Back to toppage このページでは彫刻家・田中等および宮崎の彫刻に関する最新情報をお届けします。 過去の日記 2024 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 2023 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 2022 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 2021 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 |
2024 | 5月16日(木) ☆曇り。 夕刻に雨。 ☆今日は体調も回復したので、いつものように乗り降り自由の市内観光バスに乗る。 最初に降りたのはテージョ川沿いにある国立古美術館。 ここにはボッシュの「聖アントウニウスの誘惑」があり、友人の画家・河野富夫君からぜひ訪れるように言われていたのである。 ボッシュも素晴らしかったが、1500年代の絵画が、現代の画家以上に新鮮な写実であるのに驚かされた。 1600年代の変にきらびやかになっていく宮廷画家たちの絵よりもとても新鮮なのである。 そしてどの作品も近年の修復技術による汚れ除去によって、とても500年以上前の絵画とは思えないほどにみずみずしく鮮明であるのに衝撃を受けた。 ☆美術館にはレストランがあり、ジャカランダの咲き誇る川を望む庭園に出て、ランチを摂る。 セルフサービスだったが、とても美味しくて、ビールとワインも進んだ。 ☆次に降りたのは、ジェロニモス修道院。 世界遺産になっている壮大な修道院だが、延々と続く入場者に並びながら、私たちの入場の番になってチケットは別な売り場で購入しておかねばならないことが分かり、 内部の観光は諦める。 道向かいに有名な”発見のモニュメント”があり、そちらへ足を運ぶ。 日本は1541年に「発見された」ことになっているらしいが、それは単にポルトガル船が豊後に漂着した年だということ。 ☆カフェで休憩しているうちに、くもり空が雨になってきた。 本格的な雨になる前に次へ移動しようと思って観光バスのバス停で待つが、一向にバスは来ない。 雨に濡れながら小1時間ほど待ったがバスは来ず、バスは諦めてタクシーでロシオ駅へ向かう。 バスのチケットは1日券を買っていたので、周遊コースの半分も乗れず、詐欺に遭った気分である。 ☆ロシオ駅では、明日のシントラ観光に便利な鉄道とバスを組み合わせたパスを購入しようと思ったが、明日の便は明日しか買えないことが分かった。 ☆今夜は7時からのファドの演奏会をネット予約していたが、もう7時間近になっていたので雨の中を会場を探す。 7時前ギリギリに、色んな人に尋ねながらようやく会場に着いた。 ファドは普通はお店で食事をしながらお酒を飲みながら聞くものなのだが、終わるのが夜中2時過ぎるというので、観光客向けの50分間のショー会場に行く。 やはり観光客向けなので、私の知っている怨念のこもった恨み節は全くなく、あまりにもライトなファドでちっとも面白くもなかった。 ☆ファドが終わると、雨も上がっていた。 5月15日(水) ☆晴れ。 陽射しは強いが気温は冷え込む。 ☆5月も半ばとなり、私たちのヨーロッパ周遊旅行は残り2週間となった。 そしてここにきて体の不調が出てきた。 ☆朝食を摂って洗濯をしたあたりからどうも胃の調子が良くない。 午前の予定は地下鉄に乗って旧市街地の中心であるロッシオ駅に向かい、観光案内所でこれからのスケジュールの資料をもらって観光の予定だった。 だが地下鉄で1日乗り放題のチケットを購入して2つ目の駅のロッシオ駅で降りたあたりから体調が最悪となり、とても身動きできる状態ではなくなった。 観光案内所と近郊のシントラとロカ岬の観光拠点となる電車のロッシオ駅を確認してすぐに、妻をせかせて宿へ引き返す。 ☆体調はフランス・ボーヌの時と同じように激しい下痢と嘔吐感である。 胃薬では収まらず、腹薬を服用してベッドにもぐりこむ。 そのままずっと夕刻まで寝て過ごす。 ☆妻は午後から一人で地下鉄に乗って観光に出た。 ☆結局、今日は午前の地下鉄移動以外は寝て過ごす。 先日のセビーリャの休養日は体の休養にはならなかったので、今日は体ごと休養せよということだったのだろう。 ☆妻が帰ってきてから夕食に出る。 とても夕食の摂れる状況ではなかったが、吐き気はかなり収まっていた。 そこへカフェで焼そばを食べている場面に遭遇し、お店に入る。 インドのゴアがポルトガル領だったせいか、リスボンはインド料理店が多く、インド料理店は同時に中華系の料理も提供している。 その店もインド料理店だったが、中華メニューがあった。 迷わず焼きそばと手羽唐揚げを注文。 ビールを注文したら大ジョッキで出てきた。 結果的にすごく美味しくて、大ジョッキのビールも飲み干してすっかり元気になった。 やはり日本人は東洋料理で身も心も救われる。 5月14日(火) ☆ファーロは快晴。 半袖ではひんやり肌寒いが、空気が澄んでいて気持ちが好い。 ☆朝の7時前に眠い目をこすってファーロ駅へ。 ファーロ駅へはホテルから徒歩数分の距離。 朝のラッシュにかかる前にと、今日のリスボン行きの高速電車の座席指定チケット購入に望む。 ところが昨日とは別の窓口担当者は、QRコードが出せない旨を伝えてマイパスを見せると、すぐにチケットを出してくれた。 いつもは必要なパスポートの提示もなく、あっけなく手続きは終わった。 私がすぐに部屋に戻って来たので、妻はびっくりしていた。 ☆9時前にホテルを出て、チェックアウトの11時までファーロの観光。 主に旧市街を私が妻を案内する。 観光すべき場所はとても狭いので、2時間あれば充分であった。 ☆11時にホテルをチェックアウト。 電車まで時間があるので、ヨットハーバー沿いのカフェでビールを飲みながら時間をつぶす。 ☆14時15分発のリスボン直行高速電車でファーロを立つ。 予定より少し遅れて18時過ぎにリスボン駅着。 ☆駅へ降りると凄く寒くて震え上がる。 スマホでのリスボンの気温は17度。 ☆リスボン駅ではまず次のリスボンーコインブラ、コインブラーポルトの高速電車の座席指定チケットを購入の予定だった。 しかし駅が広すぎて、どこに駅の窓口があるのか分からない。 ようやくそれらしい窓口を見つけたが、妻が寒さに耐えきれなくなっていて、チケット購入は後日に廻す。 ☆タクシーで今日の宿へ向かう。 リスボン駅からは相当に遠い場所に宿はあった。 アパートメントでエレベーターのない宿だが、レセプションが居るのでいつもの鍵の問題は生じなかった。 ☆一段落して、妻と買い物と夕食に出る。 宿の周辺は場末で、携帯とにらめっこしている雰囲気の悪い連中ばかり。 これはとんでもないところに宿を取ったと後悔したが、すぐに大通りに出て、そこはレストランも多い明るい街並みだったので安心する。 夕食を摂って、明日の朝食の食材を買って宿に戻る。 5月13日(月) ☆快晴。 ☆11時過ぎに宿をチェックアウトしバスターミナルへ。 12時発のポルトガル・ポルティマオン行きの国際線バスに乗る。 妻は以前にセビーリャに来ているが、私は初めてであった。 完全休養日としたので、私のセビーリャ体験は咲き乱れるジャカランダの紫の花樹とカフェレストラン、そしてバスターミナルのみである。 ☆到着予定の少し前になって、バスはファーロのバス停に着いた。 私はずっとポルティマオンが国境近くだと思っていたので、なぜポルティマオンに着く前にファーロなのかと訳が分からなかった。 しかし妻が地球の歩き方の地図を見たら、ファーロの方がスペイン寄りだった。 それにファーロとポルティマオンは60kmの距離があるのに、なぜポルティマオンへの到着時間にまだファーロなのかといぶかった。 そこでハタと気づいた。 バスのチケットに時刻は12時発ー13時15分着のなのに、所要時間が4時間15分になっていた理由だ。 つまり、フランス・スペインとポルトガルは1時間の時差があるのだ。 ☆ポルトガル時間3時15分ぴったりにバスはポルティマオンのバスターミナルに着いた。 ターミナルではシンポジウムのオルガナイザー・アルリンドが待っていてくれた。 ☆早速シンポジウムの制作会場だった港へ行く。 昨年10月のシンポジウム以来だから8か月ぶりだ。 作品は制作場所の近くの波止場沿いに設置してあった。 今日は全き快晴で、港は最高に気持ちの好い空間だった。 妻が設置されている作品を見て回っている間に、私は持参したノミで作品にサインを入れる。 作業後に波止場のカフェーで軽くランチ(といってももう5時だったが)を摂る。 それからポルティマオン駅までアルリンドに送ってもらったが、快晴の素晴らしい天候に恵まれ、ビールの酔いで心地よく、そこに音楽好きなアルリンドの車の カーステレオから流れてくるクラシック音楽のなかに身を任せていると、まるで夢の中に居る思いだった。 ☆ところがその先から悪夢が始まる。 ポルティマオン駅では、窓口で明日のファーロ発リスボン行き高速電車の座席指定チケットを購入する予定だった。 ところが窓口の若い女性職員は、ユーレイルパスのQRコードがないと座席指定は出来ないの一点張りであった。 ファーロ行き電車の出発間近だったので、仕方なく座席指定はファーロ駅で手続きすることにして、電車に乗る。 アルリンドからは空港展出品の作品を預かる。 ☆電車の中の車掌改札は、いつものようにマイパス表示でOKだった。 ところがファーロ駅の窓口でリスボン行きの座席指定チケットを購入しようとしたら、ポルティマオン駅と同様にQRコードの表示ができないと座席指定はできない との対応。 これまではマイパスの表示でチケットが買えたし、今乗ってきた電車もマイパス表示でOKだったと伝えるが、一向にゴーサインを出してくれない。 それならユーレイルパスを使わずに運賃を払うので、とお願いしても、イヤそれは待っていてくれというのみ。 結局明日の座席はまだまだ空席があるので、今晩一晩対応を考えるので、明日の営業開始6時20分に再度手続きに来てくれ、という。 その間、1時間近くあれこれやり取りしたが、結局は物別れ、明朝に再対決ということになった。 ☆しっくりしない思いで駅を出て、タクシーで今夜のホテルへ。 ところがホテルは駅からわずかの距離であった。 タクシーの運転手は乗車拒否はせず、道案内と称してホテル手前まで運んでくれた。 ☆ホテルをチェクインしてすぐに街へ出て夕食を摂る。 ファーロは8か月前にポルティマオンに行く前日に宿泊している。 本当は生カキを食べたかったが、妻の体調を配慮してアルガルヴェ地方の郷土料理”カタプラーナ”2人前を摂る。 5月12日(日) ☆快晴。 今日は夜になっても30度。 ☆やはり毎日が怒涛の日々で、一日も休まず坂道を歩いてばかりで、かなり体に疲労が溜まってきているようだ。 そういう生活がもう40日になる。 妻はそれを見越してセビィーリャを2泊にして、休養日と洗濯日に設定していたようだ。 実際に私は昨夜の洗濯作業で、夜中から手首をねん挫したような強烈な痛みに襲われたし、妻も今朝に洗濯の続きをしていて右手の人差し指が攣った。 今日は休養日とする。 ☆午前はポルトガルのリスボンの宿を検索する。 しかし安い宿はどの宿もエレベーターがない。 アパートメントなのにキッチンもない宿も多い。 口コミを読みながら、エレベーターは無くてもレセプションの居そうな(暗証番号による出入りの必要のなさそうな)アパートを選んで予約。 ☆明日のポルトガル・ポルティマオン行きのバス停を調べる。 Omioではセヴィーリャのバスターミナルは昨日の到着駅と同じサンタ・フスタになっていたが、ネットで調べるとポルトガル行きのバスの発着はプラサ・デ・アルマスに なっている。 昨日届いたEチケットを確認すると、やはりバスのターミナルはプラサ・デ・アルマスであった。 宿でもらったマップを見ると、なんとそのバスターミナルはこの宿の背後の大通りに添った位置にあった。 目と鼻の先である。 それでこの界隈がホテルやアパートメントが密集している理由が分かった。 ☆午後から昼食を兼ねてバスターミナルへ出かけ、搭乗口を確認する。 その時すでに3時半だったが、太陽は真上にあり、まったくの真昼間である。 これなら明日のポルティマオン到着が3時15分でも何の問題もない。 ☆バス停を確認して、昼食を摂りに行く。 午後はそのまま近くの美術館や闘牛場を軽く観光する予定だった。 しかし暑い陽射しの中で妻の体調が悪化し、カフェの椅子に座ったとたんに眩みで身動きできなくなった。 それで私だけ食事を摂り、今日は完全休養日として宿に戻って体を休める。 ここ数日の熱暑の中での坂道の上り下りで、熱中症気味になったようだ。 ☆それでやっとじっくりパソコンに向かう時間が取れたので、今年の空港展の海外作家宛に、作品の送付先ともろもろの留意点をまとめて送付する。 5月11日(土) ☆快晴。 日中は気温が上昇。 ☆昨夜はエアコンの音がうるさいのでスイッチを切って寝たら、寒くて寒くて眠れず、またホテルの構造の問題でホテル内のあらゆる音が一晩中響き渡って、 全く眠れなかった。 スペイン人は真夜中でも早口の大声で延々と喋り続ける。 ☆妻も私もぐったりとなって、10時前にホテルをチェックアウト。 スーツケースを預けて、観光に出る。 ☆ロンダといえば、深い渓谷の上にある街と、新市街と旧市街を結ぶヌエボ橋である。 ホテルを出て大通りに差し掛かると、何やらもの凄いドタバタ音。 市民ランナーのマラソン大会で、延々とマラソンのランナーが走っている。 昨夜、ホテルの周囲のバルで大勢の若者たちが気勢を上げて大騒ぎしていたのは、このマラソンの参加者たちだったのだ。 その列は傍らの闘牛場へ入って、また道路に出るコースで、私たちが観光に向かう道路はこのマラソンコースで封鎖されている。 ☆それで街の中は通れないので、渓谷の縁沿いを歩いてヌエボ橋へ向かう。 ところが、その渓谷の断崖の縁から見下ろした風景の広がりに息を飲んだ。 ほとんど中世の世界がそのままなのである。 