Back to toppage このページでは彫刻家・田中等および宮崎の彫刻に関する最新情報をお届けします。 過去の日記 2022 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 2021 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 2020 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 |
2022 | 12月31日(土) ☆快晴。 風も無く、穏やかな大晦日。 ☆日中は障子の張り替え作業。 家を建てる時、手間は分かっていてもなるべく障子を取り入れようと主張したのは私なので、障子の張り替え作業は私の役目である。 しかし、なんて私は不器用なのだろうと、ブツブツ言いながら悪戦苦闘する。 これで今年の大掃除は終わり。 ☆今年の大晦日は、久しぶりに宮崎市内のホテルで過ごすことにした。 夕刻に妻と宮崎市へ出て、宮崎観光ホテルにチェックイン。 今年最後の晩餐は市内のレストランで摂ることにした。 ☆予約していた”ランプ亭”へタクシーで向かう。 扉を開けると、予約で満席の賑わいだった。 ”ランプ亭”の先代のオーナーは、私が独身時代に佐土原町に住んでいたころにお世話になった方で、何度かご夫妻とは酒を交わしたりした。 お店にも一度連れて行って貰ったことはあるが、私は貧乏な赤提灯派なので、独身の身でその後にステーキのお店に足を運ぶ余裕などなかった。 だが近年、妻と宮崎市内で食事を摂る機会が増してきたので、ときおり”ランプ亭”を検索すると、現在は息子さんが後を継がれていて、グルメの間で全国的に 有名なお店になっていることを知った。 いずれ再訪の機会をと思っていたので、今回は予約を入れた。 宮崎県文化賞受賞のお祝いに高価なイタリアワインをいただいていたので、折角なら美味しいステーキのお店でいただきたいと思っていたのである。 ワインは持ち込み料を支払えば、持ち込み出来た。 ☆店内には瑛九の油絵小品が掛けてあったり、有名人のサイン額がたくさん掛けてあったり、やはり人気のお店であるようだ。 そして大晦日なのに、次々に予約客が訪れて来る。 メインメニューに子供たちも大好きなカニクリームコロッケ等があるので、子供連れの大家族もテーブルを埋めている。 ネットの口コミでは、気ぜわしくて料理の出てくるのが遅いというものが多かったので不安だったのだが、その理由が分かった。 料理を作るのはオーナーシェフ独りで、次々にオーダーの這入る多種多様なメニューを耳で受けながら、次々にこなしてゆく。 殆どスーパーマン的手際の良さである。 そしてどの料理もとても美味しい。 私は妻とお喋りしながら料理の出て来るのを待っていたので、料理が出て来るのに時間が掛かるのは、全く問題なかった。 満足してお店を出る。 ☆ホテルに帰ると、くだらない紅白歌合戦など観る気もせず、途中のコンビニで買った安いワインを飲んで過ごす。 ☆今年一年は、本当に充実した一年でした。 毎日、この日記を訪れていただきありがとういございました。 来年もよろしくお願いいたします。 12月30日(金) ☆午後は雲が多かったが、おおむね晴天。 風のない穏やかな冬日。 ☆午前に墓参。 ☆日中はリビングの私の山積みの書類等の整理と和室の整理。 ☆リビングの整理をしていたら、石井記念友愛社の毎月発行「ゆうあい通信」のなかの「むつび」に原稿を依頼されていたことを思い出した。 来年2月発行の「むつび」に掲載されるもので、締め切りが年明けの1月15日である。 原稿依頼を受けた時点では、年末にはもうモニュメントの仕事は終わっている予定だったので、原稿を書く時間は充分にあると思っていた。 しかしモニュメント完成が正月明けになってしまったので、これからは年賀状を書いたり、モニュメントを仕上げたりで、天手古舞の毎日となる。 あわてて原稿を書き始めるが、何をどう書こうかのプランは全く立てていない。 いつもの行き当たりバッタリで進めるよりない。 ☆私と石井記念友愛社との不思議な関係は、平成10年以前から刊行されていた石井記念友愛社「茶臼原開拓資料館」発行の「開拓 第五号」(平成10年 6月30日発行)に、「アンジェラスの森・石彫工房へようこそ」として寄稿させてもらった。 やはり今回の原稿も、この時に書いたアンジェラスの森との不思議なかかわりから書かねばならないと思い、とりあえず「ひかりの墓地」というタイトルで、 幼いころの母に連れられてよく立ち寄った石井十次の墓地のおだやかなひかりあふれる空間の想い出から書き始めた。 そうして「開拓 第五号」を探し出してページを開くと、なんと巻頭は平成9年宮日文芸賞・短歌賞を受賞された黒木幸子さんの短歌と随想。 そして宮崎日日新聞に掲載された伊藤一彦先生の選歌所感の記事であった。 その新聞記事コピーの左隣ページからが私の寄稿文である。 なんとすでに「月の雫」の公開対談で登壇してもらった伊藤先生と石井記念友愛社理事長・児嶋草次郎君と私とのつながりは、ここにもあったのだ。 さらに私が表紙絵を担当させてもらった「開拓 第6号」を読んでみたら、今私がモニュメントを制作している場所が以前は”児湯畜連”(児湯地域家畜市場)であったが、 その市場が茶臼原に移転となったいきさつが詳細に記載されていて、驚いた。 ☆昨日の近くの火事では、住人の女性が亡くなられていた。 ご主人とは、夏祭りでよく顔を合わせていた。 今朝、妻が接骨院へ行くと、まさに接骨院の真正面が火災に遭った家で、接骨院の方たちも恐怖に陥っておられたようだ。 墓参の帰りに火災現場を通ってみたら、火災に遭った住宅の西南2面は道路、東面は広い駐車場、北面は樹木の茂った裏庭で、風も無かったので商店街の只中に 在りながら、周囲への延焼は免れたようだ。 我が家も60年前に火事に遭って、全国ニュースの大火になったので、他人事ではない。 12月29日(木) ☆晴れ。 風のない穏やかな暖かい冬日。 ☆朝一に接骨院。 昨日で今年の仕事も納めたので、たっぷり背中の張りをほぐしてもらう。 患者が少なかったので、院長の指圧はいつもの倍以上の時間をかけて揉んでもらった。 ☆今日は庭の除草作業。 ☆作業が一段落して、午後半ばに散髪へ行ったら、満席だったので、買い物などして1時間後に再び散髪へ。 やはり、洗髪にシャンプーを使わなくなって髪が黒くなっている。 特に後頭部が黒々としてきている。 ☆その散髪の間に、商店街では大きな事件が起きていた。 買い物を済ませて再び散髪店へ向かうと、大通りへ出た途端に右手の商店街の一角からモウモウと黒煙が上がっている。 火事だ。 だが商店街にはまだ誰も慌てふためく人も見受けられないので、出火したばかりだったようだ。 散髪店に着いたときには、煙はさらに黒くなっていた。 散髪が始まってしばらくしてようやく消防車のサイレンが聞こえてきた。 散髪店の奥さんが慌てて自転車で現場へ走ってみると、物凄い火の勢いで燃えていたというし、火元も分かった。 朝に治療行った接骨院の直ぐ道向かい、散髪店に行く前に買い物をしたスーパーの直ぐ2軒隣である。 ひょっとすると、私が買い物中にすでに家の中に火が廻っていたのかもしれない。 散髪が終わっても、まだ多くの消防車が消化活動中であった。 家に帰ると、辺りには焦げ臭い臭いが立ち込めていた。 妻の話では、私が出てすぐに隣の消防機庫が慌ただしくなったという。 風のないのが幸いだった。 12月28日(水) ☆天気予報では快晴だったが、午前は重い曇天。 午後にようやく陽が射したが、雲の多い天候。 気温自体はそれほどの冷え込みはないが、陽が射さないのでとても体が冷え込んだ。 ☆モニュメント制作。 今日も山田が来てくれたので、2人で研磨作業。 山田はセラミカで、私はベルトサンダーで80#でダイヤカップの傷を取ってゆく。 セラミカのエアーサンダーは、エアーカッター同様に手元でエアーが作動するので、手元が気化熱を奪われて凍える。 山田は体の芯から凍えてしまった。 ☆午後に防音シートの業者が来て、年末年始期間の突風防止のために、シートの上半分を巻いてくれた。 ☆今日で今年の仕事納めとした。 モニュメント本体は正月明けには完成の目途が立った。 山田は正月明けの休日も手伝ってくれるそうだ。 ☆ルーマニアのミンクから恒例の年末のグリーティングが届いたが、追記で来年夏にルーマニア・プロイエスティーでシンポジウムが開催され、オルガナイザーに 招待に相応しい彫刻家のリストを提出したとあり、作家名の一覧が記載されていた。 そうそうたるメンバーで、殆どが私の友人彫刻家であるが、なんと私の名前も記載されていて驚いた。 リストは26名にも及ぶので、最終決定は3分の1ほどの作家数になるだろうが、ミンクが私の名前を挙げてくれているのは嬉しい。 ミンク自身はコロナに罹患し、3か月半の入院を強いられ、死の縁を彷徨って何んとか生還できたが、恢復後のダメージが大きく、肺の半分が機能しなくなり、 彫刻制作活動を断念したという。 12月27日(火) ☆晴れ。 午前は冷え込んだが、午後は気温が下がらず、夕刻まで陽射しの暑い穏やかな気候だった。 ☆モニュメント制作。 冬休みに入ったので、今日明日と山田が手伝いに来てくれる。 山田は月下部帯立ち上がり部の手磨き。 私は月上部のアウトラインをなだらかにする作業と、まだ月の曲面に凹凸が目立っているのでその修正作業。 本当に信じられないくらい、寒くなってからのダイヤカップの掛かりがすごく良い。 午後半ばからようやくエアー研磨に這入る。 山田は日向現代彫刻展の時に石の作品を出品しており、石材店でエアー研磨を経験している。 今日は夕刻からの急激な冷え込みも無かったので、水を被っての研磨作業も問題なかった。 山田が研磨作業中に、私はエアーチッパーで銘板台座石の銘板嵌め込み口のコーナーを仕上げる。 何んとか正月開けの幕ノ内には完成の目途が立ちそうである。 12月26日(月) ☆快晴。 朝は宮崎県内各地は氷点下で冷え込む。 日中は陽射しが強くて、ジャンパーの下の上着を脱いで作業する。 しかし空気自体は冷え込んでいるので、翳りが出るとたちまち冷え込む。 ただやはり町場よりも、海沿いの作業場は陽射しが強く暖かく感じる。 ☆モニュメント制作。 今日から研磨作業に入る予定だったが、研磨に這入る前の修正作業で終わった。 特に月のアウトラインが、角が立っていて、なだらかにする作業が大変である。 普段の作業ではダイヤカップの作業でアウトラインをなだらかに仕上げてから研磨作業に入る。 しかし今回は裏半分を完全に仕上げてから表側の仕上げ作業に入ったので、裏側の研磨仕上げの時にアウトラインの最終成形が出来ていなかった。 アウトラインをなだらかにするためには、裏側の研磨が終わっている側に廻り込んで削らなければならないので、作業が難航する。 本設置までまだ時間があるので、しっかり形を整えておきたい。 最悪の場合、本設置後にアウトラインの修正作業が必要になるかもしれない。 ☆午前に高鍋町長が来訪。 本設置作業等のスケジュールを報告する。 12月25日(日) ☆全き快晴の一日。 空気は冷え込むが風も無く、日中は陽射しの強い日向ぼっこ日和。 午後は陽射しが暑くなって、ジャンパーの下の上着を脱ぐ。 ☆朝一に宮崎県知事選挙投票。 ☆モニュメント制作。 今日は日曜日なので山田が手伝いに来てくれる。 もうエアーカッターの作業は終わったので、大きな騒音は出ないが、今朝は最も騒音を受ける民家の隣家が新築工事で朝からトンテンカンテン大きな音を立てていたので、 私たちは作業音を気にする必要は無かった。 もっとも、山田はずっと帯立ち上がり部の水手磨きで作業音は無いし、私もダイヤカップでの仕上げ作業とカップ砥石作業だったので気になる作業音は出なかった。 今日でほぼ形出しが終わったので、明日から研磨作業に入る。 そして最後に帯部のライン入れとビシャン掛けで、正月明けにはモニュメント本体の作業は完了する。 幸い当分は上天気が続く。 12月24日(土) ☆快晴。 今日も冷え込んだが風が無く、日中は日向ぼっこ日和だった。 夕刻からは急激に底冷えてくる。 ☆朝一に接骨院。 院長はベッドに伏せた私を見ただけで症状が分かるらしく、背中の酷い張りは体の奥からなので今日はマシンを使いますと、電動のハンドマッサージ機で 背中から足先まで丹念に強いゴリゴリの振動圧を掛けて行った。 