Back to toppage このページでは彫刻家・田中等および宮崎の彫刻に関する最新情報をお届けします。 過去の日記 2024 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 2023 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 2022 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 2021 1-2 3-4 5-6 7-8 9-10 11-12 |
2024 | 6月30日(日) ☆曇天で非常に蒸し暑い一日。 ☆空港展最終日。 日曜日なので大勢の来訪者で賑わった。 今日も1点の売買成立があり、最終的に7点の作品の売買が成立した。 販売価格の総計もバブル期並みに近づいた。 会場の皆さんの反応もバブル期を彷彿させた。 ☆会場の反応の良さの原因の一つは、近年の運送業界の彫刻取り扱い停止に伴い、最終的に引き受けていただいたゆうパックが重量とサイズの制限があり、 そのために多くの作品が小型化せざるを得なくなったことにあると思う。 そのために作品が親しみ易い大きさになった。 だが今回はかなり大きな作品も売れているので、やはりコロナ禍開けの動きも反映されてはいるのだろう。 ☆午後2時から搬出作業。 空港ビルの担当者の交渉のお陰で、国内作家はゆうパックで、海外作家はEMSで、一度に梱包作業終了後に郵便局に引き渡すことができた。 これまでのように搬出翌日に再び空港へ出かけて、運送業者に作品を渡す作業が無くなり、助かった。 ☆搬出終了後の総括反省時に、私の中で緊急の懸案事項だった、運営体制の見直しを提示する。 この日記に何度も書くように、今の体制のまま私と奥村が受付を引き受けていたのでは、後期高齢者となる私か奥村が倒れてしまえば空港展は即終了となる。 また私が倒れてしまえば、私一人で背負っている海外作家との事務対応も出来なくなり、国際展では無くなる。 それで、来年度から必ず全員で受付当番を分担して貰うこと、海外作家との対応も誰かに担当してもらうようにお願いした。 しかし、瞬時に皆の顔が固まった。 一様に、それは出来ない、という反応。 だから来年からのために、今日の場で提案した。 これからの1年間の間にあらゆる可能性をみんなで考えて行って欲しい。 できないことばかり考えず、出来ることを考えて行って欲しい。 ☆最終日の今日も、午前は私と奥村以外の宮崎の作家は誰も来なかった。 顔を出してくれたのは搬出に来た県外作家たちであった。 35年間、そうであった。 私が事務局をリタイアして、新しい事務局に継続開催を引き受けて貰った時点で、皆で事務分担を引き受けようという合意だったのだが、結局は何も出来ないまま であった。 今の若い世代は、家族や職場を犠牲にしてまでも展覧会に命を懸けるということは決してしない。 しかし私と奥村はこの35年間、家族を犠牲にし、収入のための仕事を絶たれて来た。 兎に角、今のままでは私か奥村が倒れたら、自動的に空港展も終止符を打つ。 そう成らないための対策を皆で来年開催までに考えて欲しい。 ☆何時もなら、これだけ空港展の反応が好かったし、作品も近来になく売れたので、快い充実感で空港を後にすることができた。 しかし今日は実にどんよりした絶望感で、重い疲労を抱えて帰途に就いた。 ☆帰宅すると、再参加希望の作家からメッセンジャーが届いた。 会場でも来年からの参加を熱望する作家からの申し出もあった。 多分、韓国の李さんが空港展参加作家と韓国・大邱の作家たちとの交流展を進めているから、来年は韓国からの出品作家も増えるだろう。 しかし、今の状況では来年の空港展が正常に開催できるのか確信が持てない。 どうすればいいのか・・・、ますます心の中に鉛色の錘が重量を増してくる。 6月29日(土) ☆一日、雨。 ☆空港展14日目。 ☆今日は土曜日と言うこともあり、空港の利用者が多かった。 そして明日が最終日と言うこともあり、知人の来訪も多かった。 知人にはテレビで観たと言う方も多く、やはりメディアの効果は大きい。 みなさん、1点1点熱心に観ていただく。 ☆今日で2点の作品が売買成立と成り、昨年の販売点数を越えた。 まったく売買打診も無く動きの途絶えていた数年前とは、まるきり会場の雰囲気が違う。 6月28日(金) ☆一日、小康状態の雨。 雨は明日までは続きそう。 ☆空港展13日目。 午後にようやく4点目の作品が売買成立した。 昨年は最終的に5点の売買成立で、近年にない成果だったが、今年は販売単価が高いものが売れているので、やはりコロナ禍以降は徐々に精神的充足に 向かっているのかもしれない。 ☆コロナ禍の間は、芸術は不要不急の対象ではないと見なされてきたが、やはり芸術との触れ合いは人々に生きるエネルギーを与えるものだと見直されている 気がする。 芸術のみならず、美しい景観、ごみの無い街は人々に前向きな生きるエネルギーを与えて呉れる。 先だってのヨーロッパ周遊でそのことを強く感じた。 翻って、今の日本は経済効率しか頭になく、町中にも太陽光パネルを無秩序に設置しまくって、日本中の景観をぶち壊している。 2カ月のヨーロッパ周遊で、どこまで走っても美しい景観の中に太陽光パネルは無かったし、街中で太陽光パネルを無神経に設置している所は全く無かった。 日本では景観保存では収入にならないと言って、次々に樹を切り倒し、太陽光パネルを設置しまくっている。 今の日本は業者が勝手に日本中の景観を作り替え、統一した美しい景観は壊滅した。 しかしヨーロッパの人々はそうでは無い。 ヨーロッパは景観保存に行政がきちんとルールを確立して主導している。 ヨーロッパの人々は、自分たちの生活する生活空間をとても大切に守っている。 美しい景観から得られる生きるエネルギーは、金銭的な豊さ以上の豊かさを齎すものだと理解している。 ヨーロッパはとても健全でまっとうな世界だった。 ヨーロッパ周遊中は毎日のように、今の日本がいかに最低で異常な国であるか、つくづく痛感させられた。 ☆午後に、黒木・高鍋町長来訪。 フェイスブックに空港展の様子を投稿していただいた。 そして、”現在、高鍋町で計画中の「アーティスト・イン・レジデンス」事業は彫刻家・田中等さんのご協力を得て推進することになる。”と明記された。 6月27日(木) ☆午前中は曇り。 午後からは雨となる。 ☆空港展12日目。 ☆今日は週の中日の木曜日で、昨日より空港の利用者自体が少なかった。 ☆それでも来場された方たちの反応は好い。 今日はこんなメッセージをいただいた。 ”高齢の両親に会うため帰省した折に、素晴らしい彫刻展に来られて、本当に幸運でした。 東京でも作品展は多いですが、とても良い空間で満足度の高い彫刻展で感激しました。 作者の皆様、お体を大切に頑張って下さい。” (宮崎出身で東京在住の男性。49歳) ☆たまたま宮崎に来られて、友人の作家が出品しているので驚かれている方もおられた。 6月26日(水) ☆午前は雲は多いものの晴れ間が広がる。 午後からは雨となる。 ☆空港展11日目。 今日は空港の利用者が曜日的に何時もより少なかった。 しかし空港展会場に来られた方は丹念に見て行かれる。 何かの会合に呼ばれて東京から来られた方で、美術界に詳しい方が”どうしてこんな作品がこんなに安いんだ!”とびっくりされて、 会合に出発されるまでの間の時間を熱心に見て廻られた。 ☆先日、宮崎には初めて来られたような若い女性が熱心に作品を見て行かれ、メッセージも書いていただいた。 今日はまた、今から成田に帰りますと会場に来られ、再び熱心に作品を見て廻られ、最後には私たちと一緒の写真まで撮られて帰られた。 今回の作品はどれも非常にレベルが高いうえに親しみ易い作品が多いので、例年になく皆さんが熱心に作品を見て廻られる。 6月25日(火) 夜明け前は雷雨。 夜明けてからは晴れるが、日中は晴れたり雨が降ったりの不安定な気候。 ☆朝のうちは晴れていたので、修復した「せいごろう亭」の座像石像を届ける。 ☆空港展10日目。 来場者はまずまず。 みなさん、1点1点をとても丁寧に見ていただく。 空港と言う滞在時間の長い空間ゆえの効果であろう。 ☆私は受付をしながら、デスクワーク。 フェイスブックの私のアカウントへの連絡先割り込み追加の件。 フェイスブックの連絡先削除方法をあらためて確認したら、認証コードを入力しなければならないのはWeChatでは無く、WhatAppへ届くコードだった。 WhatAppはMetaのアプリだった。 WhatAppもスマホを買い換えた時に消えてしまったので、再インストールする。 無事に認証作業が進んで、追加された電話番号を削除できた。 ☆引続いて、平成5年度の宮崎県文化年鑑・彫刻部門の原稿打ち込み。 ☆先日からの高齢者講習や後期高齢者医療被保険者証の届きで、にわかに近々75歳になるわが身の今後の事を考えなければならなくなった。 私の廻りの同級生や同窓生が次々に倒れている。 完全に明日はわが身である。 そういう齢になった。 私が関わっている幾つかの事が、私が倒れてしまうと大変な迷惑をかける事態が生じる。 そろそろ真剣に老兵は身を引くべき時に来ているのではないのか。 真面目に考えなければならない時になっている気がする。 6月24日(月) ☆夜中から激しい雷雨。 午前中はもの凄い土砂降りと小康状態の入れ替わりが激しい不安定な雲の流れ。 午後は一気に雨も上がって、青空が広がる ☆空港展9日目。 今朝の宮崎日日新聞文化欄に空港展記事。 