に変更された。

ロンドン到着時刻が1時間30分も遅れたら、19時発のロンドン発羽田行には間に合わない。

☆長い待機時間後に機内へ案内されても、また滑走路から動かない。

どうにか動き始めた時はもうすでに17時35分で、ロンドンに着いた時にはすでに羽田へのフライトは出発してしまっている。

これから先の対応は、考えても仕様が無く、ロンドンに着いてから考えることにする。

☆ロンドンに着いたのはもう20時30分を廻っていた。

空港へ着いてどうしたら良いかと空港職員たちに聞くが、とりあえず搭乗ターミナルへ行けと言う。

搭乗ゲートラウンジのANAのカウンターはもうすでに閉まっているし、TPAポルトガルのカウンターも誰もいない。

TPAポルトガルはちょうど私の乗って来たフライトのリスボンへの搭乗が始まっていたが、みんなその仕事に集中していて、私の件を相談する職員が居ない。

途方に暮れて、先ほどの航空会社カウンターに戻り、他の航空会社の担当者にどうしたら良いかと尋ねると、やはり搭乗案内しているTPAポルトガルのカウンターへ

行きなさい、という。

あらためてTPAの搭乗ゲートへ行くとすでに搭乗案内は終わって、職員が2人残ってゲートの閉鎖準備中であった。

状況を話すと、直ぐに理解してくれて、明日のフライトの空きを確認して手続きをしてくれた。

それで今夜はいったん空港を出てホテルを取り、明日の夕刻にまた来てくださいと、空港を出る案内をしてくれた。

すでに出国手続きを済ませているので、再びイミグレを通ってイギリス入国の手続きをしなければならない。

とうぜん、預けた手荷物は明日の便にしか乗らないので、明日の便で帰るしかない。

☆空港ロビーへ出ると、旅行案内所があったので、そこでホテルの予約を依頼すると、実にてきぱきと作業してくれて、タクシン手配込みのバウチャーを作成してくれ、

支払いもカードで済んだ。

タクシーの運転手が来て外へ出ると、ものすごく寒い。

ホテルへは同じタクシー会社が、明日の4時に迎えに来てくれる。

☆ホテルにチェックインして、シャワーを浴びて、遅い夕食を摂る。

ホテルのレストランはもう食事の提供時刻を過ぎていたが、事情を話して残り物であつらえてもらった。

部屋に戻って、妻に状況をラインし、帰国日変更による福岡泊のホテルのキャンセルと新たな予約、福岡ー宮崎のANAの新規予約(1席しか残っていなかった)、

そしてグローバルWiFiの一日延長の手続きをする。

私に何のミスも無いのに、膨大な余計な出費がかさむことになった。

暖房は這入っているが、寒い部屋でベッドに這入ったのはもう夜中だった。


10月15日(日)

☆午前は雲の多い天候。

午後からはすっきり晴れる。

☆シンポジウム最終日。

朝のうちに下部のアールを出して、みんなに手伝ってもらってパレットの上で作品を起こす。

そして突貫で上部の突起部のフォルムの成形作業。

どんどん夕暮れが近づいて来て、泣く思いで必死にフォルムを出してゆくが、思うように先に進まない。

とうとう時間切れで、作業終了となった。

形だけは遠目には整ったので、近くで見なければなかなか良い作品となった。

☆それにしても一週間と言う会期は、小作品を作る時間である。

たった一週間でこの大きさの作品を74歳の身で形に出来たことは上出来だろう。

大理石も上質だが、すごく硬かった。

完璧な作品をポルトガルに残すことはできなかったが、最低限の条件の中で死に物狂いで取り組んだ。

怪我もせず、よく頑張った。

☆夜はポルトガル最後のディナー。

☆明日は早朝に、ファーロ空港までパウロに送ってもらう。


10月14日(土)

☆晴れ。

昨日の雨のせいかとても蒸し暑い一日。

喉がカラカラになった。

☆シンポジウム6日目。

追い込み作業。

上部の側面の厚みを落して、本体のアールを出してゆく。

予定では今日中に本体のアール出しを終えるつもりだったが、これがなかなか思うように進まない。

見かねたアルリンドとリュウが手出しして来るが、余計に邪魔になって作業が進まず、ブチ切れ寸前になる。

しまいにはパウロとリュウの好意に作業を任せた。

暑さと焦りで、疲労困憊の一日だった。

こんなに100メートル全力疾走状態のきつさが一日中続いたのは、若いころの真夏の日本のシンポジウム以来である。

☆殆ど作業の終わったザオとザナンは、休養を取って電車でファーローの観光に出かけ、大感激して帰ってきた。

☆午前にナンド一家が帰国し、午後にはアクタムの息子もスペインのマドリッドへ戻った。

彼はミュージシャンでマドリッドに住んでいるようだ。

☆ディナーは今夜も郊外の伝統料理。

私は日中の疲労で吐き気がしていて、殆ど食事は一口ほどしか摂れなかった。

その分、喉が渇いてビールとワインばかり飲み続け、昨夜同様に50度のラッキー一気飲みとなった。

みんな疲労困憊で早く寝たいので、デザートは摂らず、早めにホテルへ帰る。

今夜もベッドに上がった途端に昏睡。


10月13日(金)

☆いちにち、小雨交じりの曇天。

☆シンポジウム5日目。

上部フォルムに墨を入れ、厚みを出す。

そして夕刻のリフトによる返し作業に向けて、アール部を出してゆく。

パウロも少し手伝ってくれる。

作業終了までには返す。

残り2日で、なんとか形を出すことはできるか。

☆夕食は郊外の伝統的なスタイルのレストランで。

私はもうシーフードは見たくもないのでステーキを頼んだら、味は良いのだが、兎に角ステーキの厚さが5cmほどもあって、半分も食べられない。

ポルトガルの料理は一人分の料理が多過ぎる。

ナンド一家も合流。

☆帰路にアルリンドの家に立ち寄る。

画室、彫刻室、それにギャラリーまであり、広大な敷地にはプールもある。

私も次の最終目標は自宅ギャラリーである。

何んとか実現させたい。

☆50,2°のリキュールを何盃も一気飲みさせられた。

88歳のザオのお母さんも私と一緒に一気飲みするので、みんなびっくり。

☆ホテルに帰ったころにはリキュールが効いてきて、今夜も帰るなりベッドで昏睡。


10月12日(木)

☆晴れ。

朝の冷え込みはなし。

☆昨夜は久しぶりにぐっすり眠れて、体力も恢復した。

☆シンポジウム4日目。

上部のフォルムの厚み落しと、下部のアール面の落し作業を進める。

パウロが下部の落し作業を手伝ってくれた。

図面を描いてくれればアールを出す作業も手伝うと言うが、ベニヤ型でも作らない限り指示する時間はない。

リフトが来るのはあと1回のみだという。

明日の午後に反転させて、起こしは皆に手伝ってもらって人力作戦でやるしかない。

☆残り3日のみ。

どこまでやれるだろうか。

☆夜にディナーに行くためにホテルを出ると、出くわした男性に”やあTANAKA!”といきなり声をかけられて面食らった。

びっくりしていると、私はあなたを知っているけれど、あなたは私を知らない、と言われた。

ディナーにも彼の家族一家が参加して、他の作家たちはみんな彼のことをよく知っていた。

隣の席のザオに尋ねると、スペインの彫刻家でとても有名だと言う。

スペイン、ナンド・・・、ひょっとしてスマホで検索すると、やっぱり今年の”うちぬき21”の招待作家だった。

☆私が参加した”うちぬき21”の翌年の招待作家で、主催者の白木さんから”招待作家をナンドに決定しましたが、作家的に問題ないですか?”と問われたので、

よく聞く作家名で有名な作家ですと答えていた。

ところがコロナが拡大してスペインは出国も出来ない状態だったので、彼はコロナ禍の沈静化待ちの状態だった。

昨年は国内の状況が落ち着いてきたので、私の推薦で久保健史氏を招待してもらい、いよいよ今年は正常開催に戻ってナンドをようやく招待できた。

そのナンドが家族でやってきたのである。

日本ではまだ夜明けまでだったが、白木さんにラインを送ると直ぐに返事が来た。

世の中、なんて狭いのだろう。

☆流石に私だけではなく、作家たちはみんな疲労困憊で、ディナー後は眠くてたまらない。

ゲストのナンド一家に挨拶をして、私たちは先にホテルへ帰る。

部屋に戻って、すぐにベッドで昏睡してしまった。


10月11日(水)

☆晴れ。

今日から作家たちの要望で、朝8時半からの作業になった。

そのせいか早朝のハーバーは霧が立ち込めてとても寒かった。

日中はいつもの暑さ。

☆朝食はヨーグルト、りんご1個、ミルクたっぷりの珈琲で、胃に負担にならないものを摂ったら、普通に食事できた。

☆シンポジウム3日目。

朝のうちは昨夜の嘔吐と下痢で毒素が抜けたのではないかと思うほど、グラインダーでの作業にはほぼ支障が無かった。

しかし午後からリフトによる作業が這入るので、必要な基準となる水平線や垂直線を出す作業をしたら、座ってやれる腰を据える物がないので、中腰での作業となり、

やはり足腰がヘナヘナになっているので、滅茶苦茶にきつかった。

☆昼食は昨日と同じハーバーのレストランで、今日はポークを摂ったが美味しいけれど、肉が硬かった。

普通に食事が摂れてビールも呑めた。

☆午後3時過ぎから全作家のリフト作業。

私は上下を返して下部を先に仕上げてしまおうと思ったが、横倒しにして側面のフォルムを先に落すことにした。

しかしリフトの作業がいい加減で、枕材も無いので見ていてイラついた。

☆残りあと4日。

どう考えても仕上げまで持って行くことは、奇蹟が起こらない限りは不可能である。

☆夕食は郊外のチキンのグリル専門店。

日本にはないスタイルのグリルでとても美味しかったが、途中から眠くて眠くて、ホテルの近くなら先に歩いて帰ることが出来るが、郊外なので皆と一緒に車で帰るしか

できず、結局皆の食後のデザートの時間を削って早めて引き揚げてくれた。

私一人のために、毎日みんなに迷惑を掛けている。

本当に申し訳ない。


10月10日(火)

☆快晴。

とても陽射しが強く、日中はほぼ真夏。

☆シンポジウム2日目。

私はいちにち、側面落し。

シンポジウム支給の125mmディスクはよく切れる。

結局、作業は始まったばかりだが、会期が一週間なので、残りは5日しかない。

他の作家たちは作品が小さいので、もう形を出しながら仕上げを進めている。

私は一番作品が大きいので、明日には形を出していかないととうてい間に合わない。

☆ランチは制作会場のハーバーのレストランでチキンを摂る。

シーフード以外も美味しい。

☆ディナーは街中のレストランで、フラメンコギターの生演奏を聞きながら、ワインに合った次から次に出て来る様々なメニュー。

私は疲れがまったく取れず、日に日に疲労が蓄積してゆく。

夕刻にはフラフラ状態であった。

シンポジウムは毎夜のこうした酒宴が魅力なのだが、今の私には拷問に近い。

今夜も皆より早く、ザオ母子と一緒にホテルへ帰る。

☆寝しなに急に気分が悪くなり、今夜食べたものを全て吐く。

途中から下痢も始まった。

どうしてこんなに疲労が蓄積してしまうのか。

やはりコロナの後遺症なのか。

一日どころか半日も休めないスケジュールなので、不安になる。


10月9日(月)

☆快晴。

☆シンポジウム開始。

シンポジウム開始と言っても特別なセレモニーは無く、行政関係の方が数名見えて、それぞれの作家と挨拶をかわし、集合写真を撮ったのみ。

午前は段取り的な作業で過ぎる。

午前は墨入れ作業が主な作業。

グラインダーのディスクは主催者の支給してくれる230mmと私の持参した台湾製の粗目を使ってみたが、作業にはほぼ変化はなく、結果的に少し台湾製が

優れている気がして、そちらを使う。

☆大理石はかなり目の細かい上質な大理石である。

しかし制作期間が1週間なので、かなりサクサク切れる柔らかい大理石だと思っていたら、全く普通のかなり硬質な石であった。

こんな石を1週間で完成させるなんて、相当な覚悟が要る。

しかも私の石が最も大きいサイズなのである。

☆このところ、老化も加わって、作業中の怪我が多い。

注意しているハズなのだが、今朝は作業に入る前にテントの支柱止めの大きなピンにズボンの裾をひっかけて、もんどり返ってしまった。

そして、休憩しようと石から降りて歩み始めた処で、石とパレットの間に差し込んであった長い棒に脚がひっかかって、派手に転倒してしまった。

幸い、グラインダーは持っていない状態だったので大きな怪我にはならなかったが、体中のあちこちが傷だらけになってしまった。

大きな怪我にならないように細心の注意をしなければ。

☆お昼は会場近くのレストランで、タラが主体のランチ。

かなり美味しかった。

☆ディナーはホテル近くの高級ラウンジで。

ファドのライブのあるお店で、シーフード。

私はかなり疲労がたまっていて、眠くてたまらず、皆より一足先にホテルへ帰る。


10月8日(日)

☆全き快晴。

日中は暑いが、朝夕はかなり肌寒くなる。

☆昨夜のうちに着いていたリュー・ヤン(中国)からメッセンジャーで連絡があり、ホテル地下の朝食会場へ行くと、そこには同じく昨夜のうちに着いていた

アクタム(シリア)がすでに朝食を摂っていた。

リューとは2018年の行橋以来、アクタムとは2011年のイラン以来である。

アクタムは息子と一緒だったが、息子は顔幅の極端に狭く深く切れ長の目の絵に描いたような美丈夫だった。

アクタムは、サムライみたいだろうと言ったが、確かに今の日本のアニメに描かれるサムライそっくりである。

☆アクタムに今のシリアの状況を聞いてみると、やはりアメリカ・ロシア・イラン・トルコ・アラブの利権介入で混乱のままだが、シリアは石油大国なので石油を売って、

経済的にはすごくリッチだという。

イランで会った時には、彼はイラン国民はアサド大統領が大好きなのだと言っていたので、帰国して新聞を片っ端から見てみると、日本国内でのニュースが

いかにアメリカからのニュースでしかないことを痛感したことがある。

☆ほどなくザオ母子も降りて来た。

ザオとアクタムは初対面だと言うことである。

☆10時から皆で制作場所へ行き、それぞれの石を確認する。

私の石が最も大きい。

☆それから制作場所の対岸へ向かうと、そこは白壁の別荘地帯で、たどり着いた先は制作場所を含むヨットの群れ留まる河口の美しい眺めを見渡せた。

ポルトマオも大変なリゾート地なのだ。

更に別な海岸線へ向かうと、貝を大量に含む岩石が浸食されてできた荒々しい海岸であった。

向こうには大地が突き出た岸壁が望める、スケールの大きい海岸であった。

この海の向こうがアフリカ大陸なのだ、と思うとポルトガルが海洋大国でここから世界征服に向かった気持ちがわかる気がした。

☆お昼は河口にあるレストランで、またシーフードであった。

元々、魚はあまり得意ではない私は、塩味だけの魚にはもう飽きて来た。

☆昼食の後は、更に別のビーチへ向かう。

そこはサボテンの自生するほぼ南国の佇まいであった。

そして打ち止めは、海に向かった大地が断崖絶壁となって大海に落ちるスケールの大きい海岸であった。

☆もうすでに夕落ちる頃となっていた。

ホテルに帰ったのは7時を廻って居て、休息する間もなく8時から夕食へ出る。

夕刻のうちに着いていたザナン(トルコ)が合流して、ようやく招待作家が全員そろった。

ザナンとは2018年の中国・銅川以来である。

☆シンポジウム会場近くのレストランでチキンの夕食を摂る。

もうシーフードには閉口していたのでホッとする。

しかし、ポルトガルへ来てからずっと歩きっぱなしなので、脚がガタガタで疲労困憊である。

明日から制作に這入る。

☆日本で津波警報が出され、宮崎でも警報が出たらしいが、こちらではヤフーが見れなくなったので、日本で何が起きているのかまったくわからない。


10月7日(土)

☆晴れ。

☆ホテルのレストランで朝食を摂った後に、近くのマーケットへ行ってみる。

流石、シーフードの美味しい街だけあって魚介類の種類が豊富で新鮮だった。

驚いたのは、スーパーマーケットのなかに幾つかのバーがあり、朝から大盛況なのであった。

人生を先ず楽しむ、というラテン系の民族の生態なのだろうか。

スーパーマーケットを出て、再び旧市街を歩く。

昨日に見逃した旧市街の入り口のアルコ・ダ・ヴィラの門を捜したのだが、歩いて歩いて、結局、昨日に何度も往復したマリーナに沿ったところにあった。

☆昼前にホテルへ戻り、荷造りをしてチェックアウトに降りると、シンポジウム・オルガナイザーのアルリンドとパウロが待ってくれていた。

☆ホテルを出て、空港近くの海岸に連れて行って貰うと、美しいビーチは大勢の海水浴客で賑わっていた。

ファーロはリゾート地なのであった。

この美しい海の向こうはモロッコで、アフリカ大陸なのである。

☆午後に、空港へ中国のザオ・リーと彼女のお母さんを迎えに行き、お昼を海岸沿いのお店でシーフードを摂る。

私とシンポジウム・オルガナイザーのアルリンド、そしてザオ・リーは中国・西安のシルクロード国際美術展の仲間である。

☆お昼を摂った後は、一路、シンポジウム会場の街、ポルトマオへ向かう。

ポルトマオはファーロから60kmほどスペイン寄りに走ったところにある。

シンポジウムは海水の入り込む川沿いで行われ、作品もその川沿いに設置される。

とても風光明媚な景観であった。

すでにテントも張られ、それぞれの作家の石も用意してあった。

☆ホテルにチェックインした後、アルリンドとザオとの3人で夕食を摂りに行くが、またもシーフードで流石にうんざりとなった。

一気に疲れが出てきて、先にホテルへ帰る。

ホテルは街中にあって、若者たちの大声での騒ぎがとてもうるさい。


10月6日(金)

☆快晴。

☆6時に起床。

殆どの人が私がポルトガルに来ていることを知らないので、一晩中、兄弟空港展への問いあわせラインや電話等があり、全く眠れなかった。

☆朝8時からの朝食開始にホテルのレストランへ行くと、すでに超満員だった。

昨夜バスが何台も来ていたので団体客が一度に来たようだ。

朝食を済ませ、ホテルをチェックアウトして、タクシーで空港へ。

タクシー代は昨夜の半額以下だった。

☆空港での搭乗手続きはすべて、機械でのセルフ手続きだった。

私はセルフの手続きはジエットスターしかやったことが無いので、係りの女性職員にやってもらった。

実にスムーズに済んで、無事に道具のスーツケースは預かり荷物で、日常品のスーツケースは大きさも重量も計測されることなく、機内持ち込みになった。

多くの乗客がスーツケースを機内に持ち込んでいた。

☆定刻にリスボンを発ち、ファーロへ着く。

ファーロ空港には、シンポジウムのオルガナイザーのアルリンドと地元作家のパウロが迎えに来てくれて、ホテルへ連れて行って呉れた。

ホテルのチェックインは午後2時からだったが、昼前にチェックイン出来た。

☆しばらく部屋で休んで、昼食をホテルの前のレストランで、ファーロ名物のシーフードを食べに行く。

私は名物のアサリのワイン蒸しだけを摂るつもりだったが、店のオーナーがスマホの中のメニュー画像を見せて追加の注文を取って来る。

つい生牡蠣を追加注文してしまった。

ポルトガルの料理はすべて大皿に3〜4人前が載って来る。

1人前のサイズは無いのかと聞くと、ない、と言う。

流石に3〜4人前のアサリと生牡蠣を食べるのは大変だったが、とても美味しくて、まったく胃もたれしなかった。

☆お昼の後はしばらく午睡を取って、目覚めてから洗濯をする。

☆ファーロは日中は宮崎と変わらぬ暑さなので、涼しくなった夕刻から古いポルトガルの町並みの残る旧市街を散策する。

帰る間際に路上のカフェーでビールを呑んでいると、こうして独りで旅をするのは結婚してからは無かったのではないのかと思って、懐かしかった。

ビールを呑みながら、道行く人々を眺めていると退屈しなかった。

ホテルへ戻ると、お昼のシーフードの余韻がまだ残っていて、夕食を取る気もせず、エアコンをつけたままベッドに横になっていたら、やはり夜は肌寒くて、

エアコンで風邪気味に成り、エアコンを消してシャワーを浴びて寝る。

☆<告知>

このパソコンが殆ど画面が開かなくなりました。

いま、奇蹟的に開いて書いています。

したがって、日本に帰国して本格的に修理するまでパソコンは使えないと思います。


10月5日(木)