こんな美しい世界がまだあったのか。 ☆ヌエボ橋周辺の観光をした後、渓谷の下に向かって降りている道があったので、急こう配の道を下る。 その道筋で見はるかす、麓の伸びやかな風景がたまらなく魂を引き寄せる。 偏狭な高鍋という町で暮らすより、ここで生活することができたらどんなに魂が浄化されることかと心底思った。 実際、文豪ヘミングウェイや東郷青児がここに移り住んでいたようだ。 妻はロンダは2回目の訪問である。 彼女自身がもう一度来たいと思うと同時に、ぜひ私にこのロンダの風景を見せたかったという。 つくづく、妻に感謝である。 ☆深い渓谷の麓へ急こう配の道を下るということは、帰りはその急こう配を上らなければならない。 それで妻も私もへとへとになり、カフェで小休止してビールを飲み昼食を摂った後は早めにホテルへ帰り、スーツケースを受け取って、駅まで歩く。 ☆駅の待合室でくつろいでいると、電光掲示板に私たちの乗る電車のプラットホームが”BUS”となっている。 バスに乗るのは、乗り換え駅のアンテケーラ駅からセビーリャ駅に向けてだったはずだ。 駅員に尋ねると、やはりロンダ駅からはバスでアンテケーラ駅へ向かい、アンテケーラ駅からは電車に変更になり、バスはすでに駅前に待機しているという。 ということで、16時40分にロンダ駅を高速バスで出発。 ☆バスに乗ったのは10人程度。 私は昨夜の睡眠不足ですぐに寝てしまったが、途中で目を覚ますと窓外の風景の余りの美しさに目を奪われた。 フランスの美しい田舎とスペインのこんな風景の中をレンタカーで走ったらどんなに素晴らしいだろう。 妻はバスの一番前の席で、バス前面にパノラマワイドに次々に広がる風景に圧倒されながら、私と同じことを考えていたようだ。 ☆17時36分にアンテケーラ駅着。 18時28分に目的地のセヴィーリャ駅直行の高速電車に乗る。 ☆電車の中で、セヴィーリャからポルトガルのポルティマオン行きのバスをスマホで検索。 Omioでチケットが購入できたので、セヴィーリャを9時30分に出発してポルティマオンに13時15分着のチケットの購入手続きをする。 ところが購入手続きの最終段階、カードのセキュリティー番号入力でエラーが出て失敗。 再度購入手続きをすると、もう席は無かった。 多分私の予約手続きで押さえられてしまったのだろう。 次の便は12時発、15時15分着の便しかない。 ポルティマオンではシンポジウム作品にサインを入れて、ホテルの予約を入れてあるファローに移動しなければならない。 考えてしまう。 ☆セヴィーリャ駅には予定より早く20時に到着。 タクシーで宿へ向かう。 今日の宿も家族経営のアパートメントだが、部屋にはアパートメントに必要なキッチンや冷蔵庫もない。 単なる安宿である。 そしてこの宿も昨夜の宿と同じく、全ての物音が筒抜けに聞こえる。 私たちと同じ時刻にチェックインしたギャル3人が、よほど友人同士の旅が嬉しいのか、部屋に入るなり大声で歓声を上げてはしゃぎだし、しまいに歌まで歌いだした。 ☆部屋に入ってすぐにパソコンを開いて、再度、セヴィーリャからポルティマオンへのバスチケットの予約をする。 セヴィーリャに着いた20時はまだカンカンに陽が照って、真昼である。 これならポルティマオンに午後3時に着いてもほぼ真昼の到着である。 サインを入れる作業も真昼間の中でできるし、明るいうちにファローへ移動できる。 無事に12時発のバスチケットを購入。 スマホのOmioアプリでチケットを表示できる。 ☆バスのチケット購入を済ませて夕食に出る。 宿の周辺にはバルもレストランも全く無く、しばらく歩いて飲食街に入り、バルで夕食。 久しぶりにムール貝を摂ったら、初めてのタイプの調理法で、焼き牡蠣に似た美味しさにびっくりする。 こんな美味しいムール貝は初めてである。 超!超!絶品! ☆宿に帰ると、洗濯物が溜まって着替えが無くなったし、セヴィーリャには2泊するので洗濯をする。 洗濯を済ませてこの日記を半分書いたところでもう午前1時半。 日記の続きは明朝に廻して床に就くと、2時過ぎに隣の部屋に幼い娘と父親が帰ってきて、それから延々と娘のお喋りとシャワーの音がベニヤ一枚隣の感じで響く。 幸い、ギャル3人はすっかり疲れて、安らかに眠っているらしい。 5月10日(金) ☆快晴。 グラナダは気温が急上昇。 先日のコルドバ並みの暑さとなった。 ☆今日でヨーロッパ周遊の旅は3分の2の旅程をこなした。 毎日が波乱万丈ながら、取り返しのつかない事件もなく、楽しく過ごしてきた。 これからはポルトガルを経てパリへ戻る旅になる。 暑い日々が続きそうである。 ☆朝のうちに、今日のロンダと明日のセビリア着が夜中になるので、それぞれのホテル宛に連絡を入れる。 ☆11時過ぎにホテルをチェックアウト。 スーツケースをホテルに預けて、夕刻までの観光に出る。 グラナダも観光シティーツアー・ミニトレインが出ていて、一日切符で何回どこで降りてもどこで乗っても良い。 ホテルのすぐ近くに停車場があるので乗る。 しかも私と妻は高齢者割引だった。 アルハンブラ宮殿周辺一周をメインにして、日本語ガイドを聞きながらの観光はなかなか良い。 だがガタガタの石敷きの道路を上ってゆくミニトイレインの激しいバウンドが、次第に胃に堪えて来る。 とうとう我慢できなくなって、アルハンブラ宮殿を見下ろせる峠の停車場でいったん降りる。 ☆その後ひとまず一周して、ホテル近くの停車場で降り、昨日のお昼にビールを飲んだ近くのカフェでビールとサラダで軽く昼食を摂る。 昼食後に再びミニトレインに乗り、アルハンブラ宮殿の入り口で降り、チケットなしで見学できるカルロス5世宮殿などのエリアを観光する。 ☆夕刻5時にホテルへ戻ってスーツケースを受け取り駅へ向かう予定だったが、今日はとても暑くてバテ気味なので、3時半にはタクシーでホテルへ戻り、 グラナダ駅へ。 駅のカフェーで休憩を取りながらメールをチェックするが、今日と明日のホテルからはチックイン時間の変更についての返事はなし。 ただどちらともレセプションが24時間対応なので問題ないか。 ☆19時25分発の快速電車でロンダへ向かう。 グラナダ駅も手荷物検査が厳しく、その時に私たちの電車に乗る旅客が大事なバッグを取り忘れていた。 鉄道警察がバッグの中を開けると大きな財布が入っていて、鉄道警察が並んでいる旅客に持ち主を呼びかけるが、誰も名乗りが出ない。 これが、これからの波乱の前兆であった。 ☆乗り換え駅のアンテケーラ駅の手前で、またも電車が止まってしまった。 まさかこんなところで降りるのかと妻とオロオロしていると、車掌がやってきて”もう少し待って”と言いながら、彼も困惑状態である。 やがて電車は動いてアンテケーラ駅構内に入っていったが、今度は扉が開かない。 乗り込むお客も一向にドアが開かないし、雨も降り始めてみんなイライラしている。 ようやくドアが開きプラットホームに出ると、若い女性の駅員が駆けつけてきた。 彼女が”ロンダ”とか”5”とかスペイン語で語りかけるが何と言っているのかさっぱりわからない。 そのうちスマホの翻訳機能を使って、日本語で”ロンダへはここで降りてください。プラットホームは5番です。”と伝えてくれた。 5番のホームを見るとすでに電車は待機している。 アンテケーラ駅は結構大きな駅で、エレベータを2回使って5番ホームの電車に乗り込む。 乗り換えの待ち時間は38分だったのだが、電車に乗った時には出発12分前だった。 それで駅員さんが駆けつけてきた訳が分かった。 ☆ロンダへ向かううちに、雨が上がって壮大な夕焼けの中に大きな虹が立った。 ☆22時08分にロンダ駅へ着く。 外へ出てタクシーを拾おうとするが、タクシーは待機しておらず、タクシー待合所にタクシー会社の電話番号が書いてあるだけ。 つまり、タクシーは自分で電話して呼べ、ということである。 それでeSIMの電話機能を使ってタクシー会社に電話すると、アナウンスが流れるばかり。 看板を見ると、タクシーを呼べる時間は8:00から22:00までとある。 それでホテルのレセプションに電話をしてタクシーの手配をお願いする。 ロンダの夜は寒風が吹いてとても寒い。 寒い中をいくら待てど、タクシーは来ない。 ☆一方、私たちと一緒に電車を降りたカリフォルニアからの老夫妻も、タクシーがいないので途方にくれている。 私たちがホテルの手配したタクシーを待っている間に、老夫婦は近くにいた青年にタクシーの手配をお願いしている。 そのうちタクシーがやってきた。 それはホテルの手配したタクシーではなく、青年が老夫婦のために呼んでくれたタクシーだったが、大型だったので私たちも一緒に乗せてくれることになった。 かくして、無事にホテルに着いた。 レセプションの話では、今夜はタクシーが全部出払っていて、どうしても手配できなかったという。 またしても、あの老夫婦と青年が居なかったら、私たち夫婦は夜中の見知らぬ街で歩いてホテルを探さねばならなかった。 毎日、トラブルばかり。 だが不思議と、必ずこうして助けてくれる人が現れる。 ☆ホテルにチェックインして、すぐにホテル隣のバルで遅い夕食を摂る。 ホテルは家族経営で、このバルも一族のようだ。 ロンダのホテルはとても高くて、ようやくこのホテルを確保したが、いつも私たちが使うホテル代の倍もするホテルである。 しかし、浴槽の栓は無いしお湯がすぐ水になり、エアコンはもの凄い騒音を立てて使えないし、周囲はすごくうるさいし、今まで使ったホテルの中で最悪である。 私が若いころにインド放浪中に使っていた安宿に近しい。 5月9日(木) ☆晴れ。 ☆昨夜は宿のエアコンが効いていて、しかしスイッチのリモコンが見つからず(朝起きたら、テーブルの上にテレビのスイッチと一緒にあった)、しかもベッドには 薄いシーツ一枚しかなく、寒くて寒くてたまらなかった。 ☆9時に宿を出ると、丁度観光客を乗せたタクシーがやってきたので、入れ替わりに乗車してコルドバ駅へ向かう。 コルドバ駅では時間があったので、窓口で明日のロンダ行きの座席指定チケットを購入。 そうしたら、日中の電車はすべて満席で、かろうじて最終便しか座席がなかった。 その便だと途中乗り換えがあり、ロンダ駅に22時08分に着く。 しかしすでにホテルは予約してあるので、チケットを購入する。 ☆10時32分にコルドバ駅を発ち、グラナダへ向かう。 ところが途中で前代未聞のハプニングが待っていた。 1時間近く走ったところで電車が停止し、全く動かなくなった。 車内はエアコンが効きすぎて、私は昨夜のエアコンで風邪を引いたらしく、急激に吐き気がしてきてきつくてたまらない。 早くグラナダに着いて、ホテルで横になりたい。 だが、2時間近くして別な電車がやってきて、隣の線路に停止し、なにやらスペイン語での車内放送が流れると、乗客はみんな荷物をもって立ち上がった。 何らかの故障で電車が動かなくなり、別の電車に乗り換えるのだ。 こんなこと、日本でも聞いたことがない。 それにしても乗客の皆さんの穏やかなこと。 誰も文句を言わず、無事に代替えの電車に移動し、電車がグラナダへ向かって動き始めると、拍手さえ起った。 これが韓国や中国で起きたことなら車掌は袋叩きに遭い、大騒動になっただろう。 結局、グラナダ駅には2時間遅れの14時30分に着いた。 アルハンブラ宮殿の観光を予約していた人たちは時間指定なので、困った人たちも多かったのではなかろうか。 ☆グラナダ駅に着くと、昼休みでクローズしていると思っていた窓口が開いている。 それで明日のロンダ行きが最終便しか空きがなかったので、明後日のロンダからセビリア行きの電車の予約をした。 ロンダには夜に着くので、翌日のロンダ発を夕刻に変更して座席指定チケットを購入。 ただ乗り換えのアンテケーラからはバスだということで、バスの座席指定券も発行してもらった。 これまでバスに乗るときにチケットがないと言われて困ったことがあるので、これで安心である。 ☆タクシーで今日のホテルへ向かう。 ホテルという名前なのでホテルだと思っていたが、着いた先はホテルらしい門構えではなく、暗証番号入力キーバッドが備え付けてある。 ただレセプションには受付が居て、扉も彼が開けてくれた。 やはり表向きはホテルだが、内実はアパートメントで、入り口の扉も部屋も暗証番号入力で開ける。 明日はグラナダを発つのは夕刻なのでチェックアウト後の荷物預かりの可能性について訪ねると、明日はずっとレセプションがいるので問題ないということ。 ☆ホテルの中はいかにもグラナダという感じで、明るくてとても魅力的な空間である。 部屋も広く、キッチンも冷蔵庫もアイロンもコーヒーセットもある。 ☆グラナダといえばアルハンブラ宮殿だが、もうチケットは何か月先まで完売で中に入れないので、無料で入れる周囲を巡ることにしてタクシーで向かう。 妻はツアーで来たことがあるので、妻の案内で廻る。 それにしても今日も延々と坂道を上る。 もう来ることもないだろうと思って、必死で上る。 アルハンブラ宮殿を遠目に見て街へ降りる。 ところが街へ降りてホテルのある方向歩き始めると、すぐに見覚えのある街並みとなり、ホテルへ戻ってきた。 タクシーに乗ると、街中は一方通行なのでグルグル廻って相当の距離に感じるが、実際はアルハンブラ宮殿のある区域とホテルはとても近かったのだ。 ☆ホテルへ戻ると、もうレセプションは不在だった。 今日は私たちともう1,2組くらいのチェックインだったのだろう。 ☆一段落してホテルの近くのカフェで、夕食にパエリャを摂る。 しかしバルセロナのカテドラル前のカフェの絶品パエリャには遠く及ばなかった。 グラナダはコルドバに比べると日中の最高気温は24度くらいで、暑さは和らいだ。 だが夕刻にカフェのテラスで食事を摂っていると寒くて寒くて、思わずホテルへ戻って重ね着を持ってくる。 ☆今年の空港展の作家資料(文字原稿)の締め切り日が今日だったので、今日までに届いていた海外作家からのデータをパンフレット原稿データに打ち直す。 5月8日(水) ☆晴れ。 ☆10時にホステルをチェックアウト。 タクシーでアトーチャ駅へ。 日本の代理店に依頼していた座席指定チケットが届いていたので、朝のうちにスマホで写真に撮る。 11時05分発の高速電車に乗る。 コルドバ駅に12時52分着。 ☆コルドバ駅に着いて、駅の窓口で明日のグラナダ行きの座席指定のチケットを購入。 窓口では待っている人も少なかったので、パスポートとユーレイルパスのマイパスを見せて、すぐに明日の高速電車の予約が予約手数料だけで購入できた。 そこまでは上々であったが・・・。 ☆コルドバ駅からはタクシーで今日の宿へ。 タクシーはすぐに場所が分かり、目的地に着いたら壁に宿の名前がディスプレイしてある。 しかし、そこには例の暗証番号を押さないと開かない重い扉が立ちはだかっている。 しまった、ホテルではなくアパートメントだったのだ! ☆私には扉を開ける暗証番号も何も届いていない。 またか! だからアパートメントは嫌だったのだ。 コルドバはもう夏である。 じりじり陽射しの照りつける路上でパソコンを開き、スマホのテザリングでブッキング・コムに連絡を取るが何の反応もない。 届いていた予約受諾のメールを開き、よく読むと事前のオンラインチェックインが必要とあるので、暑い陽射しの中で路傍に座ってオンラインチェックをする。 そしてスペイン語なのでよくわからなかったリンク先を押すと、それはオーナーと私のオンライン打ち合わせページだった。 Google翻訳で内容を翻訳すると、事前のオンラインチェックインを済ませてからでないと、セキュリティーの観点から扉の暗証番号を送ることができない、とある。 それで、オンラインチェックインを済ませて、今、家の前に入るのですぐに暗証番号を送ってくれるように伝える。 ☆暑い中、妻をぼーっと待たせているわけにもいかず、近くのバルでビールと簡単なお昼を取ながらオーナーからの返事を待つ。 そのうちオーナーから暗証番号等が届いた。 ☆アパートメントへ戻ると、丁度のタイミングでチリからやってきた若い夫婦が、扉が開かずに困っていた。 それで私に届いた暗証番号を伝えると、無事に扉が届いたが、お互いに私たちの部屋の番号も部屋の鍵の保管先も全くわからない。 すったもんだの末、扉の暗証番号と部屋の番号と鍵の所在を明記したオーナーからのスペイン語が、翻訳のいい加減さで訳の分からない内容になっていることが 判明。 無事に部屋に入ることができた。 ☆部屋に入るととても広い部屋で、キッチンや冷蔵庫やアイロンがある。 アパートメント宿泊のノウハウをこれまで私が知らなかっただけで、きちんと事前のオンラインチェックインを済ませてオーナーから鍵の開け方等の連絡をもらえれば、 毎度のドタバタは起きなかったのだとようやく呑み込めてきた。 しかし私が居なかったら、チリの若夫婦は扉を開けることができなかった。 ☆私と妻は毎日のように歩き疲れているので、今回のコルドバは観光を1点に絞った。 妻が私にどうしても見せたくて(彼女はコルドバは2回目)、今回の旅程にコルドバを組み入れたユダヤ人街の”メスキータ”へ観光に出かける。 コルドバはもう真夏の陽射しで、おまけに私と妻は足腰がクタクタに疲れ切っているので、”メスキータ”まで歩いてゆくのは辛くて辛くてたまらなかった。 メスキータに着いてチケットを買った後も、しばらくは身動きできなかった。 ☆しかし”メスキータ”の中に足を踏み入れた途端、その圧倒的な信じられない空間に疲れも吹き飛んでしまった。 現在はキリスト教の協会ではあるのだが、元々はモスクであり、キリスト教とイスラム教の融合した不思議な空間が広がる。 なんといっても大理石とくさび形の赤レンガを交互に組み合わせた独特なアーチが限りなく広がり、こんな不思議な空間がこの世にあったのかと驚愕した。 昨日のトレドの装飾過剰のカテドラルに反吐の出るグロテスクな悪寒を抱いた後だけに、”メスキータ”の空間はとても清々しく敬虔な気持ちになった。 妻が私を連れてきた理由が実によく分かった。 ☆”メスキータ”からはタクシーで帰る。 ☆夕食は宿の近くのカフェレストランで、コルドバの名物料理・牛テールの赤ワイン煮込みを食べる。 宿に帰ってくると、扉付近に数名の旅人がかたまって電話で何やら抗議的な問い合わせをしている。 車で来ているが駐車場が分からなかったり、彼らの部屋が分からなかったりで身動きできないようだった。 しばらくして妻が様子を窺がうと、今度は別なグループが扉付近でうずくまっていた。 ☆明日はグラナダへ行く。 それでアルハンブラ宮殿へ行こうとネットで予約しようと思ったら、代理店もアルハンブラ宮殿の公式サイトも5月はすべてチケットが完売であった。 5月7日(火) ☆快晴。 マドリッドの朝の気温は8度でとても冷え込む。 ☆7時にタクシーでアトーチャ駅へ。 トレド行きの乗り場がなかなか分からなかった。 そしてクエンカ同様、空港並みの手荷物検査があった。 アトーチャ駅はアルカイダによるテロで200人以上が亡くなった経験を持つだけに、セキュリティーが厳しいのだろう。 ☆7時47分のトレド直行便に乗る。 昨日は自動購入機で手間取っているうちに予定の便が満席になり、早朝便しか予約できなかった。 ☆8時23分にトレド駅着。 トレドは1561年に首都がマドリードに移るまで、政治・経済の重要な拠点として栄えた街で、またギリシャ生まれのエル・フレコが後半生を送ったころのたたずまいを 今も残す町である。 そしてトレドも坂道ばかりである。 一昨日のクエンカの坂道歩行の筋肉疲労が今日になって太ももの表裏に出てきて、歩くのがきつくてたまらない。 ☆トレドは14世紀からほとんど変わっていない中世の町並みである。 歩いているとポルトガルのファロの感じによく似ている。 トレドは長くイスラム勢力下にあったということで、ファロもポルトガルにおけるイスラム勢力終焉の地となった町なので、なるほどと感じた。 ☆まずカテドラルを見学したが、余りの過剰装飾に反吐が出て、グロテスクさしか感じられなかった。 次にエル・グレコの絵を見たくて、ガイドブックにあるサンタ・クルス美術館に行くと、そこは個人収集家の美術館になっていて、グレコのグの字もなかった。 それでグレコ美術館へ行くと、グレコの絵は「オルガス伯爵の埋葬」を含むたった2枚しか展示されておらず、さらにエル・グレコの傑作を展示するとある サント・トメ教会に行くと1,2枚のグレコの絵しかなかった。 過去に何度かトレドを訪れている妻の話では、以前にグレコ美術館を訪れたときは10数枚のグレコの絵があったという。 大きな収穫もなく3時過ぎには街を出て歩いて駅へ向かう。 午後からは陽射しがとても強烈で、暑くてたまらず”TOLEDO”のロゴ入り帽子を買う。 ☆16時25分発のマドリッド行き直行電車に乗る。 トレド駅でも手荷物検査があった。 17時01分にマドリッド着。 ☆宿に戻ってネットをチェックすると、日本の代理店に依頼していたこの先の電車の座席指定は明日のコルドバ行きの分しか取れていなった。 それ以外の電車は取り扱えない路線だということで、また駅の自動購入機の操作が必要になった。 ☆夕食は妻がガイドブックで調べた、ホテルすぐ近くのソルにある生ハム専門店へ。 ところがハムメロンもサラダもひどいものだった。 スペインに来て最もがっかりの食事だった。 5月6日(月) ☆昨夜の雨は上がったが、午前はにわか雨の降る曇天。 外に出ると、風は冷たく、セーターでも寒い。 ☆午前はこの先の移動のホテルの手配と高速電車の座席指定の手配。 今月13日はセビーリヤからポルトガルのPortimaoへ入る。 昨年10月のシンポジウムの街だ。 制作期間が1週間だったのでサインを入れていないので、そのサイン入れ作業のために立ち寄る。 ところがセビーリアとPortimaoは距離的に近いのに、電車だとリスボンまで行って下ってくるという25時間以上の長旅になる。 シンポジウムオルガナイザーのアルリンドに問い合わせたら、セビーリヤからはバスが出ていて3時間くらいだという。 ☆昼からマドリード観光に出る。 宿を出ると、周囲は観光客がもの凄く、すぐ近くにマヨール広場が広がっていた。 どうやら宿は観光地の真っ只中にあるようだ。 まずはプラド美術館を目指すことにしたが、方向感覚が全く分からない。 地図を片手に歩いていると、王宮に出た。 プラド美術館とは反対方向に向かっていたようだ。 ☆王宮の周辺には観光オート三輪のトクトクが待機していたので、トクトクに乗ってマドリッドの要所を廻る。 丁度雨が降り出してきた。 ☆トクトクを降りた後は宿の周辺のバルで昼食を摂る。 スペインやポルトガルは一人前の皿の量がとても多い。 数皿取ると、妻と2人がかりでも食べきれない。 ☆夕刻まで宿で一休みして、夕刻からアトーチャ駅へ向かう。 明日は日帰りのトレド観光を予定していて、ユーレイルパスで座席指定を手配しようとしたが、ローカル線なのでユーレイルパスの対象外であった。 それで駅の窓口で直接手続きをしなければならなかった。 最初は自動購入機で手続きしたが、カード決済のところまで行ったのに、決済ができずエラーとなってしまった。 窓口に行くと、トレドは別な窓口だと言われ、そちらへ行くともの凄い数の旅行者が順番待ちをしている。 そこにも自動購入機があったので、順番待ちは止して機械を操作する。 やはりカード決済まで行ってもエラーが出てしまう。 それでみんなはどうやっているのだろと見ていると、ほとんどの旅行者は操作を途中で諦めてしまって、誰も切符を手にできない。 妻が、もう明日のトレド観光は諦めようと言うが、私は必ずどこかでうまく行く、という思いがいつもある。 諦めかけたときに若いカップルがやってきて、彼らが操作するとごく普通に機械から切符が出てきて、妻も私もびっくり。 最後のチャンス、と私ももう一度操作すると、これまでの操作と全く同じなのに、今度は首尾よく切符が出てきた! 昨夜に続き妻と抱き合った。 諦めてはいけない、かならずうまくいく。 ☆宿に帰るとぐったり疲労困憊であった。 まだお昼の食事が胃に重く、夕食は缶ビールで済ます。 5月5日(日) ☆曇り。 今日はとても冷え込む。 ☆昨夜の深酒が朝まで残っていて、辛かった。 宿酔というより朝までまだ酔っていた。 ホテルは朝食付きだった。 今回の旅行で、初めてコ−ヒーがポットで出てきて美味しかった。 ☆10時にホテルをチェックアウト。 荷物は夕刻まで快く預かってもらう。 ☆10時過ぎて、宙づりの家として有名なスペイン抽象美術館へ。 この美術館はスペインで最初の抽象美術の美術館だということ。 世界文化遺産の14世紀建立の建物を瀟洒な空間に使いこなしている。 又木さんとはそこで落ち合う。 又木さんの家は、宙づりの家の真下、歩いて45歩のところにある。 ☆抽象美術館から、さらに上ってクエンカ県立美術館へ案内してもらう。 この美術館は世界的に著名な作家とレディーメイドの日用ガラクタ品が対等に展示されている。 ☆そこからさらに奇岩の上のクエンカを見下ろせる丘に登り、カフェでワインの飲み直し。 そこでの又木さんとの会話で、私が制作して日南市に設置された伊藤マンショの話になった。 実は伊藤マンショたち天正遣欧少年使節の一行はポルトガルのリスボンからヨーロッパに入り、ローマに到達するまでにヨーロッパ中から熱烈歓迎を受けている。 彼らの訪問はヨーロッパ中に大変な日本ブームとなり、カステラ、パン、コップなどの多くのポルトガル語が日本語となっていることはその影響の強烈さを物語る。 彼らのそうしたヨーロッパでの行動は、きちんと公的に記録され、当時も多くの本が出版されて残されている。 私が伊藤マンショを制作したときには、マンショの肖像画は版画の図像しかなかった。 しかし数年前に油彩画の伊藤マンショの肖像画が見つかり、宮崎県立美術館でお披露目の展覧会が開かれた資料の中に、伊藤マンショがクエンカを訪れた記録があり、 びっくりしたことがあった。 そのことを私も思い出し、又木さんとの関係でしか縁のなかったクエンカがそうではなかったことをあらためて感じた。 私は呼ばれるべくしてクエンカを訪れたのだ。 伊藤マンショ一行はクエンカの実力者から馬車を贈られている記録があるということ。 ☆ホテルから荷物を受け取り、又木さんが制作した太陽広場へ。 彼女は年に何回かこの広場で日本文化を広める活動をしているということ。 今日も簡単な交流セレモニーを行った。 そのあとに、また広場の近くのカフェでワインを飲み、そこで又木さんとはお別れする。 ☆タクシーでクエンカ駅へ。 クエンカでは空港並みの厳重な手荷物があり、妻の荷物が引っかかった。 アパートメントでの自炊用に購入していたダイソーのキャンプ用品セットが、ナイフと認識された。 ☆21時29分発の高速電車でマドリッドへ発つ。 そこで今回の旅の最大のアクシデントが発生した。 やってきた電車は車両が2両連結されとても長い電車であった。 プラットホームにはどの各車両の停止位置の案内がない。 電車がホームに入って初めて、私たちの乗る車両がずっと先の後方車量だとわかり、重い荷物を引っ張って必死でホームを走った。 しかし妻は私に付いてこれず、指定車両ではない車両に乗ってしまった。 妻の乗った車両は先頭の車両で、私の乗った車両からは行けない。 しかも妻の座席指定の切符は私が持っているし、妻はスマホにSIMを入れていないので私のラインもつながらない。 車掌に事情を話しても、車両がつながっていないのでどうしようもないという。 幸い、電車はマドリッドまで停車駅はない直行電車だし、妻が乗っていることは確実なので、マドリッドのプラットホームで会えることははっきりしているが、切符も 持っていない妻がどうしているか気になって落ち着かなかった。 ☆22時34分にマドリッド駅着。 妻は先に降りてプラットホームで待っていてくれた。 無事に妻に会えて、思わず抱きしめた。 妻は車掌に必死で状況を説明したらしいが、車掌もあきらめて車両滞在を黙認してくれたということ。 やはり妻のスマホにもSIMを入れるべきだと思った。 そうしないとお互いに離れてしまうと、連絡のしようがない。 ☆マドリッドは雨であった。 タクシーで宿へ向かう。 ホステルなのでアパートメントなのだが、フロントも24時間体制だし、ほとんどホテルと代わりはない。 