今日の掲載でないと間に合わないと思っていたので安堵した。 しかし白黒の会場写真だったので、文化欄を読んでいた妻がまったく記事に気が付かなかったほどの目立たない記事であった。 だが紙面の掲載体裁は編集局が決めることなので、間に合っただけでも良しと受け止めるべきか。 ☆先日に取材していただいたmrtテレビの映像が、昨日の夕刻に放映された。 我が家にはテレビが無いので見れなかったが、参加作家がネットで投稿してくれた。 今日会場に来られた人の中に、”あっ、これだこれだ”と映像で流れた作品の前に駆け寄る方もおられたので、効果はあったようだ。 おおむね、新聞に掲載された日やテレビで流れた時の翌日は来客が増える。 ☆午前のうちは激しい豪雨だったので空港展への来場者は期待していなかったが、月曜日は空港利用者も多く、午後からは天候も回復したので 思った以上に多くの方に来ていただいた。 ☆後期高齢者医療の被保険者証が届いた。 来月の誕生日からいよいよ後期高齢者になる。 医療費負担の割合が2割から1割になるのは有難いが、精神状態はまだまだ30歳台、40歳台だと思っているので、社会的に後期高齢者に組み込まれてしまうのは なんとも切ない。 しかし確かによく転んだり高い処から落ちたりするようになったので、体は老化して行っているのだろう。 ☆フェイスブックへの私のアカウントへの割り込み追加が削除されたのか確認してみた。 しかしメールアドレスは削除出来ているが、電話番号はそのままである。 削除するにはWhatAppへ送られたコードを記入しなければならないが、WhatAppに何度やってもログインできない。 電話番号にSMSで警告すべきか。 6月23日(日) ☆曇り。 午前は時々陽の射す空模様。 午後に一時的に雨になったが、雨は直に止む。 ☆今日は義姉の17回忌法要。 10時から菩提寺での法要。 住職が盲腸で入院中で、跡取りの息子が法要を進めたが、中学生がお経を上げるような蚊の鳴くような読経と講話で、お経の何処を読んでいるのかさっぱり分からず、 参列者の皆さんはお経の本をあちこち捲っておられた。 墓参の後、”御船”で直会。 こうして親族一同が集まるのは、冠婚葬祭のうちの葬祭だけになってしまった。 大雨を心配したが、法要の間には雨は一滴も降らず、幸いであった。 ☆今日の法要に居住地が線状降水帯の大雨で来られなかった義姉の妹夫妻にラインで集合写真を送ったら、思いがけないことがわかった。 実は先日の空港展初日にご主人から電話が這入っていたのだが、てっきり今日の法事の件だと思っていた。 ところが、義姉の実家を移住者に売ったので、高鍋に帰ることが無くなってしまったということで、その移住者が高鍋町美術館で個展をしていたので 私に連絡しようと電話したのだと言う。 えっ、先日に高鍋町美術館で会った個展開催中の画家が、移住のために買った家と言うのは、義姉の実家だったのである。 なんと、びっくりである。 ☆空港展会場からの連絡で、1点の作品の売買が成立した。 長年、毎年手の込んだ作品を出品していただく上に、懇親会にも遠路から常連として出席していただく作家なので、とても嬉しい。 日向現代彫刻展からのお付き合いなので、ようやく恩返しが出来た。 ☆私の”MOON DANCE”を墓に使いたいと言う話が這入って来た。 まだ先の話のようだが、”MOON DANCE”が亡き人との絆を繋ぐモニュメントになってくれたら嬉しい。 ☆今朝、パソコンを起動すると、フェイスブックから”電話番号を追加しましたか?”、”たった今メールアドレスを追加しましたか?”というメールが立て続けに届いた。 なにかフェイスブックを語る詐欺かと思ってフェイスブックを開くと、確かに名古屋からの発信者に因るメールアドレスと電話番号が私のアカウントに追加されていた。 これは私のフェイスブックの乗っ取りなので、直ぐに削除の手続きをするが、手続きするにはWhatAppに届いたコードを入力しなければならない。 だが私のスマホのWhatAppはスマホを切り替えた時に消えてしまって、新しくログインしようとしてもエラーが出てログイン出来ない。 他の方法で削除はしたのだが、本当に削除できたのか不安である。 今のところなりすましの報告は届いていないが・・・。 6月22日(土) ☆雨。 午前中は激しい雨。 午後からは一時的に青空が見えたが、再び雨となったり雨がやんだりの不安定な天候。 ☆空港展7日目。 今朝は8時に空港へ。 8時45分からmrtラジオの”バリ朝”イベント情報コーナーで、電話取材による空港展の案内。 およそ5分間の内容で空港展の紹介をする。 奥村は携帯ラジオを持ってきて、イヤホーンで放送を聞いてくれた。 ☆今日は土曜日だったが、それほど客足は伸びず。 ☆空港ビルの3階ギャラリーで個展を開催している、日南市在住の佐原美樹さんが空港展に顔を出してくれた。 彼女は独立美術協会を主な活動拠点にしていると言うことで、日南市と福岡市を主な活動場所にしている。 地元新聞での地方版では時々紹介されていたが、実際の彼女の作品を観たのは今回の空港ビル3階ギャラリーでの個展会場が初めてであった。 とても純度の高い緊張した気迫の漂う作品群に圧倒された。 よくぞ日南市と言う地方の街でこれだけのスタンスを保った制作活動が続けられているものだと感心させられた。 宮崎にこれだけのレベルの女性作家が、孤高に活動を維持していることは大変な驚きであった。 それも独立美術協会と個展と言う活動に徹底的に絞り込んだ活動の密度が、彼女の作品の高度な緊張感を保たせてくれているのだろう。 6月21日(金) ☆晴れ。 鹿児島の方は線状降水帯が発生して局地的に大雨だったようで、南の方は雨雲がかかっていたが、じきに全面的な快晴となる。 ☆空港展6日目。 今日は午前のみ空港へ。 明日朝のmrtラジオ番組でのイベント情報コーナーで、電話で空港展についての紹介をする。 その下準備の打合せで担当ディレクターと会場で打合せをする。 ディレクターというのは高鍋駅前”MOON DANCE”でお世話になった、元スクーピーの大石さんである。 ☆昼前に高鍋へ帰る。 ☆午後から、高鍋自動車学校で免許証更新のために高齢者講習。 2時から5時までびっちりの講習。 最初に認知機能検査。 幸いに今日の参加者には痴呆症の症状は無し。 その後、目の検査と自動車運転の高齢者講習。 また3年後には講習がある。 ☆空港の元の空港展担当者が50回展までは続けて欲しいですね、という。 しかし私と奥村は即座に”無理だよ”と応える。 なにしろこの35年間、毎日空港の受付に座って来たのは奥村と私である。 この先、どちらかが倒れたら空港展は継続できない。 50回と言ったらあと15年で、私はもう90歳だ。 90歳の身で毎日、空港へ車で通うことは不可能である。 高齢者講習には私の高校同窓生が来ていたが、彼も数年前に脳梗塞を患ったと言うし、同窓生の訃報が続くと言う。 空港に毎日通えるのはあと5年くらいではないのだろうか。 ☆今日は結婚記念日。 結婚したのは1987年(38歳)だから、37年目の記念日か。 私の手料理でお祝いをする。 6月20日(木) ☆一日、激しい雨。 ☆空港展、5日目。 ☆今日は流石に雨のせいか、空港の利用者も何時もより少なく、彫刻展の入場者も全体的に滞在時間が短かった。 それでも熱心に1点1点をじっくり見ていただく方は多い。 ☆個展開催中の湯川氏はお昼前に宮崎を発つ。 ☆私は受付をしながら、旅行記ワード縦文章の修正作業。 ☆夕刻に男子高校生が2人やって来て、長い間、1点1点を丁寧に観ている。 聞くと県内の某県立高校の美術部員で、一人の生徒は東京芸大の彫刻科を目指していると言う。 その高校にはかつての私たちの仲間だった、彫刻科卒業の美術教師が在籍している。 本人は私たちの活動から外れてから殆ど彫刻を制作発表していないが、生徒への指導はしているようだ。 おそらく空港展を始めてからの35年間、大学で彫刻をやっています、いました、という来訪者はあったが、彫刻科を目指している高校生が空港展を見に来てくれたのは 初めてではないかと思う。 宮崎では若い作家が全く育っていない。 是非ゆくゆくはこの空港展にも参加して、宮崎の活動を引き継いでほしい。 6月19日(水) ☆晴れ。 午後は薄雲がかかる。 ☆空港展4日目。 ☆空港展と連動して出品作家の湯川隆氏が、今日から宮崎市の小さな画廊で個展をする。 その画廊の共同オーナーの一人が湯川氏と多摩美の同窓生だと言うことで、去年のうちから開催が決まっていた。 今日は初日なので、宮崎の作家を代表して画廊オープンの11時に表敬訪問をする。 この画廊はサンビーチ一ッ葉に近いヘヤーデザイン店舗の敷地内のコンテナハウスを利用したギャラリーで、今の宮崎で最も勢いのある若手(私の妻と近い年代)の 女性4人が共同経営している小さなギャラリーである。 したがって壁掛けの小品が主体の彫刻展であった。 今日は湯川氏も一日在廊された。 ☆お昼に宮崎空港へ。 午後に宮崎日日新聞生活文化部の取材。 担当の野村記者は4月から生活文化部に配属になったと言う新人記者であった。 かなり時間をかけて丹念に作品を見て廻っていただいた。 6月18日(火) ☆朝のうちまで強い雨。 雨は午前中まで小雨状態で続いたが、午後からは快晴となり、暑くなる。 ☆空港展3日目。 実は昨日のうちに空港ビル担当者に問い合わせがあり、作品が売約されていた。 2日連続で作品の売買が成立していたという嬉しい出だしとなった。 ☆私は今朝は午前5時前に起きて、空港展のウェブサイトの全作品UP作業をする。 この空港展ウェブサイトのサーバーがなかなか転送がうまく行かない。 