これが超痛気持ちいい。 電気治療も、今日は大男に背中から強い圧を掛けられているような強烈さであった。 相当に背中が張っている。 これも寒さから来るものなのだろうか。 ☆モニュメント制作。 午前は月下部右のダイヤカップ仕上げ作業とカップ砥石掛けの下準備。 ☆午後1時からは、駅前ロータリーで、工務店担当者、クレーン業者、運送業者、モニュメント設置工事担当業者との本設置当日の打ち合わせ。 道路交通法の改正で、モニュメントは横倒しのまま運べることになった。 設置現場で建てて、そのまま吊って本設置することになった。 当初使う予定だった、中国からの鉄枠は、モニュメントの形が出たことで補強場所の補正をしなければならなくなり、鉄工所が年度末の多忙時期で、補強の 作業はできないという情況でもある。 午後は、設置作業担当業者と作業場でクレーン作業等の打ち合わせ。 どうやって、ロータリー現場でモニュメントを立て、水平に設置場所へ吊って移動できるか、あれこれと夕刻まで思案。 もし、万が一、モニュメントが折れてしまった最悪の場合のことも考えて、設置担当業者の方で動産保険に這入ることになった。 大変な一大事業である。 業者との打ち合わせはすべて工務店担当者に任せてある。 私は打ち合わせの傍ら、モニュメント月下部右のカップ砥石作業を進める。 ☆今日はクリスマスイヴ。 例年は、我が家で友人たちを呼んで、ささやかにミニコンサート形式のハウスパーティーを開く。 しかし今年はモニュメント作業でパーティーの準備をする時間も無かったので、久しぶりに妻と2人だけのイブとなった。 大きな鶏燻製一羽を2人で食べるのはつらい。 12月23日(金) ☆晴れ。 全国的にこの冬一番の冷え込みだったが、高鍋町も朝から強風が吹き荒れた。 ☆やはり疲労が溜まって来ていて、今朝はなかなか起きれなかった。 背中がパンパンに張っていて、体が重い。 ☆今年中にモニュメントの仕事を片づけたいので、とりあえず作業に向かった。 しかし作業を始めると、物凄い強風で、目が開けていられないし、手がかじかんで作業にならない。 それよりもテントが飛んで行きそうで、作業を中止して番線で支柱を固定し直したり、ロープでテントとモニュメント石をつないでテントが倒壊しないようにする。 ☆そこへ、防音シートを設置してくれた業者が、心配で様子を見に来た。 冬の突風というのは台風のように予測できず、結構被害が大きい。 行橋市のプロジェクトの時も夜中の突風で、すべてのテントが吹き飛んでしまった。 それで業者としては、私が作業しない年末年始は防音シートを丸めておくということである。 ☆モニュメント作業は、ロープを石に絡めてしまったので、今日の作業はあきらめる。 ☆急に時間が空いたので、午後は年賀状を作成する。 画像にKAJIMAにマケット入選した作品を使おうと思って、強風の海辺へ行って画像を撮り、イラストレーターでデータを作る。 郵便局へ走って年賀はがきを購入し、プリントする。 半分近くプリントしたところでインク切れとなってしまった。 12月22日(木) ☆晴れ。 夜明け前は暖かかったのだが、朝のうちから風が出て、陽射しは強くて暑いのに、風が冷たくて凍える。 明日はこの冬一番の冷え込みだとか。 ☆モニュメント制作。 月下部の帯立ち上がり部の成形作業。 冬に這入ってダイヤカップのかかりがすごく良い。 秋までの面出しが全く進まなかった状態とは雲泥の差である。 やはりダイヤの切れ味は温度と関係するようだ。 暑いとダイヤが熱を持って切れ味が悪くなるのだろうか。 ☆昼に、注文していた鶏の燻製を受け取りに行き、息子たちに送る。 この燻製は安くて美味しくて、この時期には手放せない物だが、業者の方がもう高齢で昨年で製造中止だと言われていた。 しかし注文の時期に顔を出してみると、やはりファンの強い要望で今年まで造ることにされたということだった。 製造に2週間かかり大変な労力なのだそうだ。 材料費も高騰して、昨年より700円も値上がりしていた。 それでも儲けは殆どないと言うこと。 来年は無理だということだが、念のために声をかけて下さいと言うことであった。 12月21日(水) ☆一日、雨。 午後は強く降る。 ☆今日は作業を休んで休養する。 5回目のコロナワクチンを接種した日に休養してから、2週間以上休みなしで働いてきたので、ここ数日、体に疲れが出てきている。 今朝も起き抜けの体が重くてだるかったし、天気予報では雨は午後からと言うことだったので、午前だけ作業して午後に休養の予定だった。 しかし朝のうちから雨になったので、思い切り一日休む。 ☆来年の8月に、宮崎市内の画廊喫茶で妻との版画二人展を予定している。 今朝、その画廊から確認の電話があった。 宮崎市内ではまだ版画は発表していないので、こちらはこれまでの版画を展示すればよいので問題はない。 問題は年明けの3月に予定している”ギャラリーしんとみ”での二人展である。 妻は着々と新作を制作しているが、私はモニュメントの作業が終わらないと版画にかかれない。 2月は設置も終わっているので、5,6点くらい新作が作れるだろうか。 ☆午後になって妻が、”ギャラリーしんとみ”の次年度の予約は12月締め切りだったことを想い出した。 それですぐにギャラリーに電話を入れると、幸いにもまだ次年度の2,3月の空きがあったので、仮押さえしてもらった。 申し込み用紙の提出にギャラリーへ出かけることができるのは今日しか無いので、夕刻に雨の中を”ギャラリーしんとみ”へ向かう。 次年度末の3月と言えば、2年後の令和6年である。 ☆ギャラリーでは、”こゆ財団”の甲斐君が展示をしていた。 見たことのあるオブジェが並んでいるなと思ったら、今月の10日に新富町で藤浩志氏のワークショップを開催し、藤氏の持ち物であるオブジェをお借りして展示している のだという。 それで見たことのあるオブジェだと思ったのは、都城美術館でやっていた”御池の龍伝説アートプロジェクト”で使われていたオブジェたちなのであった。 藤氏は、宮崎と言えば彫刻というイメージだと言われたそうだ。 私たち宮崎彫刻グループは鹿児島での彫刻展にも何度か参加していて、藤氏も作品を出品されていたので私の名前をご存じだったということ。 私は藤氏とは直接の面識はないのだが、宮崎の彫刻家のことを印象深く記憶されていることは嬉しかった。 12月20日(火) ☆全き快晴。 今朝の宮崎県はこの冬一番の冷え込みで、殆どの観測地点が氷点下だったようだ。 しかし日中は風もなく陽射しが強く穏やかで、ジャンパー下の上着を脱いで作業する。 ☆モニュメント制作。 午前は陽射しの気持ちの好い日向ぼっこに最適の作業場だったので、もう今回のモニュメント制作には使わない工具類を片づける。 エアー工具関係、大口径グラインダーを自宅に持ち帰る。 工場扇ももう不要なので、日向ぼっこをしながら解体し、箱詰めする。 モニュメントは、月下部の帯立ち上がり部の成形作業を進める。 ☆夕刻に、作業場の電気水道工事をやっていただいた、作業場入り口の設備会社の社長が久しぶりに来られた。 防音壁を見て、驚いておられた。 騒音の出る作業はもう間もなく終わると伝えると、”私の処はまったく音は聞こえないよ”と社長。 やはり作業音の響くエリアは限られているのだろうが、その方たちにとっては3月から延々と続く作業音はもう限界に来ておられるのだろう。 できるだけ年内にコンプレッサーでの作業を終えたい。 ☆ネットで注文していた「記憶の手ざわり」が3冊届いたので、関係者にスマートレターで送る。 ネットを見ると、ネットでの販売分は私の注文で在庫なしになり、注文できない商品になっていた。 それで夕刻にTSUTAYAへ行って注文すると、県内のTSUTAYA各店の在庫状況を調べてくれたが、どこにも在庫が無く、注文できなかった。 新聞であいつで新刊紹介がされているのに、何処にも在庫がなくて買えないなんて。 ☆先日の寒風吹き荒れて底冷えした日に、人差し指にアカギレが出来た。 今日は炊事の時に痛んだ。 12月19日(月) ☆晴れ。 今日はこの冬一番の冷え込みで、しかも高鍋町は五ヶ瀬町鞍岡の氷点下4,7度に継ぐ、宮崎県内2番目の寒さの氷点下3,7度だった。 作業場にも氷が張った。 日中は風もなく陽射しが強くて、昨日のような凍える寒さはなかったが、それでも空気が冷たいのでジャンパーの下の上着を脱いで作業するのがせいぜいであった。 ☆モニュメント制作。 明田君は月下部右のアール出し作業。 私は月下部左の帯部立ち上がりの成形他。 ☆明田君のサポートは今日で終了した。 あっという間の10日間であったが、おかげで一気に完成に向けて作業が進んだ。 ☆今朝の宮崎日日新聞文化欄に、宮崎エッセイストクラブ「記憶の手ざわり」の出版紹介記事。 しかし、先日の毎日新聞は表紙がカラー写真掲載の大きな扱いだったが、地元紙の宮崎日日新聞は小さなモノクロ表紙写真で、記事も小さい。 本当に宮崎日日新聞の在り方には疑問を抱くことが多い。 12月18日(日) ☆晴れ。 この冬一番の冷え込みで、宮崎市の鰐塚山に初冠雪。 午後からは嵐並みの強い寒風が吹き荒れて、体の芯から凍える。 ☆夜中、3時6分に強い地震。 しかしスマホのアラームが鳴らず、スマホを開いても何処にも地震の速報がない。 震度4くらいの強さだったと感じたが、朝になって東京の妹たちから日向灘が震源地の地震だというラインが届いた。 パソコンを開いて、マグニチュード5,4の日向灘震源の地震で、震度4、高鍋は震度3だとわかった。 幸い、宮崎県内は被害の報告はないようだ。 それこそ昨日は明田君から、津波が来たら何処へ逃げればいいのかと問われたばかりだった。 ☆モニュメント制作。 今日は山田が来てくれて、3人での追い込み作業。 やはり日曜日の朝は静寂に迎えたいものだ。 それで午前のうちのエアーカッター使用は止める。 山田と明田君2人の電動グラインダーーの音を作業場から離れて確認してみると、防音シートから直角の方向は殆ど音が聞こえない。 しかし作業場に一番近い民家側は、芝生の養生のために防音壁が設置できないので、音がかなりストレートに伝わる。 電動グラインダーのディスクだと切り込み作業が全く進まないので、午後はエアーカッターを使ってもらった。 3人での作業は今日が最後である。 そしてエアーカッターでの作業も2,3日で終わる。 もう少し、辛抱してもらおう。 ☆山田は帯の厚み落し作業。 明田君は月下部右のアール出し作業。 私は月上部右のダイヤカップ仕上げとカップ砥石掛け作業。 これで半分は研磨作業に這入れる段取りが整った。 ☆兎に角、強風が冷たくて、山田は何度も手がかじかんで作業を中断。 明田君もエアーカッターが凍結して、手がくっついてしまう。 私も防塵マスクの中で鼻水が流れっぱなしである。 夕刻に高校同窓のM君がホットコーヒーを持って来てくれたので、防音壁の内側で風をよけて体の中を暖める。 12月17日(土) ☆一日雨。 しんしんと底冷える。 夕刻から西の空が開けてくる。 ☆8時過ぎに帰宅して、接骨院へ。 院長の治療は一発で最近の肩の痛みを圧し当てた。 やはり作業場の冷え込みで背中が痛くなるのだそうだ。 作業場を暖かくすることができないなら、ヒートテックの衣服を着るより無いということ。 ☆モニュメント制作。 明田君は月下部右のアール出し作業。 私は月上部左のカップ砥石掛け作業の続きだったが、テントの雨漏りが激しく、ブルーシートを買って来て、テントの内側に張る。 一度カップ砥石を掛けた後に再びダイヤカップでフォルムを修正し、カップ砥石を掛け直す。 ☆明田君のエアーカッター作業中に防音シートの効果のほどを確認してみた。 やはり防音シートの向こう側に行ってみると、エアーカッターの音もコンプレッサーの音もかなり軽減される。 明日は山田が来てくれるので、明田君との2人での作業音がどれだけ軽減できているかを確認して、エアーカッター使用についての判断をしよう。 ☆昨日、宮崎県文化年鑑が届いていたので、封を切って私の文を読んでみた。 悪くない文章であった。 しかし他の分野の人たちの活動報告は、単なる出来事の羅列だけ。 何の現状への問題提起も無い。 宮崎県の文化状況への唯一の公的記録文書である。 執筆担当者の何のコメントも無い活動報告なんて、意味が無い。 ☆宮崎エッセイストクラブ「記憶の手ざわり」が毎日新聞に写真入りで紹介されていた。 