5月4日(土) ☆快晴。 ☆10時にホテルをチェックアウト。 ☆10時48分発の高速電車でカステリョン駅を出発。 ところが私と妻の予約席が離れ離れになっていて、私の隣の席には犬を連れたお客が座った。 フランスもスペインも電車には自転車、電動ボード、犬を普通に乗せることができる。 フランスではすごい大型犬を乗せている人も居た。 隣の席の犬は小型犬のマルチーズで籠の中に入れられている。 私は犬は嫌いではないが、やはりクエンカまでずっと犬の匂いと一緒なのかと思うとウンザリである。 ところがお昼に近くなると、犬連れのお客は犬に餌を与え始めて、餌の匂いが立ち込めてきた。 すると、やおら前の席の頑丈な男性が荷物の中からスプレーを出して、座席と荷物に消臭剤をスプレーし始めた。 そしてさらに自分の体には香水をスプレーし始めた。 犬を連れたお客は別に間違ったことをしているわけではないが、モロにこういうことをされるとどんな気持ちなのだろうと複雑な思いだった。 座席指定は安心して座れる利点と、周囲に嫌なお客が居ても席を代わって移動できない欠点もある。 ☆13時12分にクエンカ駅着。 クエンカには都城出身の友人画家・又木啓子さんが住んでいて、ずっと訪ねたかった場所である。 最近は情熱大陸で放送されたりして、脚光を浴びている街である。 ☆駅は市街地からかなり離れた場所にある。 明日のクエンカからマドリッドまでの高速電車の座席指定が日本の代理店ではできなかったので、駅の窓口で予約する。 ところが明日の高速電車(各駅停車の普通電車は走っていない)は全席完売していて、ようやく最終便が取れた。 ☆タクシーでホテルへ向かう。 クエンカは旧市街が断崖絶壁の上にあり、独特の景観の街である。 延々と狭い急勾配の坂道を上っていく。 ☆今夜の宿泊先は画家・ベラスケスの甥が営業を始めたホテルで、14世紀に建てられている。 ベラスケスも逗留していたようだ。 又木さんの紹介でネットで予約したが、予約でいっぱいだった。 しかしオーナーと又木さんは懇意にしているので、キャンセルが出たら連絡をいただけることになり、無事にキャンセルで眺望の良い部屋に泊まることができた。 ☆又木さんはホテルの部屋まで私たちを迎えに来てくれて、近所を簡単に案内してくれながら彼女の家まで行く。 彼女の家は有名な”宙づりの家”のすぐ下、彼女の表現では徒歩45歩の距離にあり、周囲の公共空間はほぼ彼女の庭みたいなものである。 今日は快晴で良いお天気だったので、その公共空間の彼女のお気に入りの庭にテーブルを運び、彼女の用意してくれた自慢の料理でお昼を摂る。 当然、呑ん兵衛3人の会食なのであっという間にワインが2本開いた。 観光よりも3人のこうした楽しい会話が私たちにとっては貴重な時間であった。 ☆お昼の席を片づけて、ほろ酔いで又木さんはクエンカの案内をしてくれる。 そのたびにワインの杯が重なる。 最後は貴重な洞窟内のバーでまたワインを飲む。 又木さんはさらに飲みたかったようだが、私は久しぶりにヘロヘロに酔ってしまい、やっとの思いでホテルへ帰ってきた。 とにかくクエンカは坂道だらけで、もう足腰も壊滅状態であった。 5月3日(金) ☆快晴。 ☆8時過ぎにアパートメントをチェックアウト。 丁度、オーナー夫妻も出かけるところで一緒にアパートメントを出て、流しのタクシーを捕まえてもらう。 バルセロナはとても大きな魅力のある街で、また訪れることができるなら1週間は滞在したい。 ☆10:00発の普通電車でバルセロナ駅を発つ。 ところがバルセロナ駅は降りると時には改札がなかったが、乗り込むときにはQRコードタッチの改札ゲートがある。 これは困った。 それで乗車するプラットホームが決まってから(ヨーロッパは出発20分前にならないとプラットホームが決まらない)、駅の職員にユーレイルパスのQRコード表示の 方法を尋ねるが、私が質問した職員はまったくユーレイルパスのことが分からなかった。 それで乗り込むプラットホームの改札口の担当者に聞いてくれたら、改札口には車椅子等の通過できるノーチェックのゲートがあり、ユーレイルパスを見せて 通過できるということであった。 ☆4時間半の長い電車の旅は、地中海沿いに荒涼たる岩山の延々たる大地のなかを走る。 14時30分のほぼ定刻に、目的地のカステリョン駅に到着。 ☆ところがカステリョン駅には降車口にも改札ゲートがある。 なんとかユーレイルパスのマイパスを見せて通過させてもらった。 ☆ホテルは駅の目の前であった。 チェックインを済ませてエレベーターで部屋に上がってびっくり。 日本のホテル並みの客室で、実に広い、 浴槽もあり、冷蔵庫には冷えた水のボトルが2本入っていた。 まったく日本のホテル並みである。 今回の旅を始めてから最もホテルらしい環境のホテルである。 ☆実はカステリョンに来たのは、予定していたバレンシアのホテル代があまりにも高価でホテルが確保できず、妻が思案して選んだ場所である。 カステリョンのホテルがとても格安だったので、これまでの例でアパートメントではあるまいかと心配していた。 ところがどっこい、とても立派なホテルであった。 ☆一段落して、旧市街へ観光に出る。 カステリョンはバレンシア州カステリョン県の県都であり、それなりに見どころがある。 久しぶりにほとんど観光客のいない落ち着いた街を歩くことができた。 カステリョンは年間を通して雨が少なく、5月の平均気温は22度だということ。 影地は肌寒いが日の当たる場所はとても暑く、セーターでは暑くてたまらなかった。 ☆駅前の立地の最大の欠点は、周囲にレストランがない、ということである。 本格的なレストランは、結局は旧市街にしかなかった。 疲れた体で再び延々と旧市街まで足を延ばす。 しかし入ったお店は当たりだった。 とても美味しかったし、ウエイトレスの娘さん・ロサさんがバルセロナの大学で日本語と日本文化を学び、来年5月には京都と長野を訪れるということで、彼女と 片言の日本語で楽しくおしゃべりができて、妻は上機嫌だった。 それにカステリョンの街にはゴミが全く落ちていない。 自分たちの街の環境をとても大切にしている街であった。 5月2日(木) ☆快晴。 ☆朝のうちにマドリッドのホテルの予約。 昨夜から検索しているのだが、安い宿はやはりほとんどがホステルのアパートメント。 しかしホテルとなるとべらぼうに高い。 それで安いホステルだが、これまでのように所在も鍵のナンバー等も全くわからないアパートメントではなく、きとんとしたホテル様式の構えのあるホステルを 予約する。 ☆午前のうちに、昨日のシティーバスの有効時間内のバスツアーに出かける。 昨日はサグラダ・ファミリアを含むグリーンコースだったので、今日はミロ美術館等を含むオレンジコースに乗る。 ミロ美術館で降りて、ミロの作品を観る。 私の知らなかったミロの作品世界にも触れることができて、とても有意義だった。 日本に帰ったら、やはり木版画をもっと極めたいと感じた。 ☆ミロ美術館で感心したのは、多くの幼児団体が鑑賞プログラムのプロジェクトに参加していた。 