☆福岡と東京は曇り。

☆トラブル続きのポルトガル行きとなった。

午前4時半に起きて、4時半にホテルのチェックアウト。

ホテルの従業員にタクシーの手配を頼むと直ぐに来てくれて助かった。

スマホで経路を調べると、ホテルから福岡国際空港ターミナルまで4km近くあって歩くと1時間弱かかると出て、ビビっていたのである。

無事に国際ターミナルのオープン時刻直前に着き、まず1階へ降りてグローバルWiFiの受け取りBOXからモバイルWifiを受け取る。

そこまでは良かったのだが、いざ搭乗手続きをしようと思うとANAのカウンターがない。

それにフライトは7時55分が始発便である。

おかしいなと思って、他の航空会社のカウンターで尋ねると、国際線ターミナルにはANAは這入っていないので、国内線で手続きしてくださいと言われる。

☆びっくりして外に出ると、丁度タクシーが止まっていたので、国内線ターミナルへ向かう。

国内線ターミナルは6時前にしか開かず、丁度、ターミナルが開いたところだった。

そしてANAのカウンターに行くと、ちゃんと国際線乗り継ぎカウンターがある。

私はネットでチケットを買ったので、こんな搭乗方法の説明など全く無かったのである。

無事に搭乗手続きが済み、スーツケース2個はリスボンまで運んでもらえることになった。

☆スマホで福岡空港へ一番早く行く方法、というものを見てみたら、7:00の始発便には地下鉄の始発便で間に合うとあった。

実際に搭乗手続きは6時半からだったので、私は予定通りに博多駅前のホテルに泊まって、地下鉄の始発に乗ればよかったのである。

大幅な時間とタクシー代の無駄だった。

☆福岡空港から羽田空港、羽田空港からロンドン(北極圏周り)、そしてロンドンからリスボンまでは特に何も無く順調であった。

ところが不安な気持ちで、リスボン空港で手荷物が出て来るのを待って居たら、とうとう最後まで私の荷物は出てこなかった。

やはりロンドンでいったん確認が必要ではなかったのか、ANAのカウンターで何度も確認したのにと、頭がまっ白になった。

ちょうどそこへ、荷物のチェックリストを持った空港の職員が廻って来たので、事情を話すと、とても落ち着いた態度で一緒に捜しましょうと言ってくれた。

そうしたら数レーン離れたパリからの便のレーンに私のスーツケースが載っていた。

これまでにもこうしたトラブルは何度かあったので、ホッとする。

☆無事に空港を出て、タクシーで予約してあったホテルにチェックインする。

もう夜中だったので、明日も早いし、食事はとらずにシャワーを浴びて床に就く。


10月4日(水)

☆雲の多い一日。

昨日のような冷え込みは無し。

☆朝のうちにスーツケースをまとめる。

10kgぎりぎりに納める。

ポルトガルの国内線の機内持ち込みのサイズは私のスーツケースより厚みが少し小さい。

しかし私のスーツケースでも日本国内では機内持ち込みが出来るし、規定サイズがほぼ同じなので大丈夫ではないかと思う。

☆兄夫婦の車に乗せて貰って空港へ。

私はそのままチェックインする。

私は道具を入れたスーツケースの超過料金がかなりなると思っていたら、2つのスーツケースの合計重量からの超過分ですんだ。

☆一日、兄弟空港展へ詰める。

今日の宮崎日日新聞の文化欄に兄弟展の記事を掲載してもらった。

記事を見て来られた方もおられたが、記事を見てからの反応はこれからだろう。

宮崎県副知事が来られた。

空港内での空港ビル幹部との会合で来られたようだ。

知り合いの方も何人か来られる。

☆4時20分のANAで宮崎空港を発ち、福岡空港へ。

そこでとんでもトラブル。

手荷物レーンから私の荷物が出てこない。

ふっと電光掲示板を見ると、宮崎からの手荷物レーンは隣で、私の荷物だけが取り残されて、担当職員が確認作業をしておられた。

ちゃんと電光掲示板を見て確認したはずなのだが・・・。

最近、こういうことが多いので、気を付けなければ。

☆福岡空港からはタクシーで予約していたホテルへ。

チェックインの時に、明日の朝のことを確認してみた。

やはりタクシーはなかなか手配できないらしく、フロントでタクシー会社にあちこち当たってみてくれたが、やはり全て手配できなかった。

明日の朝にもう一度電話してみてくれると言うことだったが、最悪の場合は歩いてゆくしかない。

タクシーの運転手は、歩いて行けますよと言っていたが、いくら空港の近くと言っても、ホテルから空港までは1kmあり、重いスーツケース2個を引きずっての歩きは

気が重い。

5月のベトナム・カンボジア旅行での、関西空港からホテルまで、雨の中を小一時間も歩いた辛さが甦って来る。

しかも今回は重い道具スーツケースが加わるのだ。

☆夕食はホテルの近くの焼き鳥屋で。

軽く呑んで、早々に寝る。


10月3日(火)

☆夜中から一気に冷え込む。

昨日に羽毛布団を洗っていたのが幸いだった。

日中もおおむね晴れたが雲が多く、気温は上がらなかった。

☆一日、兄弟空港展の会場に詰める。

平日なので殆ど来場者はない。

下の妹の同級生が来てくれたのみ。

☆会場受付に座って、スマホでポルトガル・ファローの気温を調べる。

かなり南の地域なので、今の時期は最低気温が20度、最高気温が26,27度ということで、今の宮崎よりも暖かいようだ。

☆また1階のANA搭乗手続きカウンターで、福岡国際空港のカウンター業務開始時間を尋ねる。

しかし彼女らも福岡国際空港の事はわからず、スマホで調べて、6時からです、と言う。

だが、国際線は2時間前から搭乗手続き開始だし、モバイルWiFiの受け渡しが5時からなので、5時にはターミナルは開いている筈なのである。

☆帰宅して、明後日の早朝の福岡空港までのタクシーの手配をする。

しかし、タクシー会社の返答は早朝4時から8時までの間のタクシーの稼働は受け付けていないと言う返事。

やはり、と言う感じで、それならホテルに問いあわせた方が予約できるタクシー会社がわかるだろうと、明日の夜に泊まる予定のホテルに電話する。

ところが、今は福岡はタクシー業界は大変な人手不足で、予約を受け付けられない状況だと言う。

ホテルのお客さんもタクシーの予約が出来ずに困っていると言う。

ただし、ホテルが博多駅の直ぐ近くなので、博多駅前のタクシー乗り場へ行けば、おおむねタクシーは待機しているので大丈夫でしょう、と言う。

頭が真っ白になった。

でもタクシー乗り場にタクシーが居なかったらどうなるのだ?!

私はポルトガルへ行けなくなる。

それで、福岡空港近くのホテルを調べて貰い、ネットで検索すると空港搭乗者限定の部屋が開いていたので、予約する。

予約していた博多駅近くの定宿のホテルはキャンセルさせて貰った。

やれやれである。

☆またスーツケースの重量について、ポルトガルの国内線のルールを再確認する。

正規の料金では委託荷物は含まれていない。

それで予約した時にその分の超過料金を支払ってあるのだが、問題は無料の機内持ち込み手荷物のサイズと重量である。

機内持ち込みの手荷物は10kgまでである。

今の衣服等の重量でほぼ10kgである。

私は「月の雫」を何冊か持って行こうと思っていたが、それでは完全に重量オーバーである。

スーツケースについては、明朝に再検討する。


10月2日(月)

☆晴れ。

朝夕はかなり肌寒くなってきた。

☆ポルトガルのシンポジウムの招待作家がわかった。

招待作家は5名で、中国のリー・ツアオ、ヤン・リュー、トルコのザナン、そして私とポルトガルの作家らしいもう一人。

リー、ヤン、ザナンは親しい仲間である。

☆朝のうちに、ポルトガルの道具類を再点検する。

道具類を精査して、出来るだけ荷を軽くする。

そして空港宅急便で福岡空港へ送ろうと思ったら、思いもかけない規定で送ることができなかった。

私は5日早朝の7時出発なので、前日までに国際線空港か国内線空港に送ろうと思った。

ところが空港宅急便は搭乗する空港宛、つまり国際空港ターミナル宛でないと送れないことと、当日は午前9時からの取り扱いなので、引き受けが出来ないと言うことで

あった。

つまり、前日までに国際線ターミナルに送って、それをいったん受け取ってロッカーに保管しておくという事が出来ないのだそうだ。

受け取った荷物はそのまま搭乗手続きへ向かわなければならないという。

荷送りの時に、フライト名と搭乗日を明記しなければならないからである。

宅急便営業所でもそのことを理解していなくて、過去にトラブルになったことがあるのだそうだ。

やれやれ、重い荷物を抱えて宮崎空港へ向かわねばならなくなった。

☆今回のポルトガル滞在は短期なので、5月のベトナム・カンボジア旅行で使ったグローバルWiFiを申し込んだ。

グローバルWiFiは、福岡空港国際線ターミナルでは午前5時から受け取れるので搭乗手続きに間に合う。

5月は観光で移動ばかりだったので、モバイルWiFiが重宝した。

これまでの海外でのシンポジウム期間は移動が無いので、ホテルやレストランの無料WiFiでほぼネット環境に不便を感じたことは無い。

通常の長期滞在のシンポジウムならモバイルWiFiの利用料が膨大な金額になるが、今回は短期なので、念のために持って行くことにする。

☆夕刻までに、日用品のスーツケースの荷造り。

気候がよくわからないので、念のために薄手のセーターと作業ジャンパーも入れる。

☆夕刻に、11月18日の”SAKA Bar”でのライブのフライヤーを作る。


10月1日(日)

☆おおむね晴れ。

天気予報では午後から雨だったが、昼前に雨にはなったが強く降ることも無く、午後には雨脚も上がる。

日中はまだ残暑が厳しいが、夕刻からは肌寒くなり、いよいよ秋めいて来る。

今日からいよいよ10月。

今年も残り3カ月となってしまった。

☆兄弟空港展の初日。

初日なので、一日会場に詰める。

☆日曜日なので家族連れで賑わったが、子連れの家族には要注意であった。

子供が数人いる家族だと、それぞれの子供たちが勝手に動き回る。

兄の油絵の額縁を揺らしたり、キャプションを叩いて落したり、私の彫刻を触ったり。

特に私の作品の展示場所はエレベーターの前なので、受付からは全く見えない。

慌てて私の展示場所に駈けつけて、案の定、背伸びをして私の作品を触っている子供の母親に注意をする。

オアシス広場での彫刻展でも、作品を壊されないように凄く気を配っているが、アオシス広場では会場全体を見渡せるけれど、3階ギャラリーではそうはいかない。

☆今日は何組かの知人の方たちが見えられた。

DMを送っていた方たちばかりなので、一般の方たちが見えられるのはもう少し時間がたってからであろう。


9月30日(土)

☆晴れ。

とても暑い一日。

ほとんど真夏。

☆兄弟空港展搬入日。

幸いの上天気で、私の作品は全て軽トラに積み込むことができた。

10時に宮崎空港で兄と合流し、展示作業を進める。

私は3階ギャラリーの飲食店ブース側の壁面を使わせて貰った。

まず彫刻の展示台を配置して、会場効果を考えながら彫刻を乗せて行った。

次に版画作品を、これも会場効果を考えながら壁下に置いていった。

版画の作品数が多いので、彫刻と彫刻との間に小作品を2段掛けしてゆき、大きめの版画作品は彫刻の背後に掛けた。

☆午後3時前には展示作業も終了。

兄の展覧会の補佐と言う位置づけで打診のあった気の重い兄弟展で、どうなることかと思い、一度は止めようとさえ思ったが、今の私で対応できる最善の方法で

展示することが出来てホッとした。

私は彫刻11点、版画26点の計37点、兄は油彩・水彩合わせて計36点、総計73点の兄弟展となった。

☆私の版画作品は、これまでは本格的なギャラリーでは展示していないので、空港ギャラリーでは貧相過ぎて観るに堪えないのではないのかと案じていた。

それで最近までは、版画の出品数は控えめな点数しか考えていなかった。

ところが、箱を開けてみると、これまでの会場で見た時よりしっくり観れるのである。

最近制作した大きな作品は、やはり刷ったばかりなのでまだ色が生々しく、小作品の方が全然良い。

☆午後3時から宮崎日日新聞社文化部の取材。

私にとっては、文字通り、コロナ禍に這入ってからの”彫刻家・田中等”の現時点の生き様の紹介である。

☆夕刻に帰宅して、日中に届いていた郵便局からの不在通知を持って、届いていたユーロ宅配便を郵便局で受け取る。

☆郵便局から帰ると、宮崎市内の某施設でのライブを終えた妻と片貝さんが帰宅。

その足で、11月18日にライブを予定している近所の”SAKA Bar"へライブの打合せへ。

ポルトガルへ発つ前にフライヤーを作っておかなければならないので、詳細な打合せをする。

☆夜に夕食の材料調達で買い物に出ると、ぽっかりと極めて美しい大きな満月が浮かんでいてびっくりした。

駅まで走って写真を撮ろうかと思ったが、スマホを持って居なかったので諦める。

☆今日はものすごく暑かったので、空港ビルでの展示作業中は喉がカラカラに渇いて、ビールが呑みたくてたまらなかった。

暑さと搬入展示作業での体力消耗で、夕食を作る気力も無かったが、昨日仕入れていた都萬牛のイチボのステーキを焼いて生わさびで食べたら、最高に

美味しかった。

私は兄弟空港展の搬入展示も終え、妻も無事に初めての演奏依頼のライブを終えて、二人とも全身が疲労感と満足感で、ワインも美味しくいただく。


9月29日(金)

☆雲が多いながら、おおむねの晴れ。

風はかなり涼しくなって来たが、陽射しは相変わらず真夏の暑さである。

☆朝一に、交通安全の立ち番。

☆午前に、マレーシアで買ったマキタ125mmグラインダーのコードを、ヨーロッパ仕様に取り換える。

予備のカーボンもホームセンターで調達。

BOSCHの125mmグラインダーも持っていこうと思っていたが、点検したらスイッチレバーのストッパーが駄目になっている物だったので、マキタ1本にする。

手持ちの125mmグラインダーはこの2本しかない。

ほとんどはシンポジウム期間中に壊れてしまったようだ。

マレーシアに置いてあるものもある。

☆午後は、高鍋町図書館に設置された奥村羊一の作品にプレートを取り付ける。

ポルトガルへ発つ前に片づけておきたい作業であった。

本人が山に籠って不在なので、全くのボランティア作業である。

☆午後後半は、明日に空港へ搬入する作品”MOON DROPS 2”の梱包木枠を作る。

これまでにこの作品の梱包木枠を作るタイミングが無く、展示の度に段ボール箱に入れて発泡剤を詰めて持ち運びしていたのだが、展示作業で発泡スチロールの粉が

飛び散ってしまっていたので、この機会にきちんと木枠を作ることにした。

木枠が無いと言うことは、この作品を県外の展示会やコンクールには送ったことがないということだ。

☆全ての作業が終わったのは、もう完全に陽が落ちてしまってからだった。

今日は中秋の名月で満月である。

しかし、夕刻には東の空には雲が出ていて、満月は昇ってこなかった。

中秋の名月と一緒に”MOON DANCE”の写真を撮りたいと思っていたのだが、月が出ないので断念する。

それよりも、今日はずっと外で作業(自宅の作業は玄関前のたたきの上で作業していた)していたせいか、夕刻にはヘロヘロに疲れ切ってしまって、実際のところ満月と

”MOON DANCE”の写真を撮る気力も無かった。

しばらくすると、薄雲のなかに赤銅色の満月が浮かんだ。


9月28日(木)

☆晴れ。

陽射しの強い蒸し暑さは続く。

☆ポルトガルの準備に這入る。

道具の点検をして荷造りの用意にかかり、コロナ禍前の最後のシンポジウムに持っていった道具収容のスーツケースを開く。

ところがスーツケースを開くと、グラインダーも230mmのディスクも這入っていない。

最後のシンポジウムはインドのシンポジウムだったが、インドでは主催者が道具を準備してくれていたので、グラインダーと230mmデスクは持って行かなかったようだ。

今回もグラインダーもディスクも主催側で準備してくれるので、最低限のものを持って行けば良いのだが、やはり230mmディスクと125mmのグラインダーは持って

行きたい。

しかし使い慣れていた230mmディスクがどれなのかわからなくなっているし、125mmグラインダーに関してはコンセントがマレーシア仕様のままだ。

4年前の夏はルーマニアのシンポジウムの後にマレーシアで制作をしているからだ。

道具用のスーツケースは事前に空港宅急便で福岡空港へ送るので、明日くらいまでにはまとめてしまいたい。

☆夕刻に散髪。


9月27日(水)

☆晴れ。

風は涼やかだったが、陽射しが真夏の強烈な暑さ。

宮崎県内は各地で真夏日を記録。

☆午前に兄弟空港展のDM宛名書きの追加。

昼前にポルトガルへ持って行く備品等をホームセンターで購入。

☆午後に宮崎市へ出て、兄弟空港展に出品予定の作品を預かりに行く。

この作品は今年の空港展の時に某写真家の方に買っていただいたもので、秋の兄弟展の時にお借りしたいと伝えてあった。

珈琲を飲みながら小1時間ほど、彼の取材の様子や(毎月の雑誌等の取材で月の半分くらいは国内を駈け廻っておられる)、お互いの部門での活動内容のことなど

語り合う。

彼とはもうかなり以前から面識はあるが、こうして2人でしみじみと語るのは初めてであろう。

☆ポルトガルへ発つ国際線は、福岡空港が午前7時出発である。

ずっと気になっていたので、きちんと調べてみると、博多の地下鉄の始発は博多駅が5時50である。

搭乗手続きは出発1時間前には終えておかなければならないので、地下鉄では間に合わない。

タクシーで行くしかないが、タクシーはネットで予約できるようだ。

私は定宿の博多駅前のホテルを予約しているので、出発2時間前からの搭乗手続きに間に合うためには、4時過ぎにはタクシーに来てもらう必要がある。


9月26日(火)

☆夜中は激しい雨。

日中は曇天。

今日も蒸し暑い。

☆午前に、ユーロ両替の宅急便手配。

外貨両替は宅配便が最もレートが良い様だ。

☆続いて海外旅行保険に加入。

近年は海外シンポジウムに行くと必ずと言っていいほど浴室で滑ってしまったり、グラインダーのディスクが顔面を直撃したりの事故が起きている。

彫刻シンポジウムでは怪我は必ず起きるし、かといって彫刻の作業は保険契約にある”危険な仕事”には含まれないので、きちんと保険の対象になる。

シンポジウム主催側からも損害保険加入が参加条件の一つである。

海外保険は年齢制限があると思っていたが、保険会社によっては年齢の制限はない。

☆午後に木版画の摺り。

2作目と3作目の色の重ね直し。

夕刻までにはほぼ納得の仕上がりになった。

作品のデータを撮るのに、コンビニのコピー機でスキャンしようと思ったら、コピー機に収まらなかった。

仕方なく、デジカメで撮る。

夕刻までに額装を終える。

これで兄弟空港展の準備は整った。

木版画は版木の彫り作業が大変だが、しかし摺りあがった版画はやはり気持ちがピッタリくる。

長年、木版画をやりたかったのだが、こうしてコロナ禍を機に始めることが出来て幸せである。

これからも彫刻と並行して木版画を制作していきたい。

☆今日はパソコンのディスプレーの消えが頻発して、殆ど一日中パソコンを叩いて画面を表示せねばならなかった。

特にユーロの外貨宅配便の申し込みと海外保険の申し込みの最中にデスプレーが消えてしまって、操作が大変だった。


9月25日(月)