その記事を見た宮崎彫刻グループのメンバーの一人が表紙の作品写真は私の作品ではないか、と新聞切り抜きを昨夜の宴席に持って来てくれた。 それで再度、ネットで「記憶の手ざわり」を調べてみたら、ようやくネット注文ができるようになっていた。 ただしどのサイトも在庫が1冊か2冊だったので、在庫分を注文する。 追加入庫するというサイトもあるので、時々チェックして、入荷した分を注文してゆこう。 12月16日(金) ☆曇天の寒い一日。 夜になって雨。 ☆モニュメント制作。 明田君は月下部右のアール出し作業。 私は月上部左のダイヤカップ仕上げを進め、午後からカップ砥石掛けに入る。 ☆午後に足場業者が防音壁の設置作業。 防音用のシートは防塵用シートより2割ほど高い。 ☆午後に藤本先生の慰問。 差し入れを持って来ていただいた。 ☆夜は、宮崎市内で、宮崎国際現代彫刻・空港展実行委員会主催による私の文化賞受賞の祝宴。 宮崎彫刻グループのメンバーと、宮崎空港ビルからは業務部の山田部長と石尾さん、明田君、そして私たち夫婦。 空港展のメンバーと呑むのはコロナ禍に這入って初めてであるから、3年ぶり。 事務局の田村の心配りの利いたとても美味しい和食のお店で、久々に心から寛げて、楽しく嬉しい時間を過ごすことができた。 今回の文化賞受賞は、私個人の実績よりも40年前に宮崎彫刻グループを結成して、一直線に宮崎の彫刻界を拓いて築き上げてきた仲間たちとの歩みへの 評価だと受け止めているので、こうして皆と心からの受賞祝いの宴を持てたことは何よりの喜びである。 本当に久々に楽しい豊かな気持ちになれた酒宴であった。 ☆2次会へは妻と明田君との3人で、炭火焼ホルモンへ。 3人は定宿の同じホテル泊まり。 12月15日(木) ☆快晴。 今朝はこの冬一番の冷え込みだったが、風が無かったので日中の冷え込みは昨日ほどではなかった。 ☆モニュメント制作。 明田君は月下部左のアール出し作業。 私は月上部の帯立ち上がり部と首部の仕上げ作業。 午後から山田が来てくれたので、帯の厚み落しの続きをやってもらう。 山田は、騒音問題で日曜日の作業が出来なくなったと思って、年休を取って来てくれたようだ。 今のところは、出来るだけ年内に完成へ近づけたいので、日曜日も作業する。 ただ、日曜日はエアーカッターの音を飛ばさない配慮をしたい。 ☆午前に工務店担当者と防塵・防音壁の業者が来訪し、打ち合わせる。 防護壁はコの字ではなく、民家側に道路に並行して高さ2メートルの足場を組むことになった。 これでコの字に囲まれた閉塞感には追い込まれずに済む。 明日の午前の作業となった。 12月14日(水) ☆晴れ。 昨夜はかなりの強風だったようで、テントが動いていた。 今日も一日中強風が吹き荒れ、この冬一番の底冷えとなった。 明日はもっと冬本番の冷え込みになるということ。 ☆モニュメント制作。 明田君は月下部左のアール出し作業。 私は午前中に銘板台座の成形作業。 研磨と銘板嵌め込み口の作業は、モニュメント制作が終わってからにする。 午後はまだ途中までだった月上部の帯からの立ち上がり部の成形作業。 この寒さで体が硬くなっているせいか、ダイヤカップを掛けていたら次第に右肩が痛くなってきて、何度も作業を中止して体をほぐさなければならなかった。 ☆夕刻に工務店担当者が来訪。 やはり、どうして騒音クレームが来るのか分からないと首をひねっていた。 役場の担当者の話では、日曜日も作業をしているというのが苦言の大きな理由だったようだ。 その気持ちはよくわかるので、これまで努めて土・日・祝日には作業をしないようにしていた。 それに山田も毎週日曜日に来てくれている訳ではないので、日曜日には作業をしない日もあるのだが、日曜日の作業はやはり住民にとっては気が休まらない。 防音壁については、作業場をコの字に囲わないと効果はないそうだ。 この広い空間のなかで作業場周囲を囲い込まれたら、気が滅入ってしまう。 そして工務店は年末の仕事で身動きできない状態なので、業者の手配が間に合わないという。 最悪の場合は、担当者が作業しなければならないようだ。 もうすぐモニュメントの作業は終わるのだが。 ☆工務店も正月明けからは年度末の超多忙な時期に這入るので、今のうちにモニュメントの設置日程を決め、業者の手配と段取り、そしてその後のロータリーの 周景作業の日程を組まなければならない時期になった。 モニュメント制作は年内完成は無理としても、1月初旬には終わるだろう。 それで設置日程を1月21日(土)深夜と決めて、作業スケジュールを組んでもらった。 土曜日の深夜と言う設定は、作業を電車の終電と始発の間に行わなければならないということと、徹夜の作業なので、平日での作業は出来ないからである。 1月初旬の裡にモニュメントが完成すれば、設置までの間に作業場の片づけ作業を進められる。 ☆ヤフーニュースをぐぐっていたら、北国新聞のコチュマルの記事が出てきた。 富山の鋳造所で制作していたブロンズ原型は完成して、15日に帰国するということ。 そして来年2月に再来日して、ブロンズの仕上げ作業と本設置を行うようだ。 12月13日(火) ☆快晴。 陽射しは強いが、空気がとても冷たく、暑くて半袖になると空気の冷えで直ぐにまた上着を着るという繰り返し。 夕刻からは冷たい風も出て来る。 いよいよ本格的な冬の到来のようだ。 ☆モニュメント制作。 明田君は月下部左のアール出し作業。 次第にフォルムが呑み込めてくれているようだ。 私は銘板台座の成形作業。 ☆騒音の問題で、工務店担当者と連絡を取るが、今日は他用で動けないと言うので、明日に打ち合わせをすることになった。 音は上にあがるので、防音壁を設置すれば周囲に響く音はかなり遮られる。 住宅の方面に対して足場を組み、工務店が工事現場で使う防塵・防音シートを張ればかなり効果があると思う。 実際の騒音はどの程度のものなのか、明田君がエアーカッターで作業している間に周囲を歩いてみた。 しかし、道路に出ると殆ど音は聞こえない。 気になる程度の音がするのは、作業場に一番近い住宅と、作業場裏の児童公園奥くらいである。 思っていたような我慢できない騒音は出ていないのである程度は安心したが、音は人によって感じる度合いが違う。 一人でもうるさく感じる人が居れば、それは騒音なのだから、適切な対応が必要である。 12月12日(月) ☆午前のうちは快晴で、気温が上昇し半袖で作業。 午後からは雲が出て急激に冷え込んで、ジャンパーを着込んでも寒かった。 夜に小雨。 ☆モニュメント制作。 明田君は月下部左のアール出し作業。 しかし他人の作品なので、なかなかフォルムが出せない。 素人と違って彫刻家には作家なりの作業手順があるので、細かな指示が出せないのが辛いところである。 仕上がりのフォルムを出来るだけはやくイメージとして把握してもらうより無い。 私は、銘板台座の勾配をルートハンマーで落し、カッティング作業をする。 ☆役場の担当者からの連絡で、とうとう作業場周辺の方からの騒音への苦言が届いた。 苦情と言うより、”騒音に困っています、作業はいつ終わるのですか、日曜日も作業していて苦しいです”、と言う内容だったようだ。 それで防音対策をしてくださいと言うこと。 困ったことになったが、これまで騒音への苦情が無かったのが想定外だった。 おそらくエアーカッターを使い出してからの甲高い金属音の騒音が気になり始めたのだろう。 作業前半は騒音対策で、土・日・祝日は作業をしなかった。 しかし夏場に諸井君が2週間作業に来てくれた時は、土・日に作業を休むと手当が出せないので休みなしで作業した。 同じ時期から手伝いに来てくれるようになった山田は、休日の土・日にしか来れないので、後半の土・日はほぼ作業している状態が続いている。 そしてこの先の年内いっぱいも、年内完成を目指して明田君と二人での休日なしのエアーカッター作業が続く。 だが、こうしうた防塵、防音のクレームの対応経費として見積もり予算に予備費を計上してある。 工務店に防音壁の設置について相談してみよう。 12月11日(日) ☆午前は快晴で、気温が上昇。 午後から雲と風が出て、冷え込む。 夜も寒風が吹く。 ☆モニュメント制作。 今日は山田も来てくれたので3人で制作。 明田君は月下部左のアール出し作業。 山田は帯の厚み落し。 私は午前のうちに銘板台座の勾配を工務店の図面と、ロータリー現場での確認作業で決定する。 午後は月上部の仕上げ作業。 ☆朝に軽油を20リットル買ったばかりなのに、昼にはもうポリタンクが空になって、再び軽油を調達しなければならなかった。 1日で、軽油代が5,800円! こんなことでは正月を過ごせない。 泣きたくなった。 ☆夜は居酒屋で明田君の歓迎宴。 ☆マイナンバーカードのオンライン申請が出来なかったのは、メールアドレスがパソコンのアドレスだからだったのでは、と思って昼食後に再びオンライン申請を試みて、 携帯のメールアドレスを登録したら、直ぐに返事が来て、あっという間に申請作業が終わった。 何でもスマホの、時代に成ってしまった。 ☆高鍋町美術館の青井学芸員から、「秘密のケンミンSHOW極」番組担当者から、山形県の企画で上杉鷹山公を取り上げることになり、17歳という若さで上杉藩主に なったことを紹介したいが、若いころの肖像画を捜していたら高鍋町美術館に設置してある鷹山公の像を見つけたので、番組でこの像の画像を使わせてほしいという連絡が あったとのこと。 この像は私の制作したものである。 それで私のスマホに保存してあるブロンズ像の画像と、制作時のエピソードを送る。 12月10日(土) ☆快晴。 今日も陽射しが強く、一日、半袖で作業する。 ☆朝一に接骨院。 電気治療が気持ち好い。 ☆モニュメント制作。 今日から群馬の彫刻家仲間の明田一久君が手伝いに来てくれた。 10日間滞在してくれるので、うまく行けば磨き作業まで持ってゆけるかもしれない。 明田君はマレーシアでの制作でも、生まれて初めての海外旅行で手伝いに来てくれている。 ☆二人で月下部のアール出し作業を進める。 やはり軽油の消費量は頭が痛いけれど、エアーカッターの作業進度は電動グラインダーの作業とは比較にならないほど効率が高い。 作業が迅速に進む。 最初からエアーカッターを使っていたら、もうとっくに作業は終わっていた。 エアーカッターの音は高音で遠くまで飛ぶので、作業場の周囲の民家への騒音配慮でずっと使うのを控えていたのだが、結局、作業が長引いた分、 町期間にわたって迷惑を掛け続けている。 ☆午前に、石割り神事を執り行ってくれた神官さんが来訪。 神事が3月だったので9か月ぶりである。 もう9か月も経ってしまったのか。 このモニュメント作業場で1歳年を重ねてしまった訳だ。 12月9日(金) ☆快晴。 今日も日中の陽射しが強く、朝は10時前からジリジリとした陽射しで、半袖になる。 ☆モニュメント制作。 午前は銘板台座のカッティング作業。 午後は月下部右のアール出し作業。 12月8日(木) ☆晴れ。 この初冬一番の冷え込みで、宮崎市内では初霜が観測された。 こういう霜が降りたり氷が張ったりする底冷えの快晴の日の宮崎は、日中の陽射しが強烈で暑くなる。 今日は暑くて、作業はずっと半袖であった。 ☆モニュメント制作。 午前のうちは銘板台座の粗落し作業。 昼前から、月下部右のアール出し作業。 今日はエアーカッターのディスクの切れが良かった。 それにしても、エアーカッターのコンプレッサー燃料の使用量が半端ではない。 毎日のように軽油のポリタンク20リットルを調達しなければならない。 ☆そういえば、ここ数年、冬に手指の皸がなくなった。 少し前まではもう11月中旬あたりからは手指の皸に悩まされてきた。 昨年まではコロナ禍で石の作業もしなかったので手が荒れることも無かったが、今年はほぼ毎日手足を酷使している。 確かに掌や手指はかなり乾燥でザラついているが、指が割れて血が滲むことがない。 12月7日(水) ☆晴れ。 今日も陽射しは強いが、空気の冷え込んだ一日。 ☆モニュメント制作。 午前は天気が良かったので、テントの外で建立趣旨銘板台座の石の墨入れと原寸大ベニヤ型の解体作業。 作業が終盤になったので、もう必要のない道具類は自宅工房に持ち帰るようにしたりしてプレハブ倉庫の中を少しずつ片づけている。 ところがベニヤ型を解体していたら次第に気分が悪くなってきた。 胸やけが酷くなって、吐き気がしてきた。 体も火照っている。 お昼に帰宅して体温を測ると熱はないが、気分が悪くて食事が摂れない。 どうやら風邪気味のようなので、風邪薬を飲む。 ☆午後の作業は無理せず休んだ方がいいかもしれないと思っていたが、風邪薬を服用してしばらくしたら気分が落ち着いてきた。 とりあえず作業場へ戻って、作業をしてきつかったら帰ろうと思っているところへ山田から電話。 年休を取って、作業場に来ていると言う。 ☆作業場へ戻って、山田に月下部のアール出し作業を指示する。 私は墨を入れた銘板台座石をルートハンマーで粗落しする。 作業中はまったく気分の悪さは消えてしまった。 ☆しかし夕刻に帰宅して寛いでいるうちに、再び気分の悪さが戻って来て、夕食の準備がきつかった。 頭も重く、鼻声なのでやはり風邪気味なのだろう。 夕食を摂ったら直ぐに床に就こうと思ったが、妻とワインを飲んでいたら気分も良くなってきた。 とまれ、モニュメント作業は終盤にはいってきたので、体調を崩さないように注意しなくては。 12月6日(火) ☆快晴。 抜けるような青空で、宮崎の冬はこうした日の日中は暑いのだが、今日は空気が冷たかった。 それでも陽射しを浴びての作業にはジャンパーは要らなかった。 ☆モニュメント制作。 エアーカッターでの月下部厚み落し。 夕刻からはアール出しに這入る。 ディスクが切れなくなったら、カップ砥石の残骸でディスクを研ぐとかなり有効だとわかった。 しかし、エアーカッターはコンプレッサーの燃料消費が早すぎる。 ☆午後に高校同窓のM君が作業風景のビデオを撮りに来る。 暖かい珈琲も持ってきてくれた。 2人で珈琲を飲みながら小休止しているところへ黒木町長が来訪。 しばらく談笑する。 ☆クレーンの請求書が届いたが、今回はスリングの破損への請求額が含まれていた。 12月5日(月) ☆午前は曇天。 昼前から雨となる。 午後はしんしんと冷え込んで、この初冬一番の寒さ。 ☆モニュメント制作。 今日から一気に月下部の厚みを出してゆく。 最初に削岩機で接着剤注入窓のコア穴を貫通させる。 これで今回のモニュメント制作での削岩機使用は終了したので、昼に削岩機を持ち帰る。 そして昨日に山田が粗落とししてくれた厚みをエアーカッターで落してゆく。 やはりエアーカッターはパワーが強いので、電動グラインダーで面を出していった時のような膨らみが少ない。 しかし今日は冷え込んだので、エアーカッターが気化熱を奪われてエアーが凍結してパワーが落ちてゆくし、デスクも次第に切れなくなってゆく。 手足の凍える中での辛い作業であった。 ☆作業中は、昨日のワクチン接種での肩の痛みは全く意識外であった。 夕刻に自宅で寛いでいて、肩の痛みに気付いた程度で、今回は今日になっても発熱も無く、ワクチンの副作用は皆無であった。 ☆夜に伊藤先生よりお電話。 高鍋高校100周年記念誌が今日届いたと言うこと。 記念誌には伊藤先生も寄稿していただいていて、私との「月の雫」出版のことや公開対談のことが記されている。 先日の同窓生との宴の時と、上野氏の取材の時には私のいただいた記念誌をコピーして、伊藤先生の寄稿文をみんなに渡してある。 また時間を見つけて皆と一緒に呑みたいね、ということ。 12月4日(日) ☆朝と夕刻に小雨。 日中は曇天で底冷える。 午後からは晴れて暖かくなるという天気予報だったが、昼前に少し晴れ間が出ただけで、午後には再び天が閉じてしまった。 町場は寒風が吹いて冷え込んだが、作業場へ行くと風もなく寒さも無い。 やはり海辺は暖かいのだ。 ☆今日は5回目のコロナワクチン接種。 早朝9時からの割り当てで、今日は山田が作業の手伝いに来てくれることになっていたので、8時過ぎに山田に作業場で作業の指示をする。 昨日までの作業で月下部のコア穴作業が終わったので、今日から一気に月下部の厚みを落とす作業に入った。 削岩機、大口径グラインダー、ルートハンマによる最後のハードワークである。 ☆ワクチン接種担当の医師は、いつも冗談ばかり飛ばす馴染みのN医師であった。 私の文化賞受賞の話になり、私が腕をまくってワクチンを接種しているところへ顔を出され、看護婦に向かって”この人は有名な芸術家だからワクチンを3本打ってやって!” おいおい、死んでしまうよ! ワクチン接種後に15分間の待機をしていると、前回4回目の接種の時に高熱を出して寝込んでしまったことを想い出した。 今日の作業はハードワークなので、私は休養し、作業は山田に一任することにした。 ☆ワクチン接種を終えて作業場に戻ると、山田はもう削岩機の作業を終えていた。 大口径グラインダーの作業に入るところで、最も怪我の確率が高い作業なので、大口径の作業が終わるまで見守る。 次のルートハンマーの作業も少し段取りを指示して、後は山田に作業を任せて帰宅する。 ☆午後は妻の年賀状の作成をやってあげて、自宅でゆっくり過ごす。 ☆妻も午後にワクチン接種だったが、幸い、2人とも夜になっても副作用の反応は出なかった。 ただ前回は、ワクチンを接種した翌日の夕刻から熱が出たので、まだ安心はできない。 12月3日(土) ☆一日、曇天。 底冷えの一日。 ☆朝一に接骨院。 2日間ハツリ作業をしていたので、背中がパンパンしているので電気治療とマッサージが気持ちよかった。 ☆昼前からモニュメント制作。 もう片方の月下部の接着剤注入窓のコア作業。 しかし昨日はとても切れが良かったのに、今日はまったく切れない。 ダイヤモンドコアに何度も砥石を掛けるのだが、ちっとも効果がなく、夕刻までかかってしまった。 これで一気に月下部の厚みが落とせる。 ☆横浜の本郷台に設置してある”MOON DANCE”を上の妹が元の職場同僚たちと見に行ってくれて、写真がラインで送られてきた。 もっと汚れているのかと思ったら、管理状態がいいのか帯のカッティング部に汚れが溜まっている程度で安心した。 本郷台駅近くの老人介護施設に私の教え子の義母が入所していて、車いすでの散歩の時に私の”MOON DANCE”の前を通るというので、彼女にも画像を送った。 そうしたら、なんと彼女は今日のお昼に義母の面会で本郷台に行っていたのだという。 12月2日(金) ☆朝のうちは曇天。 日中は晴れ。 この初冬一番の冷え込みで真冬並の底冷え。 宮崎県内はいずこ最高気温が12度台。 夕暮れの空が、真冬の美しいピンク色。 ☆モニュメント制作。 午後半ばまで側面のハツリ作業。 午後半ばから、月下部の接着剤注入窓のコア作業。 思ったよりコアの切れが良くて、2時間ほどで一本が開いた。 ☆夕刻に同窓生のM夫妻が作業場に来訪。 ☆妻がマイナンバーカードを郵送で申し込んでいたので、私も乗り気ではないが申請しようと思った。 書類を見るとスマホでの申請が簡単とあるので、昨日の朝にスマホで申請したのだが、折り返しメールアドレス宛に写真送付等の案内が届くとあるのに、 2日経っても何も届かない。 やっとその気になったのに・・・。 12月1日(木) ☆朝のうちは曇天。 直に雲が切れて陽が射してきたが、雲の多い一日で気温は上がらず。 この冬一番の冷え込みとなった。 ☆モニュメント制作。 本体の中心線を入れ直す。 そして、今日は底冷えでじっとしていると寒くてたまらないので、側面のハツリ作業をする。 夏場のハツリ作業は暑くてヘロヘロになるが、寒い中ではちょうど良い作業である。 しかし、体力的には疲れる。 ☆とうとう今日から12月。 あっという間に正月が来そうである。 ☆夜に彫刻グループの奥村が来訪。 空港展の作品返送時の荷送りが年々厳しくなっている。 運送会社が軒並み、彫刻作品の作品保険や着払いを拒否するようになってきた。 今の情況がさらに厳しくなれば、私たちのような民間レベルでの彫刻展は開催できなくなる。 運送会社との交渉は空港展開始当初から、ずっと奥村がやってくれていて、今の段階での各運送会社の反応を報告に来てくれた。 年明けには方向を決めなければならないが、春の異動で上司が変わると運送会社の対応が全く異なる難しさもある。 空港展はいつまで継続できるのか。 11月30日(水) ☆朝のうちは小雨。 日中は曇天。 夜明け前は蒸し暑かったが、日中は次第に気温が下がって、冷え込んでくる。 ☆朝一に、コンプレッサーの延長手続き。 ☆午後に宮崎県文化賞担当のみやざき文化振興課の職員の方が、授賞式の額入り写真を持ってきていただいた。 受賞者紹介のパネル展示は宮崎県立図書館でも行われるということ。 ☆モニュメント制作。 月下部の内側のカッティング落とし作業。 11月29日(火) ☆夜中から本格的な雨となり、夜明け前は異常に蒸し暑かった。 午前は雷も伴ったが、雨は昼前には急速に上がり、気温が上昇。 県内各地は25度以上の夏日となった。 ☆疲れが溜まっているのか、昨日の返しの作業がうまく行って気持ちが安堵したせいか、妻に”どこか悪いんじゃないの?”と起こされたのはもう朝の 7時を廻っていた。 私はちょうど海岸添いの景勝地に大量の蓮の花が咲いている、中国らしい土地を旅している夢を見ている最中だった。 ☆モニュメント制作。 制作場所に行くと、テントの中に雨が吹き込んで、モニュメントは全面がびしょ濡れで、作業できる状態ではない。 それにテントもかなり移動している。 打ち合わせに来た工務店の担当者の話では、昨夜は風速10mの強風が吹き荒れたのだという。 昨日のモニュメント返し作業でテントを移動させ、元に戻したときに、もう台風は来ないが冬は寒風の突風が吹くことがあるし、と念のためにテントの支柱を 杭に番線で縛ったのだが、それをやっていなかったら完全にテントは吹き飛んでいた。 午前の作業は断念し、帰宅してモニュメント関係のデスクワークで過ごす。 ☆午後は天候が回復したので、月下部の内側を落とす。 エアーカッターのディスクを新しいものに換えたら、新しいうちは良く切れる。 ☆夕刻に買い物の帰りにTSUTAYAへ立ち寄った。 みやざきエッセイスト・クラブの「記憶の手ざわり」がもう書店に並んでいるのか確認したかった。 友人知人に送りたいのだが、ネット販売が取り扱い不可になっているので、書店に並んでいるのなら購入したいと思ったのである。 ところが何処を捜しても、郷土の出版コーナーが無い。 先日の元共同通信宮崎支局長の上野氏の話でも、東京では書店が次々に無くなってしまっており、八重洲ブックセンターにあった国内各県の郷土本コーナーも 無くなってしまったということであった。 これでは、日本中の地元の書店が無くなり、全ての書店がTSUTAYA化してしまえば、売れる本しか書店には並ばなくなる。 地元の出版社から本を出しても、一般の人がその本をTSUTAYA化した書店で目にして手に取ることは出来なくなった。 郷土出版本コーナーどころか、詩歌の文芸本コーナーも姿を消してしまっている。 上野氏の話では、出版社も、読者は中身のある本ではなくジャケ買いする傾向なので、そういう装丁だけ派手な目につく本しか出版しなくなっているという。 11月28日(月) ☆朝のうちは雲が多かったが、次第に雲は切れ暑い一日となった。 ☆久しぶりに夜中に水脈の音で目が醒める。 明らかに暖房の音とは全く別の、渓流の音である。 守護霊が私を心配して守ってくれているのか。 不安でならない今日のモニュメントの返し作業が、うまく行くのか。 ☆モニュメント制作。 今日は朝一からクレーンでの返し作業。 作業場の片づけ等があるので、8時過ぎに作業場へ行くと、もうクレーンは来ていた。 今日は社長も来ていて、オペレーターと打ち合わせをしていた。 裏面はすでに完成しているので、カッティングラインを施した帯部には、クッションを置いて、クッションンとスリングの間に角材を置いて破損を防ぐ。 しかし左右の重さが異なるので、どうしても片方が浮き上がって、なかなかうまく作業が進まない。 そのうち手配してあった観光協会と役場の担当課の職員たちが手伝いに来てくれる。 無事にバランスよくモニュメントを起こし、無事に返すことができたのは、もう11時前であった。 ☆モニュメントは無傷で返すことができたが、やはりスリング(吊りベルト)が切れた。 前回の作業でもスリングが切れて使い物に成らなくなり、また新しく購入したスリングを今日は使った。 その新しいスリングも切れてしまい、スリング代だけで20万円飛んでしまったとオペレーターが悲痛な顔をしていた。 私もスリングを特注していて、まだ作業に使っていないので、次回は私のスリングを使ってもらうことにした。 ☆午後からは、足元の開き止めの補強部分を落とす作業。 