中には幼児たち全員が床に寝て、寝たままミロの天井まで届くような作品を体で感じるプロジェクトがあった。 日本の美術館で、鑑賞に来た子供たちが床に寝転んで作品を鑑賞するなんてことが可能なのだろうか。 ☆ツアーの途中でバスツアーの24時間期限が切れそうだったので、降りてもアパートまで歩いて帰れる距離にあるガウディーのカサ・ミラで降りる。 ところがカサ・ミラの中に入ろうと思ったら、またも今日のチケットはソールド・アウトであった。 ネットで予約してスマホのEチケットをかざす人しか入れなかった。 それならとカサ・ミラのウェブサイトを訪れると、スペイン語で来訪する日にちと時間を申請しなければならず、断念する。 ☆そのままいったんアパートへ帰り、午後からはアパート近くのピカソ美術館へ。 ところがここも入場口で延々と来場者と窓口がもめている。 つまりピカソ美術館も、来館日と時刻を設定してのウエブ申し込みでのEチケットでしか入館できなかった。 なんということか、ガウディーもピカソもスマホでの予約コードでしか入場・入館できないのである。 全てスマホ、スマホの時代になってしまった。 あまりにせちがらすぎる。 ☆がっかりしてピカソ美術館を後にすると、数軒先にフラメンコショーの案内を妻が見つけた。 妻はフラメンコショーを見たがっていたので、すぐに今日の夕刻5時半からのショーのチケットを購入する。 入場時刻まで付近の観光で時間を潰し、5時過ぎにフラメンコ会場へ。 会場の入り口にバーがあり、皆さんお酒を購入してフラメンコ会場へ持ち込んでいる。 過去に何度かスペインに来てフラメンコを観ている妻は、お酒を飲みながらフラメンコを鑑賞するのが一般的だという。 私と妻も赤ワイングラスを抱えて、フラメンコ会場へ入る。 私はお酒が入ると眠くなって、フラメンコショーの大半は居眠りしてしまった。 ☆フラメンコショーの後は、会場のすぐ近くのバルで夕食を摂る。 いろんな種類のタパスメニューを注文したが、どれもとても美味しかった。 スペイン料理は本当に日本人の味覚にピッタリくる。 ☆明日の朝にはバルセロナを発つ。 昨日、今日と市内全域をバスで巡るとどこも多くの人が行きかっていて、バルセロナの生命体としての活発さ、とてつもない魅力の大きさを感じた。 フランスに比べて抜群に面白い。 ただやはりイタリアのように今は観光客が多すぎる弊害が出ていて(現に美術館にも入館できなかった)、イタリア同様にバルセロナへの観光客受け入れ制限が 始まるようだ。 5月1日(水) ☆晴れ。 気温は24度まで上昇。 ☆朝のうちにたまっていた洗濯物を洗濯。 部屋がとても狭いので干し場所に苦労する。 ☆9時半から観光に出る。 昨日はもう拝観時間が過ぎていたカテドラルの中へ入ってみる。 カテドラルの中も凄かった。 そして塔を上れたので、上る。 ☆カテドラルを出て、気温が上昇してきたので着ていたダウンを部屋に戻しに帰る。 それで私と妻はようやくアパートの正確な位置が掴めた。 アパートの前の大通りが何やら騒々しく、派手なパレードがやってきた。 今日は5月1日、メーデーなのだ。 ☆再びアパートを出て、地図を見ると近くにカタルーニャ音楽堂があるので探してみようと思っていたら、アパートを出てすぐ右手に特徴のある建物が見えた。 それがカタルーニャ音楽堂で、こんなにすぐ近くにあったことに驚く。 私たちのアパートは観光にはとても条件の良い位置にあるようだ。 カタルーニャ音楽堂はアール・ヌーヴォー様式のレンガ造りの音楽堂で、内部に入ってみるととても装飾が美しい。 1997年にユネスコの世界遺産に登録されている。 ☆音楽堂を出て、近くのカタルーニャ広場でシティーツアーの2階建てバスに乗る。 私は屋根のない2階席に、陽射しを避けたい妻は1階に乗る。 このバスは33ユーロで、好きな場所で自由に乗り降りできて、しかも24時間以内なら何度でも乗れるとても便利なものだ。 ツアーの内容も赤ツアーと緑ツアーがあり、そのどちらにも自由に乗れる。 ☆私と妻のツアーの最大の目的地は、ガウディーのサグラダ・ファミリアであった。 遠景のサグラダ・ファミリアには心が踊る。 実は私は結婚前の1985年4月・36歳の時に、宮崎県内の建築家グループが開催したガウディーを巡るパネルディスカッションに彫刻家としてパネラーで 参加したことがある。 当時の私はほとんどガウディーのことを知らなくて、トンチンカンな話をしたのではないかと思う。 それからようやく38年目にしてガウディーの建築に会えるのだから、心は弾んでいた。 しかし、バスがサグラダ・ファミリアに近づくと、大きな違和感に襲われた。 私がこれまで写真で見てきたガウディーのサグラダ・ファミリアではない。 ほとんどデズニーランドの張りぼて建築である。 どこにも宗教的な尊厳さはない。 カテドラルの荘厳な深い美しい空間に触れてきたばかりの私には、反吐が出る代物であった。 過去にサグラダ・ファミリアを2度訪れたことのある妻も、以前にはこんなアニメキャラの世界丸出しのキャッチーなものではなかったとびっくり仰天であった。 ガウディーが生前に手がけた部分は、確かに今でも写真で見ることのできるガウディーのサグラダ・ファミリアである。 しかし彼の死後に造られたものはガウディーの世界ではない。 世の中の人が、よくもこんな醜悪なものを許しているものだと怒りがこみあげてきた。 バスの中でネットで調べると、やはり今のサグラダ・ファミリアは観光目的化してしまってガウディーの世界を捨て、デズニーランドになってしまっているという批判が 起きているようだ。 どこにも宗教的な感動も何もない。 今はやりのアニメキャラの世界そのものだ。 こんなものを後世に残していいはずがない。 おそらくサグラダ・ファミリアを見に来られた観光客の8割は、内心は私と同じ思いだと思う。 ☆残りのバスツアーでは、ガウディー関係ではグエル公園とカサ・バトリョに立ち寄った。 グエル公園はバスから降りて延々と坂道を上っていったが、一日の入場制限があり、今日はもうチケットが無かった。 カサ・バトリョはまったくガウディーの素晴らしい世界で、感動的な建築だった。 だから、余計にサグラダ・ファミリアの醜悪さが許せない。 ☆夕食は昨夜に引き続き、カテドラル前のレストラン街で、昨夜のレストランの隣でパエリャを摂る。 これがまた滅茶苦茶に美味しくて、こんな美味しいパエリヤを食べたのは初めてである。(といってもパエリャはあまり食べたことはないが) |
Back to toppage
2024 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12
2023 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12
2022 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12
2021 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12