☆夜中から激しい雨。

日中も時折の晴れ間はあったものの、雨は一日中断続的に強く降る。

昨日と打って変わって、非常に蒸し暑かった。

☆木版画の摺り。

2作目と3作目は色のバランスがうまく行かず、今日中には終らず。

とりあえず少しまとまって来た3作目を額に入れて、眺めてみる。

この手漉き和紙は多色版には向かないのかもしれない。

まだ時間的には余裕があるのだが、もう版画用紙が切れてしまった。

今日届くはずの鳥の子紙は届かなかったし、手漉き和紙は全く届く気配はない。

☆版画の摺り作業が硬直状態になったので、夕刻にようやくDMの宛名を書いて、郵便局へ投函。

☆ポルトガルのファローのホテルは、やはりキャンセルしても払い戻しは無いことがはっきりした。

それでシンポジウムの主催者に打診すると、ファローに予定通りに宿泊して、翌朝にホテルへ迎えに来てくれることになった。

これで古都・ファローをゆっくり観光出来る。

妻が図書館から「ヤマザキマリのリスボン日記」という本を借りて来た。

それを読むと、驚くべきことが書いてある。

彼女たちが仮住まいした家にはトイレにドアが無く、床が傾斜していると言う。

しかも床が傾斜しているのはその家だけではなく、周りの家は全て床が傾斜していて、中には家そのものが傾斜している所もあると言う。

☆「心の花」宮崎歌会の福原美江さんから、7月の彫刻ツアーの報告記が掲載された「心の花」9月号が届く。

☆このパソコンのディスプレーが突然落ちる症状は、程度は軽くなったがまだ毎日起きる。

ところが動画を再生中にディスプレーが落ちても、音声はそのままである。

つまり、どうもパソコン本体とディスプレーの接続に問題が有るようだ。

しかし、ネットで検索すると、新しいパソコンではそういう症状は出ない、とある。

私のパソコンは昨年の8月に買ったばかりだし、春のベトナム・カンボジア旅行や妻との小旅行には最近はパソコンは持参していないので、持ち運び中のダメージも

無い筈である。

だからバックアップを取っての初期化も意味が無いのではないかと思える。


9月24日(日)

☆晴れ。

外の陽射しは相変わらず強く蒸し暑いが、今日は風があり、2階の書斎と作業アトリエを抜ける風はとても爽やかで涼しかった。

夕刻には外に出ても肌寒い秋の気配であった。

夕暮れから真っ黒な暗雲がたちこめて、夜には雨となる。

☆一日、木版画の摺り。

1作目は色を重ね直しして、なんとか落ち着いた。

夕刻に額装してみると、まずまずである。

妻からの感想も良い。

やはり大きい作品はインパクトがある。

木版画は時間が経つごとに色あいしっくりして来るので、展示中に少しずつ良くなっていくのではないのだろうか。

2作目と3作目も色を置いて行く。

うまくゆけば、明日中には摺りあがるかもしれない。

☆午前は、妻のライブの我が家でのリハーサル。

宮崎市内での某公共施設からの出演依頼があって、今月30日にいつものサポートミュージシャンの方たちとライブをする。

しかし私は同じ日に空港兄弟展の搬入展示作業なので、私の出演はない。

私は階下のリビングでの生演奏を聞きながら、2階で版画を摺る。

こういう雰囲気は、なんという贅沢だろうか。


9月23日(祝・土)

☆夜中から雨。

雨は昼前には上がる。

午後は再び雲が出て、曇天気味。

☆午前に木版画の摺りの準備。

いったん2階流し周辺の木版画関係の道具を片づけてしまっていたので、再び配置直しして、版画用紙を切る。

注文している手漉き和紙が届かない(ネットでは納期が注文から3日〜5日となっているが、実際は一月近くかかるし、問いあわせても返事も無い)ので、

手持ちの手漉き和紙をカットすると、96×66cmの和紙から今回の作品サイズの紙は2枚しか取れず、手持ちの和紙は5枚しかないので、全部で10枚分しか取れない。

10枚で3作品を作らなければならないので、1作品に3枚の紙しか使えない。

これでは埒が明かないので、月曜日に届く4つ切りの鳥の子紙を急ぎ注文する。

☆昼前に晴れ間が出たので、昼に妻と墓参。

☆午後から版画の摺り。

和紙は最初の摺りはとてもいい感じなのだが、色を重ねる度に湿すと、水の含みが良すぎて、先に刷った色が滲んでしまう。

色を重ねるごとに、毎回の事だが配色が悪く、うんざりとなる。

☆版画の作業をしていたら、本棚の上にまだデータの点検をしていなかったLet's Noteが残っているのに気付いた。

起動してマイドキュメントを開いてみたら、外付けHDDが壊れて消えてしまった大切なデータが少し残っていた。

特にアメリカ・ブルーヒルの作品を制作したSchoodicシンポジウムの全ての画像が這入っていた。

☆夕刻に、伸び放題になっていた庭の草を刈る。

今日は蚊には全く刺されなかった。

☆今日は某コンペの審査があり、今回も選外だった。

今年の国内コンペには、新作を作る時間が全くなく、旧作の応募だったので致し方ない。

ところが模型入選の作家に、受付番号が私と同じ番号の作家がいる。

どういうことなのだろう。


9月22日(金)

☆晴れ。

今日も蒸し暑い残暑。

夕刻に買い物から帰ってきて、車から玄関へ移動する間に腕のあちらこちらを蚊に刺された。

☆一日、木版画の版木彫り。

石を彫っている時のほうがどれだけ楽で楽しいか。

版画をやっている人たちの根気に脱帽である。

おそらく木版画用のシナベニヤと建材店のシナベニヤとは品質が違うのだろう。

妻がお世話になった版画家のアトリエを訪ねた時に、建材店で継ぎ目の無いシナベニヤを選んで買うと言われていたので、大丈夫だと思っていたのだが、

やはり建材店のシナベニヤは表層部の層がすごく薄くて、細心の注意を払っても直ぐに剥げてしまうし、接着剤の部分が凄く硬い。

やっと明日から摺りに這入れるが、果たして30日の空港兄弟展の搬入までに間に合うか。

ポルトガルのシンポジウムの準備もしなければならない。

☆某コンペからの作品が朝一に返って来た。

中国西安には写真を送るだけで良くなったが、電子パネル展示用に3MB以上の画像を送れという指示なので、午後に海辺へ走って写真を撮り直す。


9月21日(木)

☆晴れ。

今日も残暑が厳しく、宮崎県内はいずこも真夏日を記録。

☆木版画3作目の版木彫り。

彫刻刀の切れ味が悪いのか、シナベニア自体が彫りにくいのか、作業が思うように進まない。

夕刻にはとうとう気力が切れる。

☆そろそろポルトガルの準備にもかからなければならないし、持参する道具等についての確認もしなければならないと思っていた。

そこへ、夜になって主催者から、”準備万端かい?間もなく会おう。”とメッセンジャーが届いた。

それで、”リスボンとファローのホテルの予約はした。道具に関して少し質問があるので、後ほどメールを送る。”と返事をしたら、思いがけない返答が返って来た。

ファローのホテルの予約は必要ないので、キャンセルしなさい、ファローでは空港に迎えに行く、というのである。

私は古いポルトガルの町並みが残っているファローに一泊したかった。

それにホテルの予約の資料では、予約のキャンセルについては払い戻しはしない、と明記されている。

ファローの観光自体は、私を迎えに来てくれた人に案内してもらえばよいが、ホテル代が返ってこないのは痛い。

道具に関してはグラインダーもディスクも主催側で準備してくれるので、私個人的な道具を持って行けば良いということ。


9月20日(水)

☆晴れ。

今日も非常に蒸し暑い残暑の厳しい一日。

☆エントリーしていた第9回シルクロード国際美術展の招待通知が届いた。

私は4回、5回、6回展に招待されているので、久しぶりの招待である。

コロナ禍の中では1回分が休会しただけで継続開催されていたようだ。

問題は、23日までに通関手続きのためにインボイスを送れ、とある。

私は数点をエントリーしていたのだが、選ばれたのは国内のコンペに先日エントリーして選外となり、私の手元にない作品である。

インボイスには段ボール梱包での重さと梱包寸法を記入しなければならない。

23日までにインボイスを記入して送るためには、22日までには作品を返却してもらわねばならない。

それでコンペの事務局に問いあわせて、着払い発送担当の運送会社の連絡先を教えてもらう。

運送会社の担当者に確認すると、着払いの返送作品は明日に一斉発送の予定だと言うこと。

事情を話して、私の作品だけを今日中に発送してもらうことになった。

☆これで作品が22日までには返って来ることにはなったが、このシルクロード国際美術展は、これまでは彫刻作品は重いので、写真だけ送ればよかった。

中国国内作家の彫刻は現物展示だが、海外作家の彫刻作品は電子パネルでの展示であった。

それで西安の事務局に確認したところ、やはり彫刻は写真だけの送付で問題ないという返事であった。

☆ということは、この作品は22日までに私の手元に返って来るので、10月の兄弟空港展には出品できる。

コンペの事務局からいつ返却されてくるのかわからなかったので、今回の兄弟展の出品予定リストから外していたのである。

今日が空港担当者への出品作品データの提出締め切り日だったので、午後はもう一度版画作品を点検して、追加する。

その結果、私の出品数は彫刻が11点、版画が26点の計37点の展示予定数となった。

版画は小作品が多いので、2段掛け展示で何とかなるだろう。

これだけの出品数があれば、なんとか兄弟展としての面目は保たれるだろう。

夕刻までに空港担当者へ、展示作品の全データをメールで送る。

新作版画のタイトルが未定のものは、金曜日までに送ればよいとのこと。

☆夕刻に3作目の版画の版木を彫る。

☆メルカリで注文していた「俵万智 『牧水の恋』」が届く。

全くの新品美品だった。

早速、作業の合間に拾い読みをする。

牧水(あるいは庸三)と小夜子との間の女の子の誕生の件については、あらゆる資料を読み込んで相当に詳しい状況が描かれていて驚いた。


9月19日(火)

☆夜中は非常に蒸し暑く、一日、体がべたつく。

残暑の厳しい晴れ。

夕刻に軽いにわか雨。

☆午前に版画3作目のプラン。

なかなかまとまらず、午後にようやく下絵を描き、版木へ写す。

3作目も版木が3枚になった。

午後半ばから版木彫り。

☆ネットで調べると、版画の作品価格はすごく安い。

何枚も複製出来るからだが、しかし同じように何枚も擦れるのは特別な技の有るプロの摺り師でないと不可能だ。

私たちのような素人は、10枚刷っても殆ど上りがそれぞれに違って、満足できるのは1,2枚しかない。

一点制作と変わらない。

しかも版画の制作には普通の絵画以上に、大変な体力と手間がかかる。

まだ石を彫っている方が、体力と時間を費やした分の作品価格が設定できる。


9月18日(月)

☆晴れ。

日中は残暑が厳しく、夕刻に買い物に出ると、むうっと熱風!

☆一日、版画2作目の版木2枚目と3枚目の彫り。

☆いまのところ、10月の空港兄弟展への出品予定作品は彫刻9点と版画11点の計20点。

彫刻は前回の2014年の兄弟展以降の作品で、手元にある出品可能な作品はこの点数しかない。

コロナ禍に這入って、彫刻の小作品は殆ど作っていない。

いくら兄弟展だからと言って、これではあまりにも貧弱なので、版画の点数をもう少し増やす必要があるかもしれない。

前回の2014年の兄弟展では、彫刻を29点、それに海外設置の作品パネルをかなりの数展示しているので、もう一度対応を考え直そう。


9月17日(日)

☆秋晴れ。

朝は気持ち好い爽やかさだが、残暑はまだまだ厳しい。

午後からは雲が出て、夕刻ににわか雨。

☆午前に木版画2作目のプラン。

昼前から下絵にかかり、午後から版木を彫る。

2作目は版木が3枚必要になった。

☆ネットで版画関係の調べ物をしながら、通信教育みたいなものを利用するのも確実かな、と考えたりする。

私の周りには、木版画について気軽に教えを乞う作家が居ない。

完全に独学の素人作業である。

彫刻の場合は、シンポジウムに参加したり作家たちとの交流によって、多くのことを学んできた。

やはりきちんとしたことを学ぶ場が無いと、遠回りばかりで時間を浪費するばかりである。

☆俵万智「牧水の恋」の単行本をネットで注文しようと思ったら、殆ど在庫がなく、注文出来なかった。

ようやくメルカリで出ていたので、注文する。


9月16日(土)

☆晴れ。

ようやく朝の空気が秋らしい爽やかさとなって来た。

庭で鳴くツクツクボウシに秋の到来を感じる。

しかし、日中はまだまだ残暑が厳しい。

☆木版画、彫り。

2枚目にかかる。

多色版なので、1つの版画作品に数枚の版木が必要。

ネットで丸刀の研ぎ方を観る。

どうやら私の使っている砥石では不十分なようだ。

やはり幾ら研いでも全く切れない。

時間がもったいないので、ホームセンターへ行って、新しい丸刀を買って来る。

予定では、10月の兄弟展では版画の新作を3点は展示したいのだが、全ての作品データを20日までに空港ビルの担当者に提出しなければならない。

☆伊藤一彦先生の新刊、「牧水・啄木・喜志子ー近代の青春を読む」が、出版元の”ながらみ書房”から献本として送られてくる。

版画を彫る手を休めて、そのなかの”俵万智『牧水の恋』を読む”を一気読みする。

『牧水の恋』は、妻は出版されてすぐに図書館で借りて読んでいるが、私はまだ読んでいない。

牧水の恋、とは牧水の初恋の女性・園田小枝子との恋愛について、俵万智が牧水の歌から丹念に読みこんだ画期的な内容である。

実は牧水の初期の歌は、この小枝子との恋愛による歌が大半なのだが、しかしその恋愛の相手については殆ど謎のままであった。

一度、伊藤先生と二人で飲んだ時に、この事情について伊藤先生に教えていただいた。

牧水の大恋愛の相手の女性が、園田小枝子と言う名前で、どういう立場の女性だったのかが明らかになったのは、つい最近の昭和50年代になってからだという。

それは、まだ小夜子自身や関係者の方が存命中のあいだには、彼らのプライバシーは大っぴらに明らかにすることが出来なかったからだということであった。

そして実は、小夜子とのあいだの最終場面で、小夜子は妊娠し、牧水はその子供を里子に出し、結局はその里子は亡くなってしまうのだが、俵万智は諸資料から

牧水は喪服を着て里子の葬式に出たのではないか、と推論しているとのこと。

この事実は、私は初めて知って、びっくり仰天である。

伊藤先生とお話した時にも、牧水との生活の中での小夜子の妊娠と出産のことは出てこなかった。

もっとも、当時は牧水と小夜子は、後に小夜子と再婚した小夜子の従弟の赤坂庸三と同居していた。

この事実を知った時に、俵万智は「椅子から転げ落ちるかというくらい驚いた」そうだ。

したがって、この小夜子の妊娠出産した子供(女の子)が、牧水の子供なのか、庸三の子供なのかはわからないようだ。

このことも牧水をかなり苦しめたようだ。

そして小夜子は実家に連れ戻され、牧水の5年間の恋は終る。


9月15日(金)

☆晴れ。

残暑の厳しい蒸し暑い一日。

午後からは曇り気味。

☆木版画の彫りに這入る。

ところが版木の制作台が以前の小さい作品サイズのものなので、下部にはみ出した部分を彫っていて、つい抑え込んでしまって版木が跳ね上がり、木くずを

辺り一面に撒き散らしてしまうことが頻発。

これでは作業にならないので、ホームセンターに走り、カットされたシナベニヤを買って来て制作台を作り直す。

☆そして、毎度だが合板のシナベニヤは接着剤部が硬くて、なかなか切り込めない。

彫刻刀を研ぎながら作業するが、私は刃物研ぎが大の苦手で、なかなか切れ味が良くならない。

木版画関係の資料を見ると、大きな面のさらいは木彫用のノミで木槌で叩いて彫り込んでいるようだ。

私は全くの素人作業なので、試行錯誤ばかりである。

今日一日で、一枚の版木を彫るのが精一杯であった。


9月14日(木)

☆曇りがちの晴れ。

蒸し暑い一日。

夕刻から雨模様。

☆午前に、先日のMRI撮影のCDを持ってクリニックへ。

結果は・・・・、癌は無いよ!MRIできちんと画像を撮っているので間違いは無い、癌はないよ、問題ないよ。

CDにはMRI担当者の診断所見も添えられていた。

幾つかの点検項目で、いずれも異常は認められないという報告であった。

やれやれ、一安心である。

ただ数値が高かったのは事実なので、今後は年に1度は診察した方がよい、とのこと。

心配していた妻にラインで結果を報告する。

これで今年の健康診断では、肺がんも胃がんも肝臓がんも、そして前立腺がんも無かった。

憩室炎が再発するのは気になるが、いまのところ特に健康状態には問題ないということである。

☆クリニックの診断結果を持って、O内科へ報告へ行く。

先日の痛風の血液検査も、特に問題は無いということ。

☆午後半ばから、版画の下絵を版木に写す作業。

ところがネットで取り寄せたトレッシングペーパーの透過度が悪く、下絵をトレースするのが大変だった。

夕刻までになんとか工夫して、版木に下絵を写す。

トレッシングパーパーは、美術関係の専門業者のロール巻きのものを注文し直す。


9月13日(水)

☆一日、本格的な雨。

特に午前は激しく降る。

☆木版画のプラン作成。

ようやく夕刻から下絵を描き始める。

大きな真っ白い画面(といっても32cm角)に線を引いていく作業はわくわくする。

画家の皆さんは同じ昂奮を抱かれるのだろうが、絵を描くのが苦手だった私は、昔から白いキャンバスに向かうのは恐怖だった。

私の木版画はフォルムの組み合わせで、フォルムの線引きが石のイメージスケッチと同じなので、版画の下絵を描く作業はとても楽しい。

4つ切りサイズのトレッシングペーパーとカーボンも届いたので、明日からは版木の作業にかかれそうである。

☆木城町の石井記念友愛社の資料館にはル、ルノアールのココ(ルノアールの愛息)のブロンズ像が設置してある。

このブロンズ像は、もともとは石井十次を支援していた大原孫三郎氏が所有していたものである。

石井十次亡きあとの友愛社はいったん解散し、その多くの資料や建物は柿原政一郎氏(高鍋町名誉町民)が守られていた。

柿原氏の次女の夫であった長津久男氏が、大原社会問題研究所を手伝っていたこともあり、戦後に石井記念友愛社を再興した

石井十次の孫・石井こう(左は九、右は虎)一郎氏と親交が深まり、昭和32年にこう一郎氏のために長津氏が大原孫三郎氏にお願いしてそのココ像を

友愛社に贈られたものである。

長津氏はそのココ像を、膝に抱えて夜行列車で石井記念友愛社に運ばれたと言う。

当時の友愛社の静養館の前の築山には、戦争で供出された石井十次胸像の撤去された後の台座のみが残っており(台座は児嶋虎次郎のデザイン)、ココ像はその

台座の上に設置され、長い間、雨晒の状態であった。

私が高校時代に友愛社を訪ねた時には、築山のココ像は蜘蛛の巣だらけで、これがまさかあのルノアールの本物の彫刻だとは信じがたい状態であった。

その後、資料館が設置され、ココ像は無事に室内に永久展示された。

☆こういう経過を殆どの人たちが知らないので、あまりにも雑然と蜘蛛の巣だらけで屋外に設置してあったココ像は、偽物ではないのかという人々が増えて来た。

そこへ今春、柿原政一郎財団が高鍋町図書館に寄付金を贈与され、高鍋町図書館が”柿原政一郎記念高鍋図書館”とネーミングされた折に高鍋町を訪れられた

川上典子様(柿原政一郎氏孫)によって、ココ像がルノアール作の本物であり、その経緯についての詳細を明らかにされた。

それで、友愛社としては会員報である「むつび会報」にそのことを記載され、ことの詳細を会員の皆さんに知っていただくことになった。

☆実は私とココ像には深い関わりがあり、「むつび会報」編集担当者からの取材を受けている。

と言うのは、私は屋外に設置してあったココ像を資料館の中に移設する作業を担当していて、その時期についての詳細等を求められているのである。

その時に、工事の工程の関係からか、台座から外されたココ像は私が預かり、ココ像は我が家に3日ほどあったのである。

それで今日の午後は、2階の書斎で版画の下絵を考えながら、当時の作業日誌を調べていたのだが、結果的に、当時の作業日誌は例の白蟻被害に遭って

消滅してしまったらしいとわかった。

後日、移設工事を依頼した児嶋草次郎理事長が、私がココ像を持ち逃げするのではないかと凄く心配した、と語っていたので、我が家にあったのは事実である。

その後、高鍋町美術館が開館し、開館記念の「プチパリ」展にこのココ像を展示することになり、私は再び資料館の中のココ像を台座から切り離し、美術館へ運び、

展示用の新しい台座に設置している。

この時は作業日誌に明確に作業時間等を記している。

ちなみに、柿原政一郎氏は昭和36年に死去されているが、当時生徒会長だった中学生の私は、中学生代表で町民葬に出席している。


9月12日(火)

☆日中は残暑の厳しい晴れ。

夕刻ににわか雨。

夜になって本格的な雨。

☆午前は高鍋町内の総合病院で、人生初めてのMRI撮影。

始めに担当医の問診を受けて(7月のO内科での健康診断での各検査数値は、全て問題ないということ)、続いて診察着に着替えて静脈にリンゲルを繋がれ、

リンゲル液に繋がれたままMRI室へ這入って、そのままMRIのトンネルの中に納められる。

MRI検査は強力な磁石と電波を使って、磁場を発生させて行い、 強力な磁場が発生しているトンネル状の装置の中で、FMラジオなどで用いられている周波数の電波を

体にあて、体の内部の断面をさまざまな方向から画像にするということ。

そのため、体には一切の金属物(入歯も含む)の装着は禁止される。

☆私は骨盤部のMRI検査だが、骨盤部の検査は45分かかると言う。

それでは今のうちにトイレに行かせて欲しいと伝えると、尿が溜まっていた方が画像が綺麗に撮れるので我慢してくださいということだった。

その検査の磁場の音がものすごい。

まるでアニメの世界のような様々な異なった音が響き渡るので、ヘッドホーンを装着され、流れて来る音楽で磁場の音をやわらげる。

私はじっと身動きできないまま、彫刻のプランや版画のプランを考えることに集中して過ごす。

検査の最後の10分前に静脈から造影剤を注入される。

血管から冷たい液が駈け廻って来るのがわかる。

この時点で体温が急上昇して苦しくなる人が多いと言うことだったが、私は体温は上がらなかったが、次第に例のコロナ後遺症の胸の圧迫感に苦しめられるようになった。

ようやく気持ちが限界に達する寸前で、長い検査は終った。

今日は撮影のみなので、画像データのCDを受け取り、2,3日後にクリニックでMRI画像を元に前立腺の診断をしてもらう。

☆午後は版画のプランを考える。

10月の兄弟展までもう2週間になってしまった。

これでは新作の版画は1,2点しか出来ない。

☆体調も少し良くなって来たのか、今夜のビールは久しぶりに凄く旨かった。

そして私の手料理もすごく美味しかった。

健康で、美味しくお酒が呑めて、美味しい食事が出来るのがこの上ない幸福である。


9月11日(月)

☆夜中に雨。

夜明けてからは快晴。

残暑の厳しいいちにち。

我が家の庭で時折、思いついたようにツクツクボウシが鳴く。

☆7月のO内科での健康診断で、PSA検査値が高いので、一度泌尿器科で調べてもらうように言われていた。

PSAの値が高いと前立腺がんに成りやすいと言うこと。

私の周囲でも前立腺がんに罹るひとが多いので、この際、きちんと調べて貰うことにした。

体調に不安を抱えたままでは海外のシンポジウムには行けなくなる。

ポルトガルへ発つまでに、体の不調を解決しておきたい。

☆午前に行きつけのクリニックでO内科の診察結果データを見せて、エコー診断をしてもらった。

一度MRIを撮ってもらって、きちんと調べようということになり、その場で町内の総合病院へ検査の依頼をしてもらった。

明日の午前に検査を入れてもらった。

☆午後は版画用のシナベニヤをカッティングして、素地塗りをする。

もう額縁とマットを注文しておかないと間に合わないので、ネットで額縁の種類とマットのサイズを調べていたら、私の考えていた版画のサイズではマットとのバランスが

悪いことが分り、版画のサイズを変更する。

50cm角の額縁とマットを注文する。

やはり50cm角になると額縁の値が張る。

☆「心の花」宮崎歌会の福原さんから、7月の彫刻ツアーの報告記事が「心の花」9月号に掲載された元原稿が送られて来た。

やはり第2回のツアーも考えられているようだ。

☆午後に版画の額縁を検索している時に、突然、再びパソコンの画面が落ちるようになってしまった。

丁度注文をかけて、振込み手続きをやっている最中に画面が落ち、何度パソコンを動かしたりしても直ぐに画面が落ちて、非常に困った。

パソコンの症状は元に戻って居なかったのだ。

EDIONの担当者の指示したように、再び症状が出たら、バックアップを取ってパソコンを初期状態に戻すしかないようだ。

いくら保証期間であっても、修理に出すと高額な修理代が派生すると言うことだった。

体調もパソコンもガタガタで、やれやれである。


9月10日(日)

☆日中は晴れ。

まだまだ残暑が厳しい。

午後後半からは雲が出て、夕刻から雨となる。

☆一晩中、気持ちの悪い寝汗をかき続ける。

朝起きるのはかなりきつかったが、寝汗で少し毒素が抜けてくれた気がする。

午前は体を休めて過ごす。

お昼は、少し美味しくいただけるようになった。

☆寝てばかりもおれないので、午後は某コンペの梱包作業をする。

暑くて汗びっしょりになったが、汗をかいたほうが体中の毒素が抜けてゆく気がする。

☆注文していた「地球の歩き方 ポルトガル」が届いたので、作業の後は一泊滞在するファローについて調べる。

小さな町で、宿を取った大聖堂周辺を歩いて回るだけで、観光できるようだ。

ファローはポルトガルにおけるイスラム勢力の終焉となった町で、昔ながらの古い町並みがそのまま残っているということ。

先日大地震のあったモロッコの対岸に位置する。

☆ポルトガルには何の縁もゆかりも無いと思っていたが、実は私がブロンズ立像を制作した伊東マンショを含む天正遣欧少年使節団の一行がヨーロッパに這入ったのは、

ポルトガルのリスボンからだったということである。

今から441年前のことである。

☆夕刻5時から、仲町公民館の敬老会と夏祭りの慰労会。

とても酒を呑める体調では無かったが、折角の祝い事なので、出かける。

近年は何處の地区でもそうであるように高齢化が進んでいるので、従来のように70歳以上の方たちを敬老の対象にすると、お祝いする側よりもお祝いされる側の方が

多くなってきた。

それで今年の総会で、敬老者の年齢を75歳以上に引き揚げた。

従っていったんは敬老される側であった私も、今年は敬老する側となった。

来年からは再び敬老される側に成る。

しかし高齢化と言っても、仲町公民館は後期高齢者が少なくなり、私は男性では上から3番目の年齢になってしまった。

そして少子化に反して、仲町公民館は子供たちが一挙に増えた。

こういう子供たちの賑やかな声が響き渡る公民館は他にない。

4年ぶりの仲町公民館全員での集いはとても楽しいものだった。

妻たちの婦人会は、「買い物ブギ」のダンスを披露する。

私も皆さんと一緒に居ると、ビールをジョッキ2杯呑むことができた。

おかげで体調もかなり回復できた。


9月9日(土)

☆晴れ。

夜中はとても肌寒かったが、日中は厳しい残暑。

☆朝一にO内科へ電話。

やはり発熱外来となり、今日はもう予約が一杯で診察は出来ないということであった。

最近お世話になっている別の内科医院へ電話すると、まず抗原検査キットで陰性か陽性かを判断してください、陰性だったら来院してください、陽性だったら

診察は出来ません、抗原検査キットはドラッグストア等で購入できます、ということ。

ドラッグストアの這入っている大型量販店は10時にならないと開店にならないので、行きつけの薬局に電話すると取り扱っていないと言うこと、置き薬の中局医薬品

の担当者に連絡すると土曜日はお休みと言うこと。

10時になって大型量販店に行くと、系列のストアではどこも扱っておらず、高鍋町内で取り扱っている薬局は無いのではと言うことであった。

そこへ妻が別の大型ドラッグストアに電話してみたら、というので確認したら、取り扱っていた。

早速キットを買って検査してみたら、陰性反応で、コロナの疑いは晴れた。

病院の方からも検査キットの結果への問い合わせがあり、陰性なら来院してくださいと言うことであった。

私の体調不良はやはり大腸憩室炎から来ているようだと言う。

エコー検査でも、胆のう、腎臓には全く異常は無く、憩室炎から発熱することもあります、と言うことで整腸剤や痛み止めの薬を出して貰った。

☆コロナの疑いも晴れ、エコー検査でも異常はなく、状況的には何の不安も無いはずだが、体調は依然、芳しくない。

午後もずっと和室で横になっていたが夕刻近くなって、猛烈な胸の苦しさで寝て居れず、リビングでぼんやり過ごす。

☆少し気分も落ち着いてパソコンをいじると、ここ10日ほどパソコンの画面がすぐに落ちて作業にならない。

原因をネットで調べても、さっぱり対応の仕方がわからない。

1年前に買い換えたばかりのパソコンなので、そんな短期間に修理に出すほどのトラブルが生じるとも思えない。

それで、気分も少し楽になったので、パソコンを抱えて購入したEDIONへ行き、調べて貰った。

最初に対応してくれた初老の担当者はあまり詳しくないようだったが、傍らで別な作業をしていた若手のベテラン担当者が時折り作業を指示していたが、後半は

ベテラン担当者があれこれ操作してくれて、なんとか正常に回復した。

対応料金も無料だった。

帰宅して、パソコンを開くと、まるで新品状態に操作がスムーズになっていてびっくりした。

☆体調はまだ微熱が続いて、きつい。

夕食も食が進まないし、お酒も全く呑みたいとも思わない。

今夜も早々に床に就いたが、しばらくして再び猛烈な胸の圧迫感で寝ておれなくなり、処方してもらった痛み止めを服用する。

痛風と憩室炎以外の異常は無いはずなのだが、この胸の圧迫感はコロナの後遺症が酷かった時の症状とまったく一緒である。


9月8日(金)

☆夜明け前に雨。

日中は晴れ。

☆どうも体調が芳しくない。

夜中もきつくて、殆ど眠れなかった。

午前はパソコンに向かってのデスクワークだったので、何んとかやり過ごすことができた。

☆しかし午睡をすると動けなくなり、結局そのまま寝室へ上がって、夕刻まで寝る。

ところが夕刻から次第に熱が出てきて、37,8度まで上がってしまった。

妻からはまたコロナに感染したのではないか、と再び和室に隔離されてしまった。

今、高鍋町ではコロナ感染が凄い勢いで拡がっているし、2度目に感染した人も多い。

☆明日に病院へ行く事にして、今夜はお酒も飲まずに雑炊を食べて直ぐに寝る。


9月7日(木)

☆快晴。

☆朝一にO内科へ。

7月の健康診断の時には尿酸値は正常だったのですが、最近飲み食いが多かったですか?とO先生。

いや、殆ど外食することもありません。

それではとりあえず再度血液検査をして、痛み止めを出しましょう、ということ。

血圧の薬ももう10日後には切れるので、血圧の薬も出してもらう。

☆午前に、締め切り間近の某コンペの応募登録作業をする。

しかし何度やっても、登録確認しか表示されず、エントリー出来ない。

事務局に電話すると、やはり原因がわからないので、とりあえず登録画面をコピーして送ってください、と言うこと。

それで事務局で処理してもらって、登録が出来た。

☆午後はホームセンターで作品梱包用のコンテナを購入し、台座と本体の接合作業。

今回も新作を作る時間が全くなく、過去の作品の台座を作り直してのエントリーとなる。

☆O内科から処方された痛風の痛み止めの薬は、やはりかなり効果が出て、夕刻までには痛みも少し弱まった。

だが今朝からまた右わき腹に鈍痛がする。

どうやらまた大腸の憩室炎の再発の気配である。

もう74歳になるとあちこちに綻びが出て来る。

☆ポルトガルの入国のことを調べたら、今はコロナ制限は撤廃されて、コロナ以前の状態に戻っていると言うこと。

5月にベトナム・カンボジアへ行った時も用意していた陰性証明書を求められる場面も無く、日本へ帰国した時も入国審査がコロナ以前よりスムーズになっていた。


9月6日(水)

☆晴れ。

朝夕は涼しくなったが、日中はまだまだ熱暑である。

☆一日、アンジェラスの森で作業。

昨日とは打って変わって、非常に蒸し暑く、蚊がとても多かった。

夕刻までに作業を終えて、海辺へ走り、いつものように海を背景に画像を撮る。

台座を入れ替えてみると、作品の印象が全く異なってくる。

☆海岸へ向かう途中に駅前ロータリーの”MOON DANCE”の前を通ったら、何時もになく、とても清々しく、清楚で凛として美しい。

我ながら感動して見上げる。

☆昨日の起き抜けから左足に痛風が出て来た。

近年は痛風が出ても1,2日で痛みは引くが、今回は赤くパンパンに腫れてきて歩くのも苦痛で困難である。

夕刻に病院に行こうと思ったら、行きつけのO内科は水曜日は午後休診だった。

また昨日は朝から鼻水とクシャミの連続で風邪気味なのだが、今日は体がかなりきつく、アンジェラスの森での作業もきつかった。

今夜は妻が町内会の婦人会の集まりで不在だったのだが、風邪気味で気分が悪く、独りの夕食は何を食べても不味くて、妻が帰宅する前に床に就く。


9月5日(火)

☆夜明け前と朝のうちに何度かにわか雨。

昼前後は良く晴れたが、午後と夜にも何度かのにわか雨。

☆朝一に、デザインオフィスからメールで届いていた空港兄弟展のDMゲラの校正。

私と兄の作家データ配分が、兄の個展に変更した時の指示のままになっていたので、修正を指示。

☆もう一と月後はポルトガルである。

まだリスボン着の夜と翌日のファロでの宿泊ホテルを予約していなかったので、ネットで予約する。

案の定、リスボンは10月5日に宿泊できるホテルは、もうほとんど空室がないか、1,2室しか空いていないホテルばかりであった。

リスボンは夜に着いて、翌朝も早いので空港近くのホテルを予約する。

ファロはまだ込んでいなかったが、こちらも空港近くで、大聖堂近くのホテルを予約する。

☆午後から久しぶりにアンジェラスの森へ上がる。

某作品の台座を作らなければならない。

途中で何度か雨になったが、作業は続けられた。

やはりアンジェラスの森は涼しい。

特に雨の降った後は、寒いくらいに涼しい。

☆夕刻に、大きめの版画制作用に4つ切りサイズのカーボン紙とトレッシングペーパーをネットで注文する。


9月4日(月)

☆晴れ。

非常に蒸し暑い一日。

宮崎県内は各地で猛暑日となり、西都市は今年最高気温の36,1度。

しかし今年の夏は異常に気温が高かったと言うけれど、高鍋町で2013年の夏に開催したあかりプロジェクトの公開制作では、連日38度を越えていた。

☆午前に、この夏の2つの版画展で売れた作品の補充作業。

10月の兄弟展に向けての準備。

☆午後は妻のボーカルレッスン。

私はしばらくは休養して、2階の書斎でデスクワーク。

調べ物をしたり、10月の兄弟展のための版画のアイデアスケッチなど。

☆今日のヤフーニュースで、あるプロジェクトのために渋谷でAIのカメラを100台設置して、通行人の全ての人のデータを記録していたと言う驚愕の出来事。

昨日の映画どころではない現実の恐怖。

それが大きな話題にもならない底知れぬ怖ろしさ。

街を歩いているだけで子細な個人情報がAIで採取されることに、人々は何の恐怖も感じないのだろうか。


9月3日(日)

☆晴れ。

残暑の厳しい一日だったが、朝の空には鱗雲が拡がり、空気も涼しく、いよいよ秋の気配となった。

ただ今年の夏は蝉の鳴く時期が凄く短かった気がする。

近年は夏の初めから鳴いていた蜩が今年は殆ど鳴かなかった。

今頃は秋を告げるツクツクボウシも、はるか遠くで弱々しく鳴いているのが耳に入るくらいである。

☆朝のうちに、10月の兄弟展の件で、展覧会の表記を”田中隆吉・田中等 兄弟空港展”に変更し、あいさつ文も私はコロナ禍以降に取り組んでいる木版画を

主体とした展示になると変更。

その修正版を兄に届け、空港ビルの担当者にも送って了承してもらう。

おそらくこちらの方が展覧会としてしっくりくるし、私のポジションも確かになる。

☆一段落したので、妻と昼前に宮崎市へ出て、トム・クルーズの”ミッション・インポシブル”を観る。

映画自体は完全な娯楽アクション映画で、ハラハラドッキリの痛快な内容だった。

ただそのストーリーの背景になっている、ウイルスソフトが人格を持ち、世界を支配するという設定が、いまや未来の出来事では無く、全く現実のものとなっている。

データーがインターネットによって人格を持ったウイルスに乗っ取られ、書き換えられるのを防ぐために、デジタルデータを紙媒体に書き換えている場面は、

これからくる近い将来の姿を目の辺りにしているようだった。

今の世の中はペーパーレスで、全てのデータがデジタル保存になってきている。

しかしそのことによって、人々の作業はより煩雑になり、ウイルスによってあっという間に汚染、乗っ取り、消滅される危機が日常的になってしまっている。

現に、私自身がパソコンの中のデータが、外付けHDDの破損で、あっというまに消えてしまった。

アナログ時代の資料は、こういうことは起き得ない。

また空港内での全ての人の顔認証はすでに現実のものである。

中国では大きなイベントで、顔認証によって指名手配の人物が多数捕まっている。

映画の中の未来の恐るべきデジタル構築の世界の怖ろしさは、すでに現実の方が先行してしまっている。

やはり、未来には希望は無い。

底知れぬ怖ろしさしか、未来には横たわって居ない。


9月2日(土)

☆夜中と午前に数度、にわか雨。

日中は雲が多いものの、晴れ。

☆午前に”靜”での二人展礼状の校正および葉書への印刷作業。

そして宛名書き。

午後に投函。

☆午後に、”靜”二人展で購入していただいた作品の梱包と、宅急便での発送。

その足で、宮崎市のホームセンターへ走る。

10月の空港兄弟展では、旧作ばかりでは余りにも酷いので、可能な限り、これまで制作したサイズより大きい版画を数点制作して展示したい。

手持ちの版木のシナベニヤはいつもの小ぶりのサイズで全てカットしてあるので、新しくシナベニヤを買いに行く。

そして下絵も大きくなるので、4つ切りの画用紙を買う。

☆実はこの兄弟展のタイトルを兄の個展に変更したことが気になっている。

対外的には、兄の個展なのに、展覧会に行ってみたら私の作品も展示されていると言うのは、やはり何か妙である。

それで頭を切り替えて、私の作品を版画主体にして、”田中兄弟絵画彫刻展”ではなく”田中兄弟展”にすればある程度格好がつくのではないのか・・・。

そのためにはこれから新作版画を数点は制作しなければならない。


9月1日(金)

☆晴れのち曇り

☆あっという間に9月になった。

今日からは今年の後半活動になる。

☆午前に”靜”二人展の決算をする。

☆そして10月の空港での兄弟展の準備に這入る。

実はこの兄弟展という名称が厭でたまらず、兄と相談して兄の出版記念個展に変更してもらった。

兄弟展と言う名称だと展覧会の重さは兄と折半となり、私の展示作品にも大きな責任がのしかかって来る。

しかし今回の兄弟展は、兄の出版記念開催が発端であり、兄の出品点数がそろわないので、私に穴埋めの賛助を求めてきたものである。

したがって、私はこの兄弟展への準備は何も出来ておらず、ただとりあえず在庫の作品を展示するだけなので、未発表の新作は全く無い。

彫刻作品の殆どは空港展ですでに発表してきたものだ。

こういう出品内容で、兄弟展と言う形で作品発表することは作家の姿勢が大きく問われる。

私の賛助出品と言うことは”あいさつ文”で触れ、DMにも明記することにしてもらった。

☆午後は”靜”での二人展とライブへの礼状作成。

今日は下書きで終わる。



Back to toppage

2023   1-2   3-4   5-6    7-8   9-10    11-12

2022   1-2   3-4   5-6    7-8   9-10    11-12

2021   1-2   3-4   5-6    7-8   9-10    11-12

2020   1-2   3-4   5-6    7-8   9-10    11-12