久しぶりにエアーカッターを使ってみたら、やはり石が硬すぎて、なかなか作業が進まない。 こんなに長期間も作業が手こずっているのは、この石の硬さにあったのだ。 返した表面の残りの作業を年末までに超突貫で落としてしまおうと思っているが、これまでの手こずった経緯を考えると、そう簡単には行かないだろう。 ☆午後に、私の作業場の川向うに大量の太陽光パネルを設置されている方が来られて、騒音は全く気にならないし、完成を楽しみにしていますと言われた。 ずっと気になっていたので、ほっとする。 11月27日(日) ☆快晴。 暖かい一日。 ☆昼に、明日のモニュメント返し作業に備えて、クッション材を調達し、作業場で段取りを考える。 ☆午後に、元共同通信宮崎支局長の上野敏彦氏来訪。 氏は昨年9月に退職され、東京に帰られて、現在は記録作家・ジャーナリストとして活動されている。 氏は以前から伊藤一彦先生の本を書く準備をされているのだが、今回はその執筆のための取材を兼ねて、久しぶりに宮崎へ帰ってこられた。 そして昨年の伊藤先生との公開対談の時にも上野氏は出席されているので、高鍋高校の教え子の立場での伊藤先生像を取材したい、ということで 高鍋に来られた。 公開対談でステージに上がった私と美術史家の安井雄一郎君に取材をしたいと言うことだったので、安井君と一緒に高鍋駅に上野氏を迎えに行った。 その足で、モニュメントの制作場所を案内し、それから我が家に案内して取材を受ける。 上野氏にとって、伊藤先生は実像を掴みがたいところがあって(周囲に俵万智や堺雅人等の華々しいスターがいるので)、彫刻家や美術史家になった 伊藤先生の最初の教え子からの話を聞きたいということであった。 おかげで短歌界の方たちへの取材を通してもうまく理解できなかった部分が、瞬時にしていろいろわかったと喜んでおられた。 11月26日(土) ☆午前のうちは雨。 午後から一気に晴れて、気温は上昇。 ☆朝一に接骨院。 3週間ぶりの接骨院。 電気治療を受けていたら、”文化賞おめでとうございます”と院長に足元をハイタッチされた。 ☆午前は、たまった新聞記事のスキャン作業とリビングの周辺整理。 昨日、ダスキンがお試しのロボットクリーナーを持ってきてくれたので、試運転しながらデスクワークをする。 ☆午後に、みやざきエッセイストクラブの中村さんが、印刷のあがった作品集27「記憶の手ざわり」(鉱脈社 1320円)を持ってきてくれる。 表紙と扉に私の作品画像を使っていただいた。 非常に美しいあがりで、大満足である。 「記憶の手ざわり」というタイトルが、私の大理石彫刻作品ととてもよくマッチしている。 もう書店に並んでいるのだろうか。 この作品集の表紙レイアウトのひな形は、私の「月の雫」の表紙デザインを担当してくれた榊あずささんが作成したものだそうだ。 11月25日(金) ☆快晴。 朝は夜間の放射冷却で冷え込んだが、日中は気温が上昇して半袖で過ごす。 天候は下り坂で夕刻からは冷えこむ。 ☆モニュメント制作。 朝一にペーパー800#研磨。 これで裏面の作業は終了した。 午前は、月下部に開けた心棒固定用の接着剤流し込み穴を塞ぐ栓の作成。 モニュメント本設置後にこの穴から接着剤を流し込み、その後に設置現場で同じ石材から作った栓を嵌め込んで仕上げ作業をする。 ☆午後は建立趣旨銘板台座の図面を引く。 図面から原寸ベニヤ型を作り、駅前ロータリーの設置場所で傾斜を確認して、図面を修正する。 設置場所がモニュメントに向かっての昇り勾配の傾斜地なので、銘板の設置面の角度の割り出しがなかなかスムーズに進まない。 ☆夕刻に同窓生のM君来訪。 先日の同窓生有志による文化賞受賞祝いの宴をビデオに撮ってくれたのだが、私のモニュメント制作の動画も入れて編集したい、ということ。 ☆今日はちょっと奇妙なことが続いた。 お昼の用意をしていたり、入浴後にバスタオルを使っていたりした幾つかの場面で、ふっとさっきも全く同じことをしていた”パラレルワールド”感に陥った。 現実には無かった出来事を、実にリアルな数日前の記憶として想い出す”パラレルワールド”体験は時々起こるが、今日のように一日のうちに色んな所作で感じたのは 初めてである。 11月24日(木) ☆快晴の非常に暖かい一日。 ☆モニュメント制作。 朝一に、帯のカッティングの残りを仕上げる。 そこへ工務店の担当者が先日打ち合わせをしたロータリーの本体台座周囲のレンガ見本を持ってきたので、決定をする。 またお願いしていた建立趣旨銘板台座設置場所の傾斜図面も作成してくれていたので、昼前は先日用意した石から銘板台座の寸法を割り出す。 ☆午後はモニュメントにサインを入れる。 今の面は裏面で、ちょうど月下部の右足元に黒いポイント模様が在るので、そこにサインを入れる。 私はこのサインを入れる作業が超苦手である。 エアーで文字を彫る以前は、太古から石工たちはみんな手ノミで石に文字を彫ってきた。 墓地に行くと、江戸時代に彫られた墓石の文字がノミ跡も鮮やかに残っていて見飽きない。 しかしエアー彫りに成ってからの文字は実に味気ない。 そう実感しながら、私は全く文字が彫れない。 夕刻に本体にペーパー400#を掛ける。 やはりペーパーでも息切れがする。 ☆今年の宮崎日日新聞「茶の間」(女性エッセー投稿コーナー)の茶の間賞特選の小河恵子さんは、私が小学校のPTA活動をしていた時の仲間である。 (今日の宮日”ひと”欄に紹介記事) 彼女はいつも、”田中さんはカッコイイスネ!”と言っていた。 先年、久しぶりに量販店で遭った時にも、”やっぱ、田中さんはカッコイイスネ!”と声をかけてくれた。 このことは、当時のこの日記にも書いた気がする。 彼女は自称ロックンローラーでプロレスファンなので、こういうヤンキー言葉になる。 世界で唯一、私をカッコイイと言ってくれる女性である。 特選受賞は嬉しい。 11月23日(祝・水) ☆朝のうちまで雨。 雨は急速に上がって、日中は気温の高い晴天。 夜になっても冷え込まず。 ☆モニュメント制作。 今日は祝日なので山田が手伝いに来てくれた。 2人で帯部のカッティングライン入れ作業。 やはり2人で作業すると早い。 昼前にはラインの彫り込みが終わり、手ビシャンを掛けるが、この手ビシャン作業が体力勝負でヘロヘロに疲れる。 私はまだ体力が恢復していないし、山田も久しぶりの作業なので、2人ともたちまち息が切れてしまった。 それで、午後からはエアービシャンで作業してもらったら、山田も要領が解って、ほぼおおむねのビシャン作業を一人でやってくれた。 夕刻までには、側面の一部を除いて、ほぼ帯の作業は終わった。 これで完成の姿がようやく立ち上がってきた。 残るは本体のペーパー研磨のみである。 11月22日(火) ☆午前は快晴で、気温が上昇。 午後からは急速に雲が出て、夕刻から雨。 ☆モニュメント制作。 まだ気分はすっきりしないが、嘔吐感や下痢は止まったので作業を再開する。 午前は体力仕事は避けて、帯のカッティングラインの墨入れ作業と、銘板台座石の準備をする。 午後は、明日の祭日に山田が来てくれるので、山田の帯カッティング作業用にグラインダーに2枚刃を取り付ける。 ところが2枚刃用のストレートディスクの在庫がまだあったと思って自宅工房の道具棚を捜してみたら、もう1枚も残っていなかった。 それで切れなくなって取り換えていたディスクを取り付けてみたら、作業にはほぼ支障は無かった。 午後後半に帯のカッティング作業を少しやってみたら、明日に山田と二人で作業すれば、金曜日にはクレーンでの返し作業ができる見透しが立った。 それでクレーン会社に電話すると、金曜日はすでに作業が詰まっていて、来週月曜日の朝一に作業をお願いする。 ☆夕刻早めに作業を辞めて、雨の降り出したなかを稲井・高鍋副町長の通夜に行く。 稲井氏は、高鍋町美術館が開館する前から開館準備室を経て、同館学芸係長を務め、2018年に社会教育課長との兼任で高鍋町美術館長を勤められた。 春に、稲井氏が血液の癌にかかり、療養中だとは聞いていた。 今年の初めには、元美術館職員のS氏が突然死されたばかりである。 ☆夕刻6時から、高校同窓生有志による宮崎県文化賞の受賞祝いの宴。 私と、元高鍋町美術館長の安井君は、稲井氏の通夜から駈けつける。 昨日の体調不良からまだ完全に恢復している訳ではないので、飲食への不安はあったが、ほぼ正常に飲酒し食事を摂ることができた。 口さがない仲間ばかりなので、言いたい放題で、ちっとも心から私を祝ってくれている雰囲気ではなく、前半は非常に気分が悪かった。 私の受賞祝いは口実で、久しぶりに友人たちと呑める嬉しさの方が優っている感じだったが、気心の知れている同窓生たちなので許そう。 途中で伊藤一彦先生に電話を入れる。 先日の秋の叙勲のお祝いも皆から伝えたかった。 一人一人電話に出てもらったが、伊藤先生は自分の事は記憶にないだろうと電話に出るのを固辞していた同窓生たちのことも実に良く覚えておられた。 同席した全ての同窓生のことを覚えておられて話が弾んだ事には、私たちもみんな驚いた。 11月21日(月) ☆晴れ。 今日も暖かい一日。 ☆夜中ぢゅう、酷い下痢で何度もトイレに駈け込む。 ムカつきはあるが、嘔吐まではない。 とても作業できる状態ではないので、朝一に行きつけのO内科へ行く。 ところが、吐き気や下痢のある人は院内に這入れないという張り紙。 病院に電話すると、発熱外来になるが、午前中は発熱外来の予約がいっぱいなので、午後に再び来てください、ということ。 ☆困ったことになった。 もしコロナだったら、モニュメントの作業工程が大幅に狂う。 予定では今朝一番にクレーンの手配をして、金曜日には返しの作業のつもりだった。 しかし、今日一日作業を休んだ上に、コロナで数日作業停止に成ったら、返し作業がいつになるかわからない。 熱は無いので、コロナではないと思うが、最近の高鍋管内はコロナ患者が急増しているし、土曜日の高鍋高100周年の式典と祝賀会では不安が大きかった。 体はガタガタで身動きできないので、午前は和室で寝て過ごす。 ☆午後に再びO内科へ。 電話連絡をして車の中で待機。 結局、問診と聴診器診察だけで、単なる胃腸炎という診断。 ここ数年、年に1,2度はこういう激しい胃腸炎になる。 とまれコロナでは無かったので安心した。 駐車場には発熱外来で診察を受けている患者が多かった。 ☆夕食はまだ食欲は無いが、うどんならと思って鍋やきうどんを作る。 何んとかおいしく食べることができた。 処方された吐き気止め等の薬を服用して、早々に床に就く。 ☆空港展実行委員会で12月中旬に文化賞受賞祝いの宴を開いてくれることになった。 ちょうど友人の彫刻家が手伝いに来てくれている時なので、彼も一緒に参加してもらうことになった。 早速、ホテルの予約を入れると、旅行支援割は予算オーバーで適用外だった。 ところが、彫刻家の友人が同じホテルに予約を入れると、旅行支援割が適用されたという。 それでホテルへ確認の電話を入れると、この旅割のシステムが複雑で、旅行代理店とホテルそれぞれに予算の割り当てがあり、私が予約した”じゃらん”は もうすでに予算を使いきっているが、ホテルの公式サイトからならまだ適用されるので、”じゃらん”をキャンセルして、ホテルのサイトから予約をして、STAYNAVIから クーポンを発行してもらってくださいと言うこと。 無事にクーポンを発行できた。 11月20日(日) ☆朝のうちまで雨。 直に雨は上がって、気温も急上昇。 気持ちの好い行楽日和となった。 ☆午前のうちに延岡市まで走って、大瀬川にこの秋設けられた特設いろり席の鮎やなに出かける。 大瀬川の鮎やなは、近年の集中豪雨でかつてのやな場が流されてしまって、最近は五ヶ瀬川沿いの北方町・川水流やなに出かけていた。 2年ぶりに大瀬側河川敷にいろり席ができたというので、出かけてみたが、やはり昔のちゃんとした建物の中のいろり席の趣は全く無い。 コロナ対策での風通しの良いオープンないろり席になったのだろう。 まもなく鮎やなも終了する日曜日だったので、席に着くまで1時間待ちであった。 セット料理のそれぞれの一品の量が多すぎる気がした。 とまれ秋の味覚を、素晴らしい気候の中で楽しんだ。 ☆鮎やなを出て、9月に開館した「延岡城・内藤記念博物館」へ。 それまでの内藤記念館が老朽化したので、全く新しく建物を作り直し、内藤記念博物館としてリニュアルしたもの。 私が制作し、以前の内藤記念館に展示してあった「内藤充真院像」がどうなったかが気がかりで、確認に出かけたのである。 そうしたら、あたらしい記念博物館2階の常設展示室入り口にきちんと展示してあって、安心した。 ☆内藤記念博物館からは、正面に石垣を組んだ延岡城が見える。 私は延岡市には中学校の非常勤勤務で約1年半住んだが、風情が在ってとても大好きな街だった。 ☆夕刻に高鍋へ帰宅。 そのころから気分が優れなくなった。 夕食の準備を始めるころから、猛烈な気分の悪さと片頭痛で、全く食事を摂れる状態ではなくなってきた。 今日の気温の急上昇で、またも体調が崩れて風邪気味がぶり返したのかもしれない。 そして激しい下痢が始まって、軽く赤ワインを呑んで床に就く。 11月19日(土) ☆一日、雨。 ☆やはり体がガタガタに疲れていて、今朝は目覚ましの音も気付かなかった。 ☆午前は、高鍋高校創立100周年の記念式典。 高鍋高校の体育館で、コロナ禍に這入ってから初めての全校生徒、多くの来賓が一堂に会しての盛大な式典となった。 私は同窓会評議員なので、来賓席の末席であった。 式典の前に在校生によるアトラクションが行われた後に、来年から採用される新制服が披露された。 時代の流れで、多様性に配慮と言う形で制服は色んなパターンがあり、生徒はその中から自由に選ぶのだという。 したがって、全員同じ高鍋高校制服の生徒がこの場に集うのは、今年が最後になる。 ☆その後に定型通りの記念式典。 休憩をはさんで、記念演奏会。 いつもは夏のOB祭の時にOB祭実行委員会による記念講演会が行われるのだが、今年の夏はまだコロナ禍の自粛でOB祭が開催できなかった。 それで今回は100周年記念式典の中で、OB祭実行委員会主催の講演会を演奏会として開催することになったようだ。 演奏者は守時タツミ氏という音楽家で、音で絵本を表現したり、各地の風景をその地の音を取り入れながら音楽にする活動をされている。 2007年からは「100年後の子どもたちへ」という思いでの活動をされていて、それで今回は高鍋高校の創立100周年事業として最適な音楽家という紹介を受け、 高鍋高校の100年後に向けての音楽を作ってもらい、それを母校・高鍋高校へ贈るという企画となったようだ。 守時氏は高鍋町に何度か足を運ばれ、高鍋高校での音の収録を重ねながら曲を作られた。 いわゆる環境音楽で、多くの方にやわらかい感動を与えられた。 ☆夕刻からは、ホテル「四季亭」での祝賀会。 同窓生では、東京同窓会事務局を務めている小川君と、群馬の旧姓・竹原さんが東京から来てくれた。 小川君とは、私たちがOB祭実行委員会担当の時に、東京で同窓会を盛大にやって、新宿のホテルに泊まった時以来、30年ぶりであった。 締めは何時もの通り、校歌と応援歌の斉唱。 同窓会っていいものだと、思う。 ☆100周年の記念誌には伊藤先生からの寄稿も寄せられていた。 その中で、私との「月の雫」出版のことや、公開対談のことにも触れてあった。 帰宅して、伊藤先生にお礼のメールを送る。 ☆Yan Liuが、私の文化賞受賞のニュースを、ISSA日本人メンバーの出来事として、中国語と英語でフェイスブックのISSA(国際彫刻シンポジウム連盟)の サイトにアップしてくれた。 11月18日(金) ☆午前は小雨。 午後は曇天。 気温は底冷え。 ☆体はガタガタ。 朝起きるのが辛い。 ☆モニュメント制作。 朝一に、駅前ロータリー現場で、銘板台座の設置場所等の打ち合わせ。 そして400#と800#のセラミカ研磨。 残るはペーパー研磨と帯部のカッティングライン入れ作業のみ。 うまく行けば来週の金曜日には再び表面への返し作業ができるか。 ☆私が制作しているグラウンドは普段はゲートボールで使っているらしく、ゲートボール関係者からいつまで作業するのかと言う問い合わせが来ているらしい。 あんな広い空間なら私が作業していても問題ないと思われるが、ちょうど私の制作している場所がトイレと休憩所になるのだそうだ。 それで目標は1月末か2月初めまでにモニュメントを設置して、2月中旬までには作業場のプレハブ等の設備を全て撤去してしまうことにする。 11月17日(木) ☆天候は下り坂。 一日曇天で、底冷える。 昼に一時的に小雨が降ったが、今日のうちはそれ以上の崩れはなし。 ☆モニュメント制作。 午前中まではセラミカ100#での研磨。 なかなか傷が取れない。 午後からはローラーベルト200#とセラミカ200#での研磨。 今日は冷え込んだので、セラミカ作業では角度を工夫して頭から水をかぶらないようにした。 ☆今日の読売新聞に、文化賞授賞式の記事。 ☆工務店から、文化賞のお祝いに”カンペ バローロ 2012”という高価なイタリアワインをいただいた。 こんな高価なワインに合う食事なんて、私には作れない。 当分は飾っておこう。 あるいは料理が自慢のレストランにワインが持ち込める”BYO”サービスをやっているお店を捜すか。 ☆今日は高鍋駅周辺の区域は神社の祭礼があったようで、あちこちで高齢の方たちが集まっておられた。 その中に私の同窓生の姿もあったが、頭髪も真っ白で、歩き方もおぼつかなく、もう完全に高齢の老人然としていた。 かたや私は毎日20トンの石と格闘している。 はたから見ると彼と私が同窓生など信じられないだろう。 こうして、毎日健康に動けることに感謝である。 11月16日(水) ☆快晴。 朝夕は冷え込む。 ☆モニュメント制作。 月上部のエアー研磨に這入る。 最初は接着し直した80#のローラーベルトを使っていたが、やはりしばらくするとまた切れてしまった。 生産中止になったベルトサンダーの在庫を確認して、ベルトを注文してあるので、届くまではセラミカでの研磨になる。 セラミカを使ってのエアーポリッシャーは頭から水をかぶってしまって、全身ずぶ濡れになる。 一応、雨カッパと前掛けを身に着けて作業するが、頭からの水はフード付きのカッパが必要である。 今日は風もあって冷え込み、風邪気味の体には堪えた。 ☆午後に石井記念友愛社の児嶋理事長来訪。 児嶋理事長は春に訪れて以来で、あの暑い夏を良く乗り切ったねと声をかけてくれた。 身近な同窓生の中で心身ともに健康なのは、私と児嶋君くらいである。 入れ替わりに、三兄が来訪。 これから教え子たちの還暦同窓会に電車で出かけるのだと、タクシーで駅に着く前に立ち寄ってくれた。 先日の転倒・救急車搬送事件以来、もう独りでの車での遠出は出来なくなったのだろう。 ☆高鍋高校同窓会の東京支部懇親会に出席した妹たちからのライン報告だと、高鍋町長が駅前モニュメントの話をしたようだ。 ☆夜に久しぶりに延岡時代の友人で島根在住のM君から電話。 奥さんを、コロナ禍に這入った時期に癌で亡くしたとのこと。 奥さんは、彼女がアルバイトをしていた喫茶店に私とM君とで入った時に出会って、いつの間にか二人は恋仲になり結婚した。 そしてM君は、その喫茶店を買取り、二人で営業していた。 私は教職採用の面接で面接官と喧嘩をして無職になってしまった間は、二人の家に居候していた仲である。 11月15日(火) ☆晴れ。 昨日までの陽気から一転、今朝はとても冷え込んで、防寒ジャンパーを着ても寒かった。 昼前までには気温も上昇して半袖になる。 午後からは雲が出て、気温は下がってくる。 ☆モニュメント制作。 朝一に、工務店担当者と駅前ロータリー現場で、ロータリー工事の打ち合わせ。 周景の工法と色見決定、台座廻りのタイル選び。 台座は本体が完成して設置できるようになった時点で設置し、設置作業は一連の流れで一緒に行うということ。 ☆日中は研磨作業。 月下部は最終研磨の800#。 800#のローラーベルトが健在なものが残っていたが、やはり途中でベルトが切れてしまい、セラミカで研磨する。 月下部のエアー研磨が終わり、月上部の帯立ち上がり部を山田が作業してくれた残りを手磨きする。 ☆今の状態では1月中に設置は無理なので、12月でのヘルプを友人の彫刻家に打診していた。 今日になって中旬に10日ほど来れるという連絡があり、ホテルも予約して貰った。 ぎりぎり、旅行支援の宿泊料割引が受けられる。 ☆宮崎大学3年の時に首像のモデルをしてもらったSさんが久しぶりに実家へ帰省して、私の文化賞受賞のことを知ったという。 彼女の首像は、大学時代に作った首像の中ではもっとも充実した作品で、ブロンズにも鋳造している。 その制作時のデッサンのコピーを彼女が所持していて、現物は実家に置いてあるので帰省した時に捜してみると言っていた。 ところが、今回帰省してみたら、実家は建て替えられていて、彼女の持ち物は全て無くなってしまっていたということである。 乱雑なデッサンだが、当時の私の気持ちのもっともみなぎっていた時のデッサンで、キリリとしていいデッサンだったので、現物が欲しかったのである。 それで、デッサンが無くなってしまったお詫びと受賞お祝いの言葉をかけたくて、宮崎市まで出てこられたそうだが、さすがにいきなりなので躊躇して 実家に戻られたというメールが届いた。 今回の文化賞受賞は、当時にモデルを務めてくれた友人たちには最高の恩返しになる。 当時の私は単なる呑んだくれだったのだから。 11月14日(月) ☆晴れ。 日中の気温は、昨日ほどまでの暑さは無かったが暖かい一日。 午後からは雲が多くなり、夕刻からは冷え込む。 ☆一晩中気分が悪く、夜中に何度も目が醒めた。 お昼も胃が痛く、お昼が食べられず、夕刻には重い頭痛や鼻水の風邪症状。 やはり疲労がたまっているところへの急激な気温の変化で、体調を崩してしまったようだ。 咳込みや熱はなし。 ☆10時過ぎにシェラトンをチェックアウト。 宮崎市内で妻の買い物をして昼前に帰宅。 そこへ、仕事の打ち合わせの訪問者。 胸像制作についての経費等概要の相談。 別に文化賞を受賞したのがきっかけでのお話ではなく、数年前から考えておられた構想だということで、私の作品はよくご存じだった。 普段であったなら、月曜日はモニュメントの仕事でお昼過ぎにしか途中帰宅しないので、たまたま妻と一緒にお昼前に在宅していたタイミングでの来訪であった。 まだ構想段階なのでどうなるかは全く未定である。 ☆午後に、血圧の定期健診でO内科へ。 どこも異常なし。 ☆今日は疲れも溜まっているし、風邪気味なのでモニュメント制作は休む。 11月13日(日) ☆昨夜からの雨は、夜中に本格的になる。 時折、遠雷が交じり、雨は朝方まで続く。 雨は朝のうちに一気に上がって、急速に気温が上昇。 まるで夏に戻ったような気温の高い一日となった。 ☆雨が上がって、高鍋町議選挙の投票。 ☆昼前に広瀬中学校へ出かけて、島津啓次郎像の着色作業。 色を塗ってみると、昨日は曖昧だったセメント本体と分厚いペンキ膜のはがれ部分が区別がつくようになったが、傍目にはわからない。 台座も欠けていたので補修する。 依頼された担当者の方にも確認をしてもらう。 ☆夕刻から、妻とフェニックスリゾートのシェラトン・グランデ・オーシャンリゾートへ。 文化賞受賞の祝いで、妻への感謝を籠めて予約していた宮崎牛鉄板焼きの”ふかみ”で夕食を摂る。 期待していたのだが、思ったほどの感激も無く、次第に気持ちが沈んでいった。 先日から気温の激しい変化で風邪気味のせいもあったのだろうが、部屋に戻るとどっと疲れが出て、動けなくなった。 次第に片頭痛で右こめかみが痛くなり、吐き気もしてきて気分が悪くなり、早めにベッドに入る。 ☆シェラトンには大勢の韓国人観光客。 部屋のニュースを観ていたら、コロナ禍で停止されていた宮崎ーソウルのチャーター便が、今日再開されて200人の団体客が宮崎を訪れたと言うこと。 団体客一覧のボードに、”ロッテ ツアー”と言う団体があったので、皆さん、シェラトンに泊まっておられるのだろう。 11月12日(土) ☆日中はおおむね晴天で陽射しが強く暑かった。 天候は下り坂で、午前に時折りにわか雨。 夕刻からぽつりぽつりと雨脚が落ちてきて、夜までには雨となる。 ☆朝一に接骨院へ行くと、駐車場も満杯で院内も多くの患者でごった返していたので、治療はあきらめる。 明日が何かの試合の決勝戦らしい。 ☆今日はモニュメントの制作は休んで、以前から依頼されていた宮崎市広瀬中学校の島津啓次郎セメント胸像の修復作業をする。 この胸像は以前にも書いたが、私が学生時代のころまで活動されていた白石盛香氏(大正8年東京美術学校卒業)が昭和38年3月に制作設置されたものである。 一目で白石氏の作風と解るが、肝心の島津啓次郎には全く似ていない。 それでだろう、像のタイトルは「少年の像」となっている。 建立趣旨の石板は手彫りだが、「少年の像」銘板は後年のエアー彫りなので、やはり島津啓次郎には全く似ていないので、「少年の像」のタイトルは後に 名付けられたものだろう。 私は広瀬中学校に教育実習で来ているし、妻の初任校も広瀬中学校だったのだが、私たちはこの像の記憶が無い。 したがって、校舎が木造からコンクリートに建て直されたときに、他所から今の場所に移転されて、タイトルも「少年の像」に改められたのではないのかと推測する。 (胸像設置は広瀬中学校卒業生) ☆このコンクリート像は、寒水石を混ぜた白セメント像である。 戦後の当時は、まだブロンズ鋳造できる余裕が無かったのだろう、朝倉文夫にも当時のコンクリート像がある(後にブロンズ像に鋳造)。 私が学生時代あたりまでは、宮崎県内に設置された屋外彫刻は殆どはセメント像で、厚くペンキが塗られている。 私が関係した日章学園の初代理事長の胸像もセメント像で厚くペンキが塗られており、ブロンズに鋳造し直す時にペンキをはがすのは大変だった。 この白石氏の「少年の像」も分厚いペンキが塗られていて、欠けた鼻や耳、目、口等は何処までがセメントで、何処からがペンキの層かわからない。 めくれた分厚いペンキの層がカチカチに固まってしまって、セメントとの区別がつかない。 だから、ペンキをはがすことは不可能なので、そのままセメントで修正作業をしてゆくしかない。 ☆午後半ばまでにほぼ欠けた部分の修正は終わったので、明日は天気が恢復したらペンキを塗って仕上げ作業をしよう。 ☆注文していたセイコガニが届いた。 以前にも注文して食べたことはあるのだが、格別に美味しいとも思わなかった。 しかしネットの評判では絶品の評価が飛び交っているので、もう一度食べてみようと思った。 ネットでさばき方を調べて調理してみたら、本当に絶品だった。 以前は食べ方がわからないだけだったのだ。 食卓が一気に料亭並みの豪華さになった。 今日のために福原美江さんからいただいた日本酒を取ってあったので、至福の夕食となった。 11月11日(金) ☆晴れ。 今日も陽射しの暑い一日。 半袖で過ごす。 ☆モニュメント制作。 昨日修正した股下に接着し直した80#ベルトをかけて、200#の研磨に這入る。 200#ベルトは使えるものが残っていたので、順調に200#をかける。 ただ帯の立ち上がり部はベルトでは圧が弱かったので、セラミカ200#を掛け直す。 次の400#は、劣化で接着部が切れていたものを再接着したベルトを使ったが、やはり作業を始めてしばらくすると接着剤が外れてしまった。 仕方なく、セラミカ400#で研磨する。 ☆高校同窓のM君が来訪。 夏に一度来たらしいが、宝酒造の裏を捜して、とうとう作業場が分からなかったと言うこと。 彼が幹事で、近いうちにいつも集まる同窓生数人での文化賞受賞祝いをしてくれることになった。 2週間後にはコロナ第8波がピークとなる予測が出ているので、12月に這入ると再び飲食の自粛規制が始まってお祝いどころではなくなるだろう。 ☆作業しながらMRTラジオを聞いていたら、”もぎたてラジオ”パーソナリティーの山田幸子さんが短歌の話題に触れて、想い出した。 山田さんは短歌をやっておられるのだ。 先日も伊藤先生主催の短歌イベントの司会をされていた。 山田さんは昔の私を記憶されていたのではなく、「月の雫」を出版した今の私をご存じだったのだ。 11月10日(木) ☆晴れ。 日中は陽射しが強く、半袖でも暑かった。 夕刻からは雲が多くなる。 ☆モニュメント制作。 セラミカ100#でのエアー研磨作業。 なかなかカップ砥石の傷が取れないが、ようやく目途がついたところで、石面がなだらかになってきたら、にわかに石面の凹凸が目立ってきてしまった。 特に股下は補強の接合部を残したままなのでうまく面が出せていない。 こんなにいつまでたっても面が決まらない作業は初めてである。 200#の研磨に入る前に、ダイヤカップから掛け直して修正する。 ☆工務店との打ち合わせで、工務店は正月を過ぎると年度末の時期となり、多忙な時期に這入る。 それに、モニュメント設置はJRの終電から始発までの夜間に行わなければならないので、そうなると平日の夜中には業者を使えないので、土・日にしか 作業できないと言う。 逆算すると、1月末までにはモニュメントの設置に入らないと、工務店が対応できなくなる。 ☆朝、パソコンでヤフーニュースをぐぐっていたら、なんとすでにコチュマルが日本に来ていて、高岡の鋳造所で作業を始めているチューリップテレビの番組が アップされていた。 そして、私の文化賞授賞式の記事の確認のために買った読売新聞を開くと、授賞式記事はまだ掲載されていなかったが、社会面にコチュマルの記事が載っていた。 それでテレビのURLと新聞記事のコピーをコチュマルと奥さんのターニャに送ると、折り返しの返事が届いた。 ターニャからの返事だと、やはりウクライナでは成人男性は兵役義務で国外に出れないので、出国は大変だったようだ。 コチュマルが日本へ発つ日も、彼の住むハリコフは空爆を受けていたようだ。 でも今はすべてうまく行っていると喜んでいた。 ☆午前中にMRTラジオの”もぎたてラジオ”を聞きながら作業していたら、県内各地からのエリアリポートというコーナーが高鍋町からのリポートだった。 その中で、担当の高鍋町観光協会のYさんが、高鍋駅前モニュメント制作の話題を披露してくれた。 ラジオパーソナリティーの山田幸子さんは、私が文化賞を受賞したことを知っておられた。 私の書斎には山田さんが担当した2004年の空港展の放映ビデオが保管してあり、そのビデオには山田さんの直筆メッセージが添えられている。 山田さんは私のことを覚えておいておられたのだ。 ☆伊藤先生から、今村翔吾「塞王の楯」が届く。 11月9日(水) ☆晴れ。 今日も陽射しの強い一日。 ☆モニュメント制作再開。 午前は作業場の復元作業。 作業場内に移動していた台座と削岩機で落とした石を元の場所に戻す。 動きの悪いベルトサンダーを工具代理店に点検してもらっていたが、どこも異状ないという。 しかし作業してみるとやはりパワーが無い。 工具代理店がエアーホースの径が小さすぎるのではと言うので、径の大きいエアーホースを使うと正常に作動した。 そう言えば、アンジェラスの森での作業には一回り径の大きいホースを使っていたのだった。 ☆午後から研磨再開。 しかし先日劣化していたベルトを接着剤で接合していたものは、やはり作業途中で接着剤が外れてしまった。 仕方なくセラミカで傷取り作業を続ける。 11月8日(火) ☆全き快晴。 非常に気温の高い一日。 ☆父、40周忌命日。 ☆宮崎県文化賞授賞式。 午後1時過ぎに宮崎県庁へ。 同時受賞の岡林先生と一緒に、授賞式のリハーサル。 岡林先生は私の宮崎大学時代の一般教養英語の恩師である。 31年ほど前、私が高鍋高校OB祭実行委員長の時に、OB祭の講演会に俵万智を呼びたくて、俵万智の兄貴分である伊藤先生に労をお願いしたく、そのために 伊藤先生の奥さんに相談に出かけたことがある。 待ち合わせの喫茶店に行くとカウンター席に岡林先生が座っておられた。 そのお話をすると、あのお店は岡林先生の奥さんが開いておられた画廊喫茶だったということである。 また岡林先生は亡くなった宮崎空港ビルの渡邊課長ととても親しくされていて、岡林先生宅には一時、渡邊氏が所有していた私の妻がモデルの”南光”座像ブロンズが 置いてあったこともあるという。 その奥さんは先年亡くなられ、今日は娘さんがロサンゼルスから帰国されて出席されていた。 ☆午後2時から、講堂で授賞式。 私の介添えには、妻以外に宮崎彫刻グループの奥村羊一に出席してもらった。 今回の受賞は宮崎彫刻グループのこれまでの40年間にわたる活動への評価でもあると思っているので、女房役の奥村に共に受賞を祝ってほしかった。 高鍋町の行政からは島之内教育長に出席いただいた。 ☆文化賞選考委員長の選考審査経過報告では、今回は16件の推薦が上がってきたということで、受賞はそう簡単なものではない競争率だったようだ。 ☆授賞式の最後は各受賞者のスピーチであった。 私は次のようにスピーチした。 ”今回は宮崎県文化賞という晴れある賞を受賞させていただきありがとうございます。 心からお礼申し上げます。 1982年昭和57年に宮崎彫刻グループを結成以来、ほぼ40年間にわたって、文字通り宮崎の彫刻界の充実に命を投げ打ってきました。 おかげさまで、現在も継続開催しています宮崎空港での国際彫刻展にはこれまでの参加作家数が国内作家232名、海外作家が41カ国からの150名に及んでいます。 一地方においてこれほど広範な作家の参加してきた現代彫刻展は他に例を見ないでしょうし、空港での彫刻展は世界でも例をみません。 今回の受賞はそうした私たち宮崎の彫刻家たちの歩みへの評価と受け止めさせていただいています。 そして宮崎にエネルギーを注いでくれている国内外の彫刻家の皆さんの協力の賜物と思っています。 またもう一つの受賞理由の伊藤一彦先生との共著である短歌とコラボした作品集も、おそらく現代短歌と現代彫刻のコラボ作品集は世界で唯一の本ではないかと 伊藤先生はおっしゃっています。 この本を手に取られた方たちからは、彫刻の写真を見ながら涙を流したのは初めての経験だという反応をいただくなど多様な反響があり、彫刻の展開の新たな 可能性としてこうして公的に評価していただき本当に感謝いたします。 ちなみに今日は72歳で亡くなった父の命日です。 こういう日に放蕩息子であった私がこのような賞をいただくのはとても縁を感じます。 そして彫刻家という不安定な職業の私を支えてくれた妻の苦労が無ければ、宮崎の彫刻界の発展ありませんでした。 皆様の前で、あらためて妻に感謝の意を表させていただきます。 ” ☆授賞式の後に、知事会議室で知事との懇談の後に、講堂と県庁正面玄関前中庭での記念撮影。 ☆授賞式の間にちょっとしたハプニングがあった。 岡林先生の娘さんは、亡くなられたお母さんの形見の和服姿で参加されたのだが、劣化のためにリハーサル中に草履の緒が切れてしまった。 そして授賞式が終わって知事会議室に向かう途中で、知事が妻に声を掛けられた。 なんと、今度はやはり劣化で妻の靴底がはがれてしまったのである。 妻は授賞式用の靴が窮屈なので、授賞式が終わったら履き替えようともう一足の靴を持参してきていた。 妻は、こういう事のために靴をもう一足用意していました、と平然と答えて履き替えた。 すると知事は、そんなことまで考えて靴をもう一足準備してこられた方は初めてだと驚かれた。 愉快な土産話となった。 ☆県庁の関係部署の担当者に、私が胸像を制作した温水三郎氏そっくりの職員がおられた。 なんと温水氏の孫だということで、私が胸像制作者だと知っておられた。 ☆今日は快晴で、父の命日でもあり、最高の一日だと思っていた。 ところが夜になって、今夜は満月でありながら、皆既月食であり、さらに442年ぶりに天王星の星食が重なるというもの凄い運命の日だということを知って、鳥肌が 立った。 兄妹たちからのラインで、みんな東京、大阪、高鍋の各地でビールを呑みながら442年ぶりの天体ショーを眺めつつ、父の命日に父を想い、私の受賞を祝いながら、 私の”MOON DANCE”を共感しているというドラマのような出来事が届いた。 ☆そういう夜ではあるが、妻とのお祝いの宴は別の日にあらためることにして、今夜は私の手料理で質素に妻とささやかな乾杯をする。 さあ、明日からは駅前モニュメント制作にただひたすらに邁進しよう。 11月7日(月) ☆晴れ。 今日も日中はとても暖かかった。 ☆朝一に高鍋町役場へ。 昨日のライブで借用した児童公園の鍵を返却して、その足で町長室へ。 町長と役場担当者との3者で、モニュメントの建立趣旨銘板のサイズ変更の打ち合わせ。 役場の担当者は私との打ち合わせ通りにデザイナーに伝えてあった。 しかしその間の打ち合わせが不十分で、デザイナーは台座のサイズが銘板のサイズだと勘違いしてしまったようだ。 銘板は私の示した縮小サイズで進めることになった。 ☆午前は、昨日のライブの収支決算や、来場者名簿、アンケート集計などの事務処理作業。 昨日の来場者は26名だった。 ☆午後に、明日の文化賞授賞式での受賞者挨拶のチェック。 先日下書きしていたものを、”2分以内”という規定で喋ってみたら、ぴったり2分で納まった。 少し表現を修正するだけで済む。 ☆モニュメント制作の経費が、実際の制作過程でかなり経費オーバーになっているので、見積もり経費と実際の支出経費の比較一覧を作成する。 こうして今のうちにデータを作っておけば、全ての作業終了時に直ぐにオーバーした経費が算出できる。 どの事業でも見積もり予算と実際の作業経費との差額は最終的に調整されるようだ。 ☆短歌会「心の花」会員の方から文化賞受賞お祝いのお酒が届いた。 今回の私の文化賞受賞理由の半分は伊藤先生との共著「月の雫」出版への評価だったので、短歌関係の皆さんからも多くの祝福をいただいている。 ☆昨日のライブの共演者である照沼さんから、私のハーモニカの腕があがって、とてもよかったというラインをいただいた。 本番マジックということもあるが、私が毎日モニュメント制作で体を張って生きているので、そういう緊張感が演奏に出るのだそうだ。 11月6日(日) ☆快晴。 朝のうちは冷え込む。 ☆午前は南町公民館で今日のライブの会場設営作業。 11時半からライブリハーサル。 途中、私のハーモニカマイクを接続しているスピーカーから音が出ないというハプニングが起きた。 色々チェックしたところ、スピーカーのプラグの不良だとわかり、他のスピーカーに接続して問題は解決した。 ☆午後2時からライブ。 やはりウッドベースが這入るととても雰囲気が好い。 そして私のハーモニカ演奏も、出だしの音が詰まったり、途中で音がダブったりした細かなミスはあちこちあったが、全体的には大きなミスはなく演奏できた。 数日前まで、失敗ばかりでまともに演奏できなかったので、どうなることかと思っていたが、やはり本番は違う。 今日は観客を前にしてほとんど上がらなかったし、ハーモニカの音もとても良く響いた。 観客からの反応も私のハーモニカと口笛に感動される方が多かった。 私は曲の中のハーモニカパート部分だけの演奏が主な演奏スタイルだったのだが、ハーモニカでの全曲通しの演奏を望まれる方が何人かおられて嬉しかった。 今日は初めてライブに来られた方も多かったが、その方たちは私の全く別の顔にびっくりされていた。 遠くは都城市、日向市、宮崎市からも来ていただいた。 他の演奏者たちも大成功と喜んでいただけた。 毎日、20トンのモニュメントと格闘しながら、無事にライブも終えることができて、心底ほっと安心した。 充実の秋となった。 ☆夜は炊きギョウザ”喜八郎”で打ち上げ。 楽しく過ごす。 次回は私のハーモニカソロ演奏をやらなければならなくなりそうである。 ☆夕暮れに、いったん自宅にウッドベースを置きに帰られた中村氏を高鍋駅に迎えに行った。 今夜は満月に近い月齢11,7の月が、高鍋駅舎の真上に煌々と輝いていた。 やはり私のモニュメント”MOON DANCE”と高鍋駅舎そして満月は完全に一体化する。 11月5日(土) ☆快晴の秋晴れ。 気温は上昇。 ☆朝一に接骨院。 妻も一緒に治療してもらう。 ☆午後から、我が家で明日のライブのリハーサル。 ドラム担当の照沼さんがドラムをセッティング。 今回、ウッドベースの中村薫さんにジョイントしていただくことになった。 中村さんは宮崎エッセイストクラブ作品集の編集担当者で、今年の作品集表紙絵に私の彫刻写真を使いたいということで、7月初めに我が家に打ち合わせに来られた。 その後、彼がウッドベースを演奏されることがわかり、しかも今回のライブのセッションミュージシャンである片貝さんと照沼さんとも親しくされていて、何度か一緒に 演奏されたこともあることが分かった。 それで照沼さんの勧めで、急遽、今回のライブに参加してもらうことになった。 7月の打ち合わせ来訪の時のこの日記にも書いたが、中村さんは小学校時代に高鍋町に住んでおられて、我が家の前を通学路で毎日通っておられた。 その我が家でベースを奏でることになったのだから、人間の縁って不思議なものである。 ☆夕刻には隣町のライブから駈けつけていただいた片貝さんも加わって、本格的にライブリハーサル。 やはりウッドベースが這入るといい感じになる。 私はまだまともに演奏できない状態だが、今日はまずまずの出来でほっとする。 11月4日(金) ☆晴れ。 気温は上昇して、半袖で過ごす。 ☆今日からは制作場所のグラウンドは運動会の設営準備で作業ができないので、作業は休止。 ☆午前に高鍋町役場へ、日曜日のライブの駐車場となる児童公園の鍵を借りに行く。 ☆午後は、モニュメントの心棒の図面を描いて、業者へ見積もり依頼。 ☆夕刻に、モニュメントの建立趣旨ブロンズ銘板の寸法を再検討する。 鋳造所に発注をかけた銘板がどう考えても大きすぎるのだ。 私の記憶では、発注をかけた銘板のサイズは、タイトルと建立趣旨のプレートを別々に取り付けた場合の台座の大きさだったと思っていた。 しかし出来上がってきたデザイナー作成の銘板原稿は、この台座の大きさのサイズでデータが作られており、気になりながらもそのまま作業を進めた。 だが、手元にある発注サイズのコピーを見るたびに、余りに大きすぎて、これだと台座がかなり大きくなり、設置場所のバランスを崩してしまう。 それで行方の分からなくなっていた役場の担当者との打ち合わせメモを捜したら、やはり私はプレートが2枚の場合の台座の寸法を割り出して 役場の担当者に伝えていた。 役場の担当者はこれまでやったことのない作業なので、プレートが1枚に変更になったにも係らず、プレート2枚での台座の寸法を銘板自体の寸法と思い込んで デザイナーに外注してしまったようだ。 それで一回り縮小したサイズのコピーを作ってみたら、こちらの方がしっくりする。 週明けに変更作業をしなくては。 11月3日(祝・木) ☆午前は快晴で気温が上昇。 宮崎県内はどこも25度以上の暑さとなった。 午後からは雲が出て来る。 ☆今朝も疲れで起るのが辛かった。 起き抜けに栄養ドリンクを呑む。 ☆モニュメント制作。 文化の日の祝日だが、山田が来てくれたので作業する。 山田は月上の帯立ち上がり部の手磨き作業を黙々とやってくれた。 私は午前は、日曜日に作業場で開催される工務店運動会のために、作業場を整理する。 午後にエアー研磨の続き。 山田の帰った後に、作業場の片づけをする。 足場の枕木がかなりテントの外にはみ出していたので、チェーンを掛けてリフトで引き抜く。 ☆秋の叙勲で、伊藤一彦先生が芸術文化功労の旭日小綬章を受賞された。 伊藤先生は、毎日のように新聞に記事が載る。 11月2日(水) ☆一日、曇天。 気温は上がらず。 ☆今朝も疲労困憊で体が動かず。 ☆モニュメント制作。 朝一に銘板の発注先の鋳造所と電話で打ち合わせ。 版下原稿は、昨日送ったPDFデータで使えるということ。 そして納期については年内は不可能ということだったが、私のモニュメント設置が延びているし、銘板設置は除幕式直前の最終段階での作業なので 1月末か2月初めで問題ないので、こちらもクリアーできた。 問題は、私が見積もり段階で考えていた銘板一式の規模から大幅に拡大になってしまったので、またも相当額の経費オーバーとなり、落ち込んでしまった。 ☆昨日、切断してしまったベルトサンダーのベルトを接着剤で接着し、研磨作業にかかったらサンダーが全く動かない。 昨日はちゃんと動いてくれたのである。 点検すると、サンダーに接続しているエアーホースが劣化であちこち亀裂が生じてエアー漏れがしている。 エアーホースを新しいものに取り替えようとすると、カップラーが動かなくなってしまっている。 午後になってようやく研磨エアー関係の整備が整ってサンダーを動かすと、やはりウンともスンとも言わない。 オイルをたっぷり注いだら何んとか動いてくれたが、石面に当てると止まってしまって使い物にならない。 仕方ないので、ワンタッチのセラミカ使用のウォーターポリッシャーで研磨する。 セラミカは直径が8cmで研磨に時間がかかるし、アール面は角がついてしまうので、あまり使いたくないのだが、致し方ない。 しかしこちらも劣化が進んでいて、ワンタッチの接合が弱くなってしまっているので、勾配のきつい帯立ち上がりに研磨を掛けると、セラミカが外れて飛んでしまう。 長年、エアー研磨作業をやっていないので、色んなものが劣化してしまっていて全く作業がはかどらない。 そして、もうグラウンドの運動会の準備が始まった。 明日は午前だけ作業をして、午後は作業場の片づけになる。 ☆高野悦子「二十歳の原点」を読む。 先日、永田和宏「あの胸が岬のように遠かった」を読んだ時に、京大の大学紛争時代が描かれていて、ふっと断捨離で捨てきれずにいたこの「二十歳の原点」に 目が留まって、本棚から取り出した。 発行は昭和46年5月で、当時の大ベストセラーで、私の持っている本は翌昭和47年2月発行だがすでに23刷のものである。 これまでいつか読もうと思いながらも、とうとう本棚の飾りに終わっていた本で、購入して50年目にして初めて読んだ。 「二十歳の原点」は、彼女が20歳になった1月2日から、鉄道自殺する2日前の6月22日までの日記である。 先の「あの胸が岬のように遠かった」でも、永田氏と河野裕子さんがともに自殺未遂を起こしていたのが告白されているのも、この「二十歳の原点」を読んでみようと 思い立たせた一因である。 高野悦子さんは私と同じ昭和24年生まれで、1月生まれなので1学年上であるが、私とほぼ同時代、同情況にあった人なので、ものの考え方や言葉遣い等は 実によくわかる。 学園闘争と正面から向き合いながらも、心の裡ではそうではない自分を常に感じているのも、当時の私たちが共有していた精神状況だろう。 結果的に、恋愛までも観念的な理論でしか表現できなくなり、行き場を失ってしまったのだろう。 人間らしさを求めて体制の管理社会にあがないながら、結果的に父母と肉親の縁を断ち、自らの命を絶ってしまったのでは何にもならない。 純粋ゆえの一途さが、自らの首を絞めざるを得なかった当時の若者たちの置かれた苦しさに、多くの人たちが共感する哀しみを感じての大ベストセラーとなり、 多くの人に読まれたのだろう。 私はいい加減な日和見のノンポリだったが、それでも当時の美術評論家たちの”今の時代に於いては、作品を造ること自体が罪である”という発言から 何も出来無くなってしまった。 私がその苦しい呪縛から脱け出せたのは、ようやく50歳になってからであった。 11月1日(火) ☆夜中は蒸し暑かった。 朝のうちから雨。 午後後半には雨脚は止まる。 ☆かなり疲れが溜まってきている。 ここ数日、朝がきつくてなかなか起きれない。 今日も5時半の目覚ましは耳にしたが、次に気が付いたらもう7時であった。 起き抜けに栄養ドリンクを飲んでカツを入れる。 ☆モニュメント制作。 建立趣旨銘板の最終原稿が届いたので、発注先の鋳造所と連絡を取る。 私も原稿を原寸大に拡大コピーしてみるが、これまでの私の経験から、ブロンズに鋳造すると文字の線が細く貧弱になる気がする。 役場の担当者が外部発注して届いたイラストレーターデータはイメージの画像で、肝心の文字原寸データが含まれていない。 拡大コピーするとどうしても文字が細くなるので、この原寸大の原稿が無いと私もこれでよいかの判断ができない。 しかも鋳造所からは、イラストレーターでの作業はできないという返事である。 これまでは私の送った原稿をもとに、鋳造所が版下原稿を作成して、双方で確認作業をして作業に入っていた。 今回は役場担当者が気を効かして、版下原稿作成を外部デザイナーに委託したので、ややこしいことになった。 今日はそのやり取りで過ごす。 ☆午後にエアー研磨作業に入る。 しかしエアー研磨機と水ホースとの接続などの勝手がわからなくなってしまっている。 それだけ長期間、エアー研磨機での作業をやっていないということでもあるし、普段は水道設備の無いアンジェラスの森での作業なので、水道ホースを つないでの作業はほぼない。 ようやく整って、ベルトサンダーでの作業に這入ったら、あっという間にベルトがちぎれてしまった。 ベルトサンダーは接着剤で接合してあるので、長期間使わないでおくと、接着剤が劣化して外れてしまう。 ☆とうとう11月に這入ってしまった。 やはりモニュメントの現場据え付けは来年2月に入るのではないのだろうか。 3月には妻との版画二人展を計画しているのだが、版画を制作する時間が無くなってしまった。 |
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