転送設定は正しいのに、全く転送されないのでパソコンを再起動したりしてネット環境をリセットすると普通に転送できたりする。 全作品の転送は空港へ出かける前に出来たので、日中は空港展の受付をしながら会場風景や画像の入れ替え作業をする。 以前は簡単に小さなサムネイル画像を別窓に拡大表示できたのに、ホームページビルダー22に替えてから出来なくなった。 私の年代では操作が替わると、たちまち付いて行けなくなる。 しかし若い作家は誰もHP更新をやってくれないので、毎年のことながら空港展の前半はパソコンとにらめっこで過ぎてしまう。 ☆今朝の宮崎日日新聞地域統合版に、先日のロータリークラブ”明倫賞”の記事。 新聞を見た友人たちからラインで祝福が届く。 6月17日(月) ☆一日、本格的な土砂降り。 水冷で気温は上がらず。 ☆空港展2日目。 激しい雨にもかかわらず、多くの来場者で賑わった。 ☆朝一に、宮崎空港ビル・長濱会長が会場に来られて温かいエールを贈っていただく。 宮崎空港ビルの精神的支援なしには、世界でも例のない空港での彫刻展は35年間も続かなかった。 ☆午前にUMK宮崎テレビの取材。 ディレクターは例の黒木清五郎邸の娘さんのご主人で、これまでにも色々お世話になっている。 石井記念友愛社が黒木清五郎邸を買い取ってリノベーション中の”せいごろう”亭について話が弾む。 黒木清五郎家は明治時代には味噌や醤油も生産販売していたと言うことで、石井十次がよく買い物に来ていたと言うから、石井十次にとっても大変縁のある 清五郎邸だという。 また西郷隆盛も寄宿したことのある由緒ある家だと言うことだ。 西郷隆盛の寄宿への感謝状が残っていたのだが、何時のまにか行方不明になってしまったらしい。 ☆午後にはmrt宮崎放送のテレビの取材。 インタビュー担当の若い女性が、熊本県出身で4月に入社したばかりで、宮崎空港に来たのは今日が初めてだと言うことであった。 だからまだまだインタビュー慣れしていないので、毎回の質問内容がすべて同じで、異なった返事を返すのに苦労しした。 ☆午後3時57分ごろに地震。 最初はゆるい揺れだったが、直後に下からドーンと突き上げて来る激しい地震。 速報では宮崎市で震度3だった。 6時過ぎにも震度3の地震。 ☆李さんは昼前に福岡経由で帰国の途に。 宮崎を観光されていた作家の方も複数おられて、夕刻までには帰路に就かれた。 ☆今日もハプニングが起きた。 私がmrt宮崎放送の取材で席を外していた時に、突然、バーンという音とともに受付の背後の壁が倒れて来た。 倒れてきた場所は、私がつい今しがたまでパソコン作業をしていた場所である。 取材で席を外していなかったら、倒れて来た壁はモロに私を直撃していた。 奥村と空港ビルの担当者はすかさず”エンジェルナンバー!”と叫んだ。 そういうことか、私もエンジェルナンバーに救われたのか。 ☆私は一日中、受付をしながら空港展のウェブサイトの更新作業。 1年に1回しかやらない作業なので、スムーズに進まない。 更新は明日に回す。 6月16日(日) ☆晴れ。 梅雨の合間の上天気。 気温は30度を越え、じりじりと太陽の刺し入って来る真夏日となる。 ☆空港展初日。 今日はお天気も良く、空港も賑わい、多くの来場者があった。 ☆時間のある作家の皆さんたちは、思い思いにレンタカーを借りて各地に観光に出かけられた。 ☆私は折角宮崎に来てくれた韓国の李さんに、私の高鍋駅前”MOON DANCE”を観てもらいたくて、鹿児島の吉永さんに車を都合してもらい、吉永さんと 尾崎慎氏との4人で高鍋駅へ向かう。 お昼は「高鍋ギョーザ」で。 ☆午後2時には空港へ戻る。 ☆夕刻近くなって、作品が1組み売買成立した。 初日に作品が売れることはなかなか無いので(奥村の記憶では、初日に売買が成立したのは初めてらしい)、好調な出だしとなった。 6月15日(土) ☆雨。 しかし天気予報のようには大降りにならず。 午後後半には雨脚は止まる。 ☆空港展搬入日。 搬入時には雨は小雨状態で、ほぼ影響は無し。 10時から会場設営作業。 今年の出品作品は海外5点を含む48点。 未着だった韓国とオマーンの作家は無事に展示作業中に届いた。 何の連絡も無いポーランドの作家は、結局は作品を送ることはできなかったのだと判断。 ☆何時もは地元の宮崎の作家たちはそれぞれの用務が重なって、半分ほどの作家しか搬入展示作業に関われなかった。 しかし今年は全員がずっと作業に関わってくれたおかげで、午後1時過ぎにはほぼ展示作業は終わった。 午後に作家本人持参の作品も届いたので、会場レイアウトを済ませ、作品キャプションを取り付けて午後3時前には展示作業は終わった。 今回は国内作家に4名の新規作家の参加があり、皆さん大変レベルの高い作家ばかりで、なお一層内容豊かな彫刻展となった。 ☆韓国からは李さんが5年ぶりに来訪。 李さんと県外作家たちには早めにホテルに入ってもらった。 ☆午後6時からお楽しみの懇親会。 会場は郷土料理”銀天ゆずや” 作家は韓国の李さん、国内は遠く北海道からの作家を始め27名、空港ビルから3名、関係者5名の計35名の参加。 本当に皆さん、和気藹々の楽しい酒宴である。 殆どの作家の皆さんはこの酒宴が楽しくて、毎回宮崎にはせ参じていただくようだ。 そして作家の皆さんがまた新しい実力作家を引き入れていただく。 ☆韓国の李さんから、彼の居住する大邱の美術協会と空港展作家たちとの展覧会を相互に開催したいという提案があった。 私と李さんが出遭ったのも、大邱での日韓現代彫刻展に参加した時である。 大邱は美食の街で、サムゲタンとコムタンがとても美味しい。 是非実現に向けて進めて欲しい。 李さんからは韓国最高級の53°の焼酎をいただき、皆さんに飲んでもらう。 ☆2次会は○八ホルモンへ。 ☆私たちは2次会後はホテルへ帰還したが、若手の作家たちは更に夜中の繁華街へ突入していった。 ☆朝一に、マレーシアから哀しい連絡が入った。 私のパトロンのヤップさんの奥さんが3日前に亡くなり、今日が葬儀だと言うこと。 ヤップさんは自宅の敷地に、夫妻の終の棲家であるリハビリ用の家を建てられている。 私のヤップ家での最後の作品は、その終の棲家の前に設置する作品を制作させていただいた。 6月14日(金) ☆晴れ。 陽射しは真夏だが、室内はとても涼しい。 ☆石像座像の修復作業。 埋め込んだセメントを削って形を整える。 夕刻に油彩絵の具で着色してみる。 ☆妻の指摘で、旅行記のワード縦文章で数字が縦になっているけれど横変換出来るので、そうしたほうが読みやすいと言う。 私はワードは殆ど縦書きしたことが無いので、そういう機能があることを知らなかった。 拡張書式の「縦中横」で変換することがわかり、全ページに目を通して修正する。 ☆いよいよ空港展の搬入は明日なのだが、今日も海外作家3人の作品は空港に届かなかった。 2名の作家は今日までに届くように送ったという連絡が入っているが、ポーランドの作家は何度かメールで問いあわせても返事が無い。 これまでにも作品を送ってこなかった海外作家が何人かはいる。 その殆どは国民性の問題であるが、今回のポーランドの作家は今年のKAJIMA彫刻コンクールで銅賞を受賞した作家で、本人から空港展への参加を希望してきた。 ようやく5年ぶりに海外作家の参加する国際彫刻展として再始動出来たのに、空港展が始まっても海外作家の幾つかの展示台には何も無いことになりかねない。 ☆もう一つ頭の痛い問題がある。 5年前の30回記念展で、右翼から「モルゲッソヨ」として攻撃を受け、途中で作品を撤去しなければならなかった韓国作家である。 作家自体はとてもレベルの高い作家なのだが、宮崎出身のお笑い芸人がネットで取り上げて大炎上したのに加え、複数の右翼関係者から脅迫が相次いだ。 美術展としての意義とは全く関係ないところの騒動で、新聞沙汰にもなった。 それで今回はあえて作家に出品案内を出さなかった。 ところが韓国の作家たちと仲良くなった空港ビルの担当者が、訪韓すると空港展参加の作家たちと交流しているのだが、今年も訪韓した際にこの「モルゲッソ」の作家と 会っていたことがわかった。 彼は出品案内が来なかったことに相当のショックを受けていたという。 空港ビルの担当者は、クレームの来ないタイプの作品を出品して貰えばよかったのでは、と残念がるが、しかし5年前の騒動は”美術作品”とは全く関係ない 反日・反韓の対象として標的にされた。 特に右翼の場合はその作家の名前を記録しているだろうから、今年の空港展にも参加していると分かったら、また同じ騒動が起きる。 そう判断して、私が出品案内を自主規制して見送った。 6月13日(木) ☆晴れ。 梅雨の合間の爽やかな気候。 ☆午前は旅行記のワード縦文章のチェック作業。 ☆昼に高鍋ロタリークラブ例会での、明倫賞授賞式に出席。 この明倫賞という賞は、ロタリークラブの基本姿勢に乗っ取り、社会奉仕の鏡として創設された高鍋ロータリークラブ独自の賞で、今年の明倫賞に私を選んでいただいた。 私の高鍋町内での彫刻家としての活動、特にあかりプロジェクトと高鍋駅前「MOON DANCE」制作に高い評価を与えて下さった。 こういう賞は初めての受賞だし、ロータリークラブの大半の皆さんは良く知った方ばかりなので気恥ずかしくもあった。 しかしこれまでの私の高鍋町内での風評は、単なる呑んべえの偏屈者という存在感しか与えられていなかったので、こうしてロータリークラブの皆さんが私の存在を 見守っていただいて評価していただいたと言うことはとても嬉しい。 心からの感謝で表彰式に望んだ。 私は高鍋駅前「MOON DANCE」の記録冊子を皆さんにお配りした。 そして、これまでの高鍋町内の彫刻設置の流れなどについて、20分ほどの受賞スピーチをする。 ☆午後に、座像石像の修復作業の続き。 色合わせがうまく行かない。 水を加えると、色粉の発色がすごく強くなってしまう。 ☆夕刻に涼しくなって、再び伸びて来た庭の草刈り作業。 ☆宮崎空港ビルからの連絡で、海外作家からの作品がまだ1点しか届いていないと言う。 オマーンの作家は6月9日に発送している。 これでは間に合わない。 ポルトガルの作家の作品は私が預かっているし、韓国の作家の1名は持参する。 ほかの2名はメールで問いあわせても返事が無い。 まだコロナ禍の影響で、輸出入の手間がかかっているのだろうか。 6月12日(水) ☆日中は陽射しが出るが、おおむね曇り。 午後半ばからは雨となる。 ☆石井記念友愛社の児嶋理事長から預かった石像座像の修復作業。 まずセメントで接合してあった首と本体を外す。 それを位置合わせをしながら接着剤でまず再固定。 肩の部分と頭部の部分を、座像の元のフォルムを想像しながら固定する。 そしてセメントと石粉と着色剤を混ぜて隙間を埋めて行くが、もとの少しピンクと黄色系の混ざった御影石の色合いが出ない。 セメントが乾いてから、再度調整し直すしかない。 ☆旅行記のワード縦型文書の未編集だった部分を訂正してプリントし、バインダーで止めたものをめくりながら細かな修正個所のチェックをする。 私のHP日記では記録性が先ず第一だったので、電車やバスの発着時刻を記載している。 その記載は旅行記を他人に読んでもらうのには不要だろうと思っていたが、読んで見ると毎日が殆ど移動なので、時間の流れが豊かに掴める。 これはこれで、私たち夫婦の旅の流れに切実な訴求力を持つ。 ☆昼前に日本生命の妻と私の保険継続手続きに担当者来訪。 ☆空港展のHP全作品掲載ページに、作家の顔写真を貼り付ける。 6月11日(火) ☆雲は多かったものの、おおむね晴れの一日。 ☆もう間もなく空港展が始まる。 毎年、空港展の全作品掲載のHPを更新しているが、私の使っているFC2は半年間更新が無いと、FTP接続がロックされてしまい、更新が出来なくなる。 空港展のサイトの更新は年に1,2回なので、この時期になると管理画面にログインして「FTP接続をロックしない」設定をしなければならない。 ところが長い間に渡って更新をしていないので、新たにログインするには二次認証の作業が必要となっていて、認証用コードが登録メールアドレスに送られて来る。 だが、FC2の私の登録メールアドレスは宮崎ケーブルのアドレスになっていて、私は3月にネットのプロバイダーをドコモに替えてしまったので、宮崎ケーブルテレビの メールアドレスは無効になってしまっている。 私が認証用コードを受信できるアドレスで登録し直さないと、ログインして「FTP接続のロック解除」が行えない。 昨日からプロバイダーと連絡しあっているのだがうまく行かず困っていた。 今日になってようやく登録メールアドレスの変更が出来て、管理画面にログインし、「FTP接続」のロックを解除できた。 ☆それで今日は一日中、今年の空港展の全作品紹介のページを今年の仕様で打ち込み直す。 作家の顔写真データも整理したので、空港展が始まれば早めに作品画像を入れ込んで更新できる。 ☆今年は運転免許証の更新年度である。 お昼に高鍋自動車学校に高齢者講習の申し込みの電話を入れたら、誕生日が直近の7月15日なのでびっくりされた。 もう9月まで予約で一杯なのだと言う。 確かに高齢者講習の案内は2月に届いていたが、仕事で多忙だったり、日本に居なかったりで今日まで申し込みできなかった。 幸いに6月21日の午後に空きがあったので、直ぐに申し込む。 ”あらためて、お誕生日とお名前をお願いします”と言われたので、誕生日と名前を告げると、電話口の女性が”あっ・・・”と一瞬口をつぐまれた。 なんとその方は田中姓で、しかもご主人が私と同じ誕生日なのだそうだ。 高鍋町内に私の主人と同じ誕生日の同じ田中さんがいる! それでびっくりされたのだそうだ。 ☆編集の終わった旅行記ワード縦書きを印刷してみる。 A4で全80余枚、A4に中折れで2ページ掲載なので、全部で160ページ余になる。 全60日で160ページ余と言うことは、1日の掲載内容が2〜3ページ文となる。 印刷してみると、一部がまだ未編集のページがあったので修正する。 この私の旅日記に加えて、妻のメモ日記、写真掲載など加えると200ページ以上になる。 ☆来週からと思っていたハーモニカ練習を、今日から始める。 6月10日(月) ☆曇り。 ☆一日、旅行記のワード縦書きの作業。 午後までには終わったが、旅日記は殆どが旅行の行程のメモ書きみたいな内容なので、普通の文章のように詰めたりするのが難しかった。 一度プリントアウトしてから編集し直そう。 ☆夕刻に石井記念友愛社の児嶋理事長からの連絡で、完成した保育園複合施設とリノベーション中の「せいごろう亭」を見に行く。 保育園には石井記念友愛社が所有している叔父の故・道北昭介の絵がホールに3点、階段壁に2点、展示してあった。 以前は石井記念友愛社の食堂に掛けられていたものだが、石井記念友愛社も入所者が減り、皆で食堂に会することも無くなってきたので、この新しい施設に 展示替えしたと言うこと。 「せいごろう亭」の2階に上り、道北昭介の絵を展示したいとの概要の説明を受ける。 道北昭介の公的美術館、石井記念友愛社所有の作品以外の遺作は、現在は石井記念友愛社が管理保管している。 だが所有権は娘に有るので、「せいごろう亭」のオープンまでには展示の許可を得たいと言うことである。 ☆また「せいごろう亭」のもと黒木清五郎邸には、風化して殆ど表面が摩耗してしまったような大師座像石像(?)があった。 児嶋理事長はその古い座像石像をこの「友愛の森」の魂の権化として祀りたくて、すでに社も据えられていた。 ただ古い石像にはよくあるように首が折れていて、セメントで接合してある。 そのままではみっともないので、私にきちんと修復して欲しいと言うことで預かった。 「せいごろう亭」のオープンは7月1日で、それまでに据えたいと言うことだが、来週から空港展である。 急な依頼なので、空港展の期間中に時間を見つけなければならない。 ☆今日は妻のボーカルレッスン日であった。 それで次のライブを8月31日にしたいという打合せを講師の片貝さんと話し合ったようだ。 7月の旅行報告ホームパーティーでもミニライブをしたいと言うことなので、また来週から私もハーモニカの練習が再開する。 6月9日(日) ☆梅雨に這入った途端に本格的な雨。 夜中から今朝まで、バケツをひっくり返したような激しい雨。 ☆来週半ばに、某会合で15分ほどのスピーチをしなければならなくなったので、その概要をまとめる。 私と彫刻によるまちづくりへの関わりについて、になると思う。 ☆一日、旅日記のワード縦様式のまとめ作業。 5月中旬まではたどり着いたので、数日以内にはまとめ作業は終わりそう。 ☆夜に夕食の準備をしていたら、石井記念友愛社の児嶋理事長から呼び出し。 直ぐ近くのSAKAバーで呑んでいると言うことで、妻の夕食を準備して出かける。 友愛社の職員で、先日の”みやにち夢ひろがる小品展”で大賞を受賞した後輩の宮城君も同席していた。 友愛社は直ぐ近くの火産霊神社隣に保育園と養護施設等を取り込んだ複合施設を建設していたが、施設はほぼ完成し、保育園はすでに移動して稼働している。 また隣接する黒木清五郎邸を買取り、「せいごろう亭」として障がい者の働く場へリノベーションしていて、その全体を「友愛の森」として整備を進めている。 私の”田中等彫刻公園”構想はその中に含まれるし、「せいごろう亭」の2階には友愛社が保管している私の叔父の故・道北昭介の絵を展示する予定である。 そういうことなど含め、児嶋理事長が与えられた命運として受け止めているこれらの事業について熱く語って呉れた。 ☆ニューヨーク在住のピアニスト・山本恵理さんが「MOON DANCE」の新しいバージョンを、高鍋町内と私の”MOON DANCE”の映像を添えて送っていただいた。 この曲は私の”MOON DANCE”にインスピレーションを得て、ニューヨークに帰られて直ぐに作られた曲である。 山本さんはこれまでにも何度か高鍋に来られていて、彼女の高鍋愛に満ちている。 親しみ易い歌詞とメロディーで、すでに私の友人知人たちは口ずさめるようになってくれている。 ☆ネットで伊東マンショとスペイン・クエンカとの関わり合いを調べていたら、実は「ドン・キホーテ」を書いたセルバンテスは伊東マンショと同時代の人で、 セルバンテスは天正遣欧少年使節の伊東マンショを目にしており、「ドン・キホーテ」は伊東マンショをモデルとして書かれた物らしい。 ” 1584年11月11日、スペインの首都のマドリードの中心地にあるサン・ヘロニモ・エル・レアル王立修道院礼拝堂で国王フェリペ2世の皇太子である フェリペの立太子礼が行われ、貴族や各国の大使の馬車あるいは警備の馬そして見物する群衆など、その礼拝堂付近では大混雑になった。 賓客達が聖堂に入ってから、一団の馬車が到着し、はるばる日本からやってきた天正少年使節団、その正使者が伊東マンショ。 その後、少年使節団はフェリペ2世に謁見し、警備隊長はロゴリドであった。そのロゴリドがフェリペ皇太子の母親のアナ王妃の小姓になったのは12歳のときであり、 アナ王妃はフェリペ2世の四人目の花嫁で、神聖ローマ帝国の王女である。ロゴリドはそのアナ王妃が亡くなると、近衛隊に転じ、やがて警備隊長となる。 そんなロゴリドは少年使節団の謁見の場に同席し、日本から使節団を引率してきたメスキータ司祭は少年使節団を彼に紹介するが、ロゴリドは日本の衣裳の 特異な外観に驚き、またフェリペ2世に献上された精巧な蒔絵箱や気品のある陶器、さらに屏風絵などに心を動かされ、日本という国に強く惹きつけられた。 そしてロゴリドがそう語る内容が当時の新聞に載せられた。 この新聞こそが監獄の中でミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラが見た記事であった。 こうしてドン・キホーテ物語の下敷きに伊東マンショが挿入される。 伊東マンショがローマへと向かうためマドリードを出発したのは1584年11月26日。その後使節一行はスペインを南下してアリカンテまでを旅する。 その工程間にラ・マンチョ地方がある。セルバンテスはその道程にあるマンショの姿を実際に見た。 その姿が後に監獄でみた新聞の記事によって蘇りドン・キホーテの構想となって深化するのであった。 ” ”スペイン特有の風土を醸し出すメセタ高原、この高原の南半分に広がり多くの文人を魅惑しているのがラ・マンチャ地方、ドン・キホーテの里であり、 赤茶けた大地と青空は、オリーブ畑と風車を引き立てている。伊東マンショらはこの高原の道を通り南のアリカンテに向かった。 ” ”このワイナリー「VEURUM」であるロペス・モンテロ家には、祖ホセ・ロペス(Jose Lopez Montero)によって語り継がれるトメリョソ(Tomelloso)の歴史書がある。 その内容の中に天正遣欧少年使節が描かれている。これは祖ホセ・ロペスが家伝とされる代々に継がれた伝承を残そうとして記した歴史書だ。 その一節に「 あの少年の名はマンショという。国王の使者として、スペインに来た日本人の少年だ。今、ローマへと向かっている」と記し、ラ・マンチャ地方を南下して ローマに向かう少年使節一行の旅姿を伝えている。 またそこにはドン・キホーテの著者ミゲル・デ・セルバンテスと伊東マンショに関する故実についても記されている。 「ドン・キホーテのプロトタイプはマンショである」と。 つまりこの古書には、ドン・キホーテの源泉は伊東マンショの姿であり、それをセルバンテスが描き出したと書き記している。” (Ron「漱」World) 私たち日本人の想う伊東マンショ像と当時のヨーロッパの人々が受けた伊東マンショ像とは、かなりの乖離が有るようだ。 6月8日(土) ☆曇り。 夕刻から雨。 宮崎を含む南九州は、今日から梅雨に這入った。 ☆朝一にO内科へ。 血圧が上がったままなので、血圧の薬を出してもらう。 ☆旅日記のワードへの書式クリアーは朝のうちに終了。 今度はそのワード文書を縦書きのスタイルで編集し直す。 色々ネットで調べてみると、日本語は縦書きが前提での構造なので、殆どの日本語の書籍は縦書きなのだそうだ。 ☆夕刻に、不在中の新聞切り抜きをスキャンする。 6月7日(金) ☆朝のうちは晴れ。 次第に雲が出て雨になるかと思われたが、再び雲が切れて晴れとなる。 ☆一日、このHP日記のヨーロッパ周遊旅行の2カ月の日記をワード文書に変換する。 このネット上のデータをコピーしてワード文書にするには、書式のクリアをしてワードに変換しなければならない、 今日で全日程の日記をワードにコピーした。 そして書式のクリアー作業をしてワード文書を整理してゆく。 あとは残り10日分でワード変換への作業は終わる。 それから客観的な文章になるように、編集作業を進めて行くことに成る。 ☆先日送り返してもらうように連絡をいれていた、手漉き版画用和紙が再送されて来る。 ☆今年の高鍋高校同窓会の東京支部同窓会資料パンフレット表紙に、私の高鍋駅前モニュメント”MOON DANCE”の画像が使われていた。 そのパンフレットが、東京同窓会事務局長で私の高校同窓である小川君から送られて来た。 ”MOON DANCE”の写真は、やはり高校同窓の寺町君が撮って呉れたようだ。 6月6日(木) ☆曇りのち午後から雨。 冷え込んだ一日。 ☆朝一に、妻と宮崎市へ出る。 旅発つ前に宮崎市の”まほろば福祉会”に設置したモニュメントの写真を撮りに行く。 設置した時はまだ周辺が工事中だったので、周辺整備が終わった状態の写真を撮りたかった。 5月11日に施設の完成セレモニーが行われている。 ☆それから宮崎県立美術館へ。 大学後輩の河野富夫君の個展を観に行く。 これまでの画業の集大成の回顧展で、広い県民ギャラリーには100号13点、150号18点、計58点の大迫力の作品群にびっくりさせられた。 彼は近年、2度の脳梗塞に倒れ、不自由な体で絵筆を取って来た。 今でしか出来ないという想いの詰まった回顧展である。 河野君独自の絵肌と世界観を学生時代からずっと貫いて来ていて、中々に見ごたえがあった。 ☆そして一ッ葉の”風の庵”で開かれている、やはり大学後輩の井上正君、伊集院正君2人の”正展”へ。 ☆午後は、高鍋町美術館の令和6年度第1回高鍋町美術館協議会に出席。 会長の私の司会進行で進める。 高鍋町美術館は青井学芸員がこの春から正規職員となり、青井さんの見識によって対話型鑑賞等の普及事業を積極的に進めている。 また協議会は美術館美術作品等収集審査委員会も兼ねており、今回は昨年の企画展”河野扶展”関係者からの3点の作品寄贈申し出があり、および関連作品の 高見精一(河野と同じ有田四郎の門下生)の作品の寄贈申し出があった。 河野扶の作品は何点でも高鍋町美術館に欲しいし、高見氏の小作品については”河野扶展”にも出品されていてとても魅かれた作品であった。 全員の賛成で寄贈を受け入れる。 実は午前に宮崎県立美術館で新しい収蔵作品コレクション展を覗いたら、叔父の道北昭介の作品が展示されていて、驚いた。 道北昭介の作品が宮崎県立美術館に何点か収蔵されていることは知っていたが、展示されているのは初めて見た。 美術館に展示されていると、作品の存在感が全く違う。 叔父の作品がこんなに素晴らしかったのかと驚いた。 だから作品が美術館に収蔵されると言うことは、こんなにも作品の存在価値を高める。 ☆高鍋町美術館のギャラリーでは、全く知らない若い作家が絵画の個展をやっていた。 聞くと、東京町田の生まれで、最近まで奄美大島に住んでいたが、高鍋町美術館で個展を開催したくて、この3月に高鍋町内に家を買って移住してきたのだと言う。 絵はサーフィンがテーマの躍動的な作品が多く、彼自身もサーファーだと言う。 6月5日(水) ☆晴れ。 外の陽射しは強いが、室内は寒い程の冷気。 しかし明日からは天候は下り坂で、梅雨入りに向かって行くようだ。 ☆血圧の値が急上昇してきた。 もう数日様子を見て、O内科でもう一度検診してもらおう。 ☆午前で不在中の新聞の目通しを終える。 不在中の出来事はおおむねはネットで知ることが出来るので、これと言った大きな出来事は無し。 伊藤一彦先生が日本歌人クラブ大賞を受賞されたことと、第14回みやにち夢ひろがる小品展の上位受賞者4人のうちの3人が高鍋高校OB美術展の 現役後輩だったと言う朗報くらい。 ☆私が不在中に、それまで何度催促しても届かなかった手漉き版画用和紙が届いていて、不在のため送り返されていた。 それで電話を入れて、送り直してもらう手配をする。 ☆このHP日記を読まれていた方たちから、是非文字にして残してほしいう声が複数あり、時間をみて少しずつワードに置き換えて行こうと思う。 旅行記自体は毎日のトラブルへのドタバタ日記だが、可能なら少し編集しなおせればと思う。 妻も妻なりのメモを書いているので、私と妻の立場での旅日記が出来ればと思うが、やることが多いので実現の可能性は半々か。 ☆来月の私の誕生日辺りに、旅の報告を兼ねた親しい知人たちとのホームパーティーを予定している。 それで画像を皆で観ながらわいわい楽しめるように、家庭用の安いプロジェクターをネット注文する。 6月4日(火) ☆晴れ 陽射しは強いが、空気が乾燥して爽やかなので、日陰は涼しい。 ☆今朝の血圧測定は何時もとまったく変らない数値だった。 昨日だけが異常だったのだろうか。 ☆午前は不在中の新聞チェック。 ☆昼前に伸び放題の浴室外庭の竹の伐採。 また蔦が伸びて来始めている。 および裏庭の伸び放題の草の除去。 ☆午後に、それらの竹と草を軽トラでアンジェラスの森へ運ぶ。 2カ月ぶりのアンジェラスの森は、思った程荒れていなかった。 ☆このLIFEBOOKへのホームページビルダー22のダウンロード方法が分かったので(JUSTの購入履歴からビルダーはパソコン3台までダウンロード出来る)、 今日からこの日記更新はLIFEBOOKで行えるようになった。 LIFEBOOKは不具合が生じて、購入したレッツノートでの作業に切り替えてからのメールが2か月分以上溜まっているので、その大量の不要メール削除の作業が なかなか大変である。 ☆旅行から帰って来てからの私の作る夕食が、これまでになく美味しい。 やはり旅行中は外食ばかりだったので、調味料や材料の組み合わせなどを自然に学んだのだろう。 今夜のスペアリブのワイン煮は、これまで食べたことの無い美味しさで、ずっとその美味しさの余韻から抜けられなかった。 昨年のカンボジア旅行で買って来た赤胡椒の顆粒を使ってみたら、胡椒の爽やかな刺激が味覚をぐんと拡げてくれた。 ヨーロッパは肉が全く美味しくなかった。 アメリカとカナダも肉は硬すぎて噛めない。 日本の肉が柔らかくて一番おいしい。 6月3日(月) ☆晴れ。 午後からは雲が出て来る。 ☆午前は不在中の新聞の目通し。 ☆午後にO内科へ血圧の定期健診。 ところが思わぬ事態になった。 6月から国の定める「診療報酬」が変わり、再診料が変わった。 高血圧症で通院している私のような患者は、診察時にかかる「特定疾患療養管理料」に替わって「生活習慣病管理料」が算定されようになった。 それで診察が煩雑になり、血圧の測定は看護婦が行うことになったという。 O医師の診察の前に看護婦が血圧を測定したが、その看護婦が驚きの声を挙げた。 私の血圧が異常に低いのだという。 看護婦は私の手首に触れただけで異常を感じたという。 O医師も看護婦の驚きを耳にされて、ご自分でも血圧を測定されたが、やはり上が84、下が58という低さだった。 ふらついたりされませんか?と問われるが、いたって健康である。 なぜこんなに低血圧なのか、心電図で原因を探ってみましょうということで心電図を取る。 私は不整脈があり、心電図は乱れるのだが、今日はいつもとは異なって脈の乱れが激しい。 ☆結果的に今回は血圧の薬は出らず、心臓の薬が出た。 治療名は「心室性期外収縮」である。 期外収縮とは不整脈のこと。 ☆そういえば自覚はないが、昨日の脚立からの落下、宮崎空港駅でのエスカレーターからの落下の原因はこういう事だったのだろうか。 自覚はないが、実際の私はかなりふらついているのかもしれない。 ☆暮れて涼しくなって、庭の除草作業の続き。 6月2日(日) ☆晴れ。 さわやかな気候。 ☆午前は旅行関係の片づけと、不在中の新聞チェック。 ☆今年の空港展カタログの海外作家分の校正依頼が事務局から届いていたので、午後から作業を始める。 しかし午後になって強烈な時差ボケに襲われて、カタログの小さな英文字が読めない。 それでちょっと午睡をしようと思ったら、きつくて起きれなくなってしまった。 結局夕刻まで寝てしまう。 ☆校正作業はほとんど私のワードへの打ち込みミスと、作家自身の表記の不統一。 私は旅行中に海外作家からのデータを受け取り、それをワードに打ち直して原稿を作成していたが、細かなことまで目を通してチェックする時間がなかった。 印刷所の編集はとても丁寧に細部まで表記の統一を心がけてあり、頭が下がる。 ☆午前に妻の依頼でリビング東窓のシェードを取り付ける作業中に、バランスを崩して脚立ごとひっくり返ってしまった。 幸い、地面は砂利だったので足の打撲傷で済んだが、昨年から転んで足を傷つけることが多くなってきた。 よくお年寄りが台風接近で屋根に上がって対策しているうちに屋根から落下するという事故があるが、それが私に身に起きてもおかしくないことを実感する。 妻からも”あなたは立派な高齢者なんだから”と注意される。 やはり足元が弱くなってきている。 今回の2か月の旅行期間中、よくも毎日歩き続けたものだ。 6月1日(土) ☆晴れ。 日陰は肌寒く、気持ちの好い気候。 ☆5時半には目が覚め、6時には起きる。 頭はまだ寝むたがっているが、ヨーロッパではすでに午後に入るので、体が起きてしまう。 ☆留守中の我が家の住まいで気になっていたことは庭の草ぼうぼう状態と、2階ベランダでの鳩の巣作りであった。 ところが夜が明けて来ても一向に鳩の鳴き声がしない。 私たちが旅行で旅立つ前に、例年のように若い鳩の新婚カップルが巣作りに日参していた。 その状態で家を留守にしたので、てっきり寝室のベランダと子供部屋のベランダは鳩の巣になってしまっていると覚悟していた。 ところが午前のうちに確認すると、まったく鳩が巣を作った形跡がない。 子供部屋のベランダは私が巣作りを邪魔したときのまま、ベランダに木の枝が散らかったままである。 まるで家主のいない家には巣を作る意味がないと、巣作りを放棄したかのようである。 ☆午前は、伸び放題の庭の除草作業。 雨が多かったせいか土が柔らかく、大きな雑草は簡単に抜けた。 ☆午後に、2か月間の新聞を保管してもらっていた新聞販売所に新聞を受け取りに行く。 その足で散髪に。 私を見るなり、理髪店の夫妻は私の激やせぶりに仰天。 ご主人はいつも私のフェイスブックを見ているので状況は分かっていたが、奥さんのほうはてっきり私が病で入院していたのかと思われたそうだ。 伸び放題の髪を切り落としたら、いよいよ顔が小さくなってしまった。 ☆理髪店を出て、そのままイデオンへ。 画面が黒く落ちてしまっていたパソコンを修理に出していたので、取りに行く。 やはり原因は液晶画面へ接続するコードの不具合で、コードを取り替えて戻ってきていた。 保証期間内だったので、修理費用は無料だった。 それで今日からこの日記の更新作業を修理の終わったLIFEBOOKに切り替えようと思ったが、修理に出した後に旅行に持って行ったレッツノートに新しいホームページの バージョンをインストールしていたので、その切り替えができない。 LIFEBOOKに新しいホームページバージョンをインストールする方法が分からなくて、今夜のところはまだレッツノートでの作業である。 5月31日(金) ☆ほぼ定刻の午前6時前に中国・広州空港着。 ☆広州空港での乗り継ぎ待ち時間にeSIMをドコモに切り替えたスマホをチェックしたら、アパートメントの連絡がいくつかSMSで届いていた。 ここにアパート運営の重大な欠陥がある。 今や海外旅行へ行けばその国で通信できるSIMに切り替えるのが常識である。 ところがブッキングコムで予約した場合、私の電話連絡先は私の携帯番号しかないので、携帯番号を連絡先で登録する。 しかし私の携帯番号はドコモなので、海外滞在中にドコモから海外SIMに切り替えてある間は、いくら私の携帯電話にアパートの鍵や部屋情報を送ってもらっても 私のスマホでは開けないのである。 私が海外通信用のSIMを使う場合、こうしたアパートメントからの情報を受け取るにはヨーロッパで使える別の携帯番号を持つことが不可欠となる。 SIM会社によっては滞在先で使える新しい携帯番号を登録できるサービスもあるが、実際にアパートメントを使ってみないとこうした別な携帯番号の必要性は 事前には分からない。 だがアパートメントの情報交換以外にも、タクシーの手配、アパートメントオーナーとの連絡で携帯電話を使わなければならない場面がいくつもあった。 ☆広州空港で同じ中国南方航空羽田行きに乗り換えて、午前9時05分発。 羽田空港にはほぼ定刻の14時20分着。 東京は心配した台風の影響はなく、雲空であった。 ☆到着ターミナルで国内線のチェックインが出来たので、チェックインを済ませスーツケースを預けて国内線発着の第2ターミナルへ移動。 ☆国内線搭乗口での待ち合わせ時間にパソコンのメールをチェックする。 ☆17時45分発のANAで羽田空港を発ち、ほぼ定刻の19時30分に宮崎空港着。 宮崎は小雨模様。 ☆21時19分発の特急ひゅうが12号に乗る。 日本に帰ってからは何もトラブルはなく・・・、と思っていた矢先、宮崎空港駅のエスカレーターに乗ったとたん、バランスを崩してスーツケースごとひっくり返って 落下してしまった。 再度エスカレーターに乗ろうとしたらまたも同じ状態で、周囲にいた宮崎空港ビルの関係者もびっくりされていた。 これまで全く同じ荷物の量で、何のためらいもなくスムーズにエスカレーターに乗ってきたので、私自身が一番驚いた。 幸いケガは無かったが、やはりかなり足元に疲労が来ているのかも知れない。 ☆高鍋駅に20時53分着。 高鍋に着いた時には雨は止んでいた。 2か月ぶりの高鍋町は高鍋駅での私の”MOON DANCE”が温かく迎え入れてくれた。 幸いタクシーが待機してくれていたのでスムーズに自宅へ帰る。 ☆2か月ぶりの自宅は、想定していた荒れ放題の庭の様子以外は、まったく普通の状態であった。 日本はずっと長雨が続いていたようなので、家の中がかび臭いかなと思ったが、まったくいつもの快い空間だった。 覚悟していた蒸し暑さも全くなかった。 夕食の買い出しに出かけて、山のように届いていた不在中の郵便物を整理しながら、夕食を摂る。 ☆やはりゆったりと浴槽に身を沈めることのできる日本のお風呂の習慣がありがたい。 体重を図ると、最近のベスト体重より5kg近く体重が減っていた。 食事がほとんど朝夕の2食状態だったし、毎日とにかく歩いたので、健康的な体重減だろう。 5月30日(木) ☆いよいよ日本へ帰国。 午前7時にホテルで軽く朝食を摂る。 天候は曇り。 じきに雨になる。 ☆7時半にホテルマネージャーが手配してくれていたタクシー(タクシーランプが無かったので闇の個人タクシーか)に乗る。 ところがここでトラブル発生。 私たちはオペラ座からシャルル・ド・ゴール空港行のロワシーバスに乗るつもりだった。 しかしタクシー運転手は何番ターミナルですか?と問うので、バス停留所へ向かうように伝えると、しばらくして車を止めて携帯電話をかけ始めた。 電話で何やら話していたが、その電話を私に渡されたので出てみると、ホテルのマネージャーだった。 彼は幾分怒っていた。 あなたは私に空港へ行くと言ったではないか、私はそのつもりで友人に車の手配を頼んだのだ! 状況を察した妻も、それなら直接空港へ向かおうかと言う。 マネージャーに聞くと、タクシー代も残りのユーロ紙幣で賄える金額だったし、空港まで30分程度だという。 実は、私は空港の出発時間を13時とスケジュールに記載していたのだが、昨夜にチケットを確認したら12時25分発だった。 それにバスは交通渋滞に巻き込まれることが多いというネットの情報に接して、チェックイン開始時刻の9時25分までにチェックインカウンターへたどり着けるか とても不安でいたのだ。 それでタクシー運転手にこのまま空港へ向かうように指示する。 ☆やはりそれで正解だった。 空港へ着いて、搭乗予定の中国南方航空のチェックインカウンターが電光表示板に表示されてすぐにカウンターへ向かうと、すでにチェックイン開始前から 長蛇の列であった。 これが予定通りにバスを使っていたら、最後尾に延々と並ばなければならなかっただろう。 ☆チェックインを待つ列で、びっくりする発見。 列の中に、我が家の長男と瓜二つの青年(中国人青年)がいる。 顔の作りのみならず、体形、所作すべてが全く我が家の長男そのものなのだ。 妻に伝えると妻もびっくり。 あまりにもそっくりなのだ。 搭乗ゲートに入って、一人で座っているその青年の斜め前に座って、それとなく青年の姿をスマホで撮り、長男に画像を送る。 長男からはすぐさま”俺じゃないw”と返信。 ☆中国南方航空便で12時25分にシャルル・ド・ゴール空港を発つ。 私はいつもは通路側席に座席指定するのだが、今日は妻と二人だったので座席の指定をするタイミングがなく、早々とチケットを発券されてしまった。 案の定、乗り込んでみると、私の席は最悪の窓際だった。 しかしそこにはすでに中国人の若い女性が座っている。 私は、彼女は窓際に座りたかったのだ、とこれ幸いと解釈して通路席に座った。 ところがしばらくして別な若い中国人女性がやってきて、そこは私の席です、という。 結局、窓際にいた女性は列を間違っていて、やはり私は窓際の席になった。 トイレの近い私は窓際の席は監獄みたいで、可能な限り避けたい。 そこへ前の席の屈強なフランス人男性が、席に着くやいきなり座席を最大限に倒してきて、いくら押し返してもびくともしない。 おまけに再び胃が痛くなってきて、私はほとんど監獄状態である。 5月29日(水) ☆一日、雨。 ☆今日は今回2度目のサクレクール寺院周辺で半日過ごす。 昨日に小雨の中でホテルを探している途中に、妻が路地の向こうにサクレクレール寺院が見える、と言っていた。 私たちのホテルはサクレクール聖堂から近いモンマルトルにあるようだ。 ☆ホテルで朝食を摂り、ホテルのマネージャに教えてもらってホテルからまっすぐ歩くと、サクレクールへ上る階段に突き当たった。 ホテル周辺のアフリカ黒人街は慣れてくると独特な匂いで、若いころのインド旅行を思い出した。 案外、こういう界隈が旅人にはかなり面白い。 ☆モンマルトルの丘で、妻は最初にベレー帽を買う。 妻は中学校時代の夢がモンマルトルへ行くことだったそうだ。 ☆最初にテルトル広場近くのモンマルトル美術館へ行く。 ここはかつてルノワールのアトリエがあった邸宅に、モンマルトルゆかりの芸術家の作品や資料が展示されている。 またここに住んでいたユトリロと母親のヴァラドンのアトリエが復元されている。 ☆お昼は今回の旅の初めにランチを摂ったテルトル広場のカフェで、同じメニューのペンネに加え、サラダとムール貝を注文する。 どれも美味しくて、ヴォリュームもあったが、今回の旅の最後の食事としてお腹いっぱい食べる。 ☆食後は、おなじくテルトル広場の裏側のダリ美術館へ。 思っていた以上に非常に充実した作品ばかりで脳天をぶち抜かれる衝撃だった。 ほとんどの作品は初めて見るものばかりだった。 天才ダリの世界のすさまじさを充分に突きつけられた。 この美術館はギャラリーでもあり、作品は販売されていた。 ☆ダリ美術館を出ようとしたら、私の折り畳み傘が消えていた。 多分、来場者が間違えてしまったのだろうが、私の折り畳み傘はとても軽くて高価なお気に入りのものだったので愕然となった。 今日こそ何もアクシデントはないだろうと思っていたのに、がっかりだが、お土産物店に傘はたくさん売っているのでパリお土産と思って買う。 ☆そのままホテルへ帰ってきてゆっくりする。 今夜は持ち帰らなくても良いものを整理して荷造りする。 ☆兄妹たちからのラインで、31日は東京は台風の影響がありそうだという。 宮崎へ帰るのは夜なので、なんとか台風の影響から抜けていて欲しい。 5月28日(火) ☆曇り。 パリに近づくに連れ雨となる。 ☆アパートメントで朝食が摂れることになっているが、昨日に点検したときにはパンがなかったので、昨日の観光の帰りにクロワッサンとバナナを買っておいた。 ところが朝食を摂りに共用キッチンに降りると、黒人の青年が一人で朝食を摂っていた。 そしてキッチンを見ると、パンが数種類にバターやはちみつ、フルーツ、ヨーグルトなどがきちんと取り揃えてある。 コーヒーも豆から淹れるコーヒーメーカーである。 私たちはてっきり黒人青年は宿泊客で、賄いの方が早くに朝食の準備をしてくれたのだと思った。 ところが黒人青年が何やら食器洗い機をいじりだして、私たちの食器は食器洗い機には入れないで、流しにそのままにしておいてくださいと言う。 それで状況が分かった。 ☆この黒人青年も昨日の娘さんも学生で、このアパートメントの雑務をアルバイトで受けて働いて居るスタッフなのだ。 このアパートメントは新しく開いたばかりのようで、家の設備等の手入れが真新しく、快適であった。 入り口と部屋の鍵の問題さえなかったら、友人たちにぜひ勧めたい。 朝食を終えて部屋に戻ると、やはり昨日同様に鍵が開かない。 そこへ上の階の宿泊客が降りてきたので、念のために鍵を渡すとスンナリ開けてくれた。 やはりヨーロッパなりの鍵の廻し方があるようだ。 ☆11時前にアパートメントを出る。 ジャンヌ・ダルクの家まで歩いて、トラムに乗って駅へ向かう。 トラムのチケットはスムーズに買えて、駅にもすぐに着いた。 それで当初は12時28分発のパリ行き電車に乗る予定だったのが、11時33分の電車に間に合ったので早めにオレルアンを発った。 電車はパリ直行の普通電車だが快速並みの綺麗な車両で、席も混まずにゆったりで、座席指定も要らず、車掌の改札もユーレイルパスのマイパスを見せてOK。 これで今回のユーレイルパスの使用は今日で無事に終了した。 ☆と、ここまではすこぶる順調に物事が運んだ。 これからパリに戻ってからが何か起きそうで気を抜けない。 ☆パリのAusterlitz駅に12時48分着。 そこから地下鉄に乗って、今日のホテルのあるパリ18区のシャトー・リュージュ駅で降りる。 地下鉄から出ると、外は雨だった。 ☆雨の中、方向もわからず、手にいっぱいの荷物に加えて傘までさすと、まったく身動きできない。 ならばタクシーでと思ったが、タクシー待機所にタクシーは何台も止まっているのに、どこかでお茶でも呑んでいるのか、どのタクシーも運転手がいない。 流しのタクシーにはすべて客が乗っていて止まってくれない。 ☆幸い雨が小降りになってきたので、傘を閉じて歩いてホテルを探す。 色んな人に尋ね尋ね探すが、いくら歩き回ってもまったく場所がつかめない。 それどころか、道端にはスマホを抱えたガラの悪い黒人ばかり。 ☆ようやくホテル近くの界隈まで来たが、店はアフリカの店ばかり、八百屋もタロイモなどアフリカの食料ばかり。 地図を確認しようと少しでも立ち止まれば、すぐに怪しげな男たちに声を掛けられる。 どうやらこの界隈はパリでもっともヤバイ場所みたいである。 とにかくただただ黒人ばかりが街にあふれている。 道理で破格にホテル代が安かった訳だ。 最終的には巡回中の警察官に教えてもらってこのホテルに着いた。 ☆ホテルは1階がレストランをやっているので、出入りも普通なので安心した。 しかし今回の旅の最後の最後に、最も危険な場所に来てしまった。 外出もできるだけ控えよう。 ☆外出は控えようと思ったが、このホテルのレストランはキッチンの職人たちが居なくて飲み物以外はクローズしているという。 仕方なくスーパーへ出かけて、ビールとワインとおつまみを買って来て夕食とする。 意外とどの店もいい人ばかりだった。 5月27日(月) ☆くもり。 午後に一時雨。 のち晴れる。 ☆朝食はホテルで。 11時前にホテルをチェックアウト。 やはりホテルだと色んな面で安心できる。 ☆今日の電車は11時42分発だが、ここ数日はタクシーがなかなか来ないので、ホテルカウンターから11時にタクシーを手配してもらう。 ☆やはりタクシーが来るのには時間がかかったが、それでも今日は余裕をもって駅へ着くことができた。 11時42分のトゥールズ行き普通電車に乗る。 車両の乗客はガラガラ。 約20分で乗り換えのVierzon駅で降りる。 その間に車掌の改札はなし。 ☆乗り継ぎの待ち時間が1時間あったので駅舎で待機して、乗り継ぎのためにホームに出ると寒い! あわててバッグに仕舞っていたセーターを着る。 そしてとうとう天候は冷たい雨になった。 ☆13時07分にVierzon駅を出発。 こちらも乗客はガラガラ。 車掌の改札はあったが、ユーレイルパスのマイパスを見せて、今回も問題なし。 定刻の14時02分にオルレアン駅着。 ☆オルレアン駅は大きな駅だったので、駅前にはちゃんとタクシーが待機していて、無事にタクシーで今夜の宿のアパートメントへスムーズに移動できた。 しかし、順調だったのはそれまでである。 ☆アパートは例のごとく固く扉を閉ざしたままである。 情報では24時間のレセプション対応ということだったが、誰も居ない。 それに暗証番号のキーパッドがあるが、私にはそんな情報は届いていない。 おまけに雨が本格的になって来た。 ☆キーパッドにドアホーンがあったので押してみると、オーナーらしき男性から反応があったので暗証番号を聞いて玄関から入ることはできた。 ところがアパートに入っても誰もいないし、何の指示もないので私たちの部屋はどこなのか、部屋の鍵はどうなっているのかまるっきり分からない。 再びドアホーンで問い合わせると、5分経ったら行くのでしばらく待っていてほしいという。 だが待てど一向に誰も来ない。 ☆しびれを切らして何度かドアホーンでコンタクトを取っているうちに、ようやく若い娘さんが来た。 ☆そこでようやく私たちの部屋の番号は分かったが、入室するのに入り口に張ってあるQRコードを読み込んで携帯電話番号を入力すれば扉は開き、鍵は部屋の 中にあるという。 しかしその操作がややこしすぎて一向に部屋のドアは開かないのである。 そうこうするうちに女の子が操作すると簡単に部屋のドアは開いた。 そして女の子はあっという間に姿を消した。 ☆とりあえず部屋には入れたので、さっそく観光に出かけようとしたが、部屋に忘れ物があったので取りに帰ると、今度は鍵で部屋のノブが回らない。 悪戦苦闘しているうちにふいにノブが回った。 まったくポルトのアパートと同じである。 こちらの鍵によるドアノブの回し方には特殊なルールでもあるのだろうか。 ☆とりあえず一段落して観光に出る。 ここオレルアンは言うまでもなく、オレルアンの少女としてあまりにも有名なジャンヌ・ダルクが、英仏百年戦争末期、イギリス軍に包囲され陥落寸前だったオレルアンを 解放し、フランス軍を奇跡的に勝利に導いた街である。 私はフランスの実在した歴史的人物でジャンヌ・ダルクに最も惹かれる。 今回の旅で、どうしてもゆかりの土地を訪れたかったが、二か月の旅の最終訪問地でようやく訪れることができた。 あいにくの雨だったが、それはジャンヌ・ダルクの涙のように思えた。 そしてじきに天候は回復した。 ☆まず”ジャンヌ・ダルクの家”を訪ねる。 ここはジャンヌ・ダルクの生まれた家ではなく、ジャンヌが1429年4月29日から5月9日まで滞在したオレルアン公の財務官、ジャック・プーシェの家である。 次にマルトロワ広場のジャンヌ・ダルク騎馬像を見て、サント・クロワ大聖堂を観光。 そしてすぐ近くのグロロ邸へ。 ここにはジャンヌ・ダルクのいくつかの肖像画や彫刻がある。 ここのジャンヌ・ダルクブロンズ像が私たちの思うジャンヌ・ダルク像に最も近い気がする。 ☆帰路にまたも東南アジア料理店で夕食を摂る。 5月26日(日) ☆曇り。 午後後半になってブールジュ近くになって晴れてくる。 ☆朝のうちにこの旅最終のパリのホテルの検索と予約。 これで全ての段取りは終わった。 ☆このアパートメントは朝食がホテル並みだった。 部屋数も多いし、室内の状態もほぼホテル並みで、出入りの問題さえなけれな評判の良いアパートメントなのかもしれない。 ☆11時にアパートメントをチェックアウト。 高速電車が13時30分発なので、荷物を預けて1時間ばかり妻と散策をする。 フランスに限らないが、ヨーロッパの日曜日はまったく人の気配がない。 そして今日は花屋の前に長蛇の列ができ、みなさん手に花束を持って歩いている。 何事かと思ったら、5月の最終日曜日はフランスの母の日だという。 やることが徹底している。 ☆12時にアパートメントに戻り、レセプションにブールジェ駅へのタクシーの手配をお願いしてアパートメントを出る。 ところが12時に手配してあったのにいつまでたってもタクシーは来ない。 それでアパートメントの手配してくれたタクシーには見切りをつけて、近くのタクシー待機場所に行く。 しかしいつもは待機しているはずのタクシーがいない。 待合所を見ると、またもタクシー会社の電話番号が書いてある。 えっつ、ここでもタクシーは電話して呼ばなければならないのか。 そこへおばさまグループがやってきて、私たちの分もタクシー会社に手配してくれた。 ☆それで安心していたが、タクシーは一向にやってこない。 このままでは電車に間に合わない。 12時50分近くになって念のため妻がアパートメントに戻ってみると、タクシーが来ているという。 慌ててアパートメントへ戻ると、タクシーの運転手がアパートメントのレセプションとスマホでやり取りをしていた。 ☆それでそのタクシーは私たちが12時に来るように手配してもらったタクシーだと分かり、無事に私たちはブールジェ駅へ向かうことができた。 駅に着くとすぐに高速電車への乗り込みが始まった。 今日こそゆっくり電車に間に合うようにと12時にタクシーを手配したのに、またもギリギリとなってしまった。 ☆高速電車はユーレイルパスのネット予約で座席指定のチケットを買ってあった。 途中で普通電車に乗り換えたが、高速電車には車掌は改札に来なかった。 ☆電車は途中のムーランで普通電車に乗り換えたが、この電車の座席指定はオプションになっていて、予約しなくても乗れる。 つまり予約していた人は座席が確保されるが、予約していない人は空いている席を見つけて座るというものである。 これがなかなか大変だった。 空いている席に座っていると、次の駅で乗ってきた人が、そこは私の席ですと主張するが、頑として席を譲らない人もいる。 私も前半はずっと立っていた。 そしてこの普通電車も車掌の改札はなかった。 ☆ほぼ定刻の16時にブールジェ駅に着く。 ホテルへ向かうタクシーを拾おうと駅前のタクシー待機場所に行くと、またもタクシー会社の電話番号。 仕方なくスマホでタクシー会社に電話すると、やはり国際電話になってしまい、スマホの向こうからはガイダンスが流れるばかりでタクシーは呼べなかった。 万事休すと思っていたら、私たちの前にタクシーを呼んでいた青年のタクシーがやってきたので、タクシーの運転手に私たちのタクシーの手配もお願いする。 ところがすぐに別の流しのタクシーが待機所にやってきたので、そのタクシーに乗せてもらった。 昨日今日と、タクシーの手配で間一髪のアクシデントばかりだ。 ☆今日のホテルは系列ホテルのibisだったので、アパートメントのようなトラブルはなく、安心であった。 ☆部屋に荷物を運んですぐに観光に出る。 このブルージュという街も、私は名前さえも聞いたこともなかった。 妻が丹念に調べて、芸術と文化の町だということで、立ち寄りたかったということ。 とても落ち着いた雰囲気の街である。 特にサンテティエンヌ大聖堂は、シャルトルの大聖堂と並ぶゴシックの代表的建築だということで、まず大聖堂に向かう。 もうカテドラルは見飽きているが、やはり中にはいると息を呑む。 何といってもこの大聖堂は、多くのゴシックの大聖堂と異なり、身廊と交差する翼廊が無く、壮大な空間の広がりが生まれている。 またステンドグラスも色鮮やかで、ほとんどが13世紀のオリジナルだという。 この大聖堂も”芸術新潮”で何度も見たものだった。 大聖堂の裏手のブルボヌー通りには、木骨組みの中世そのままの家が400軒以上も残っている。 ☆夕食はそのブルボヌー通りの中の中華料理店で摂る。 どうもフランス料理の肉が美味しいと思えなくなっていて、中華料理のほうがとても美味しくて元気も出る。 5月25日(土) ☆ボルドーは夜中に雨が降ったようだ。 日中はずっと曇りか雨模様。 午後にクレルモン・フェランに近づくにつれ雲が切てくる。 ☆昨夜、夕食から帰った時も、今朝宿を出ると行きも、宿に入る方法がわからず、外に佇んでいる人がいた。 こんなことでアパートメント運営がうまくいっているのだろうか。 ☆午前9時に宿のレセプションに手配してもらったタクシーでバス停留所へ。 今日も一日、バスでの移動である。 ところがタクシー運転手はどんどん市内を抜けて郊外へ向かっていく。 そして何やら停留所の住所に番地がないから・・・、と言いながら”問題ない、問題ない”とつぶやき始めた。 問題が生じているからこそ”問題ない”とつぶやくだ。 私たちは当然バスターミナルからの出発だと思っていたので、番地がないと場所が分からないというのが理解できない。 そして普通のバス停留所に着いてオロオロし始めた。 私たちももうバスの出発時刻寸前になっているので気が気ではない。 だが住所はそこで間違いないのだと言い、停留所にいた旅客に確認してその停留所がクレルモン・フェランへ行くバスの停留所に間違いないと分かった。 今日も間一髪のやれやれである。 ☆バスは昨日とは別の会社であったが、行き先は同じくリオン行きだった。 無事にバスに乗車し、9時40分あたりに出発。。 今日はトイレ休憩もランチ休憩もあった。 ☆予定より20分遅れて、3時10分あたりにクレルモン・フェランのバスターミナルに到着。 しかしどこにもタクシーは止まっていない。 ロンダ駅のようにタクシー会社の電話番号が書かれた看板があるだけ。 またタクシー会社に電話しなければならないのか。 丁度バスを降りた広場で出店が出ていたので、オーナーに聞くと、あなたがタクシー会社に電話したら、私が代わって場所を説明するという。 ところがオーナーが私のスマホでかけたタクシー会社には国際電話での通話になってしまった。 eSIMの30分無料通話サービスはもう通話が30分に達してしまったのだろうか。 すぐにタクシーは来て、無事に今日のアパートメントへ着いた。 ☆しかし今日のアパートメントも24時間のレセプション対応という情報だったのに、入り口には何もない。 またか! ドアホーンがあったので押してみるが何の反応もない。 そこへ宿泊客が帰ってきて磁気カードでドアを開けてくれたので、聞くと、レセプションは上のフロアーだと言う。 アパートメントへ入り、レセプションへ上がるとちゃんとレセプションが対応してくれた。 無事に磁気カードで部屋に入れたが、あの時宿泊客が帰ってこなかったら私たちはアパートメントに入れなかった。 ☆部屋に荷物を収めると、すぐに観光に出る。 ところが玄関ドアーの開け方が分からない。 私たちが悪戦苦闘していると、パトロール中の警察官がボタンがあるはずだからそれを押せとジェスチャーで指示する。 妻がそれらしきボタンを見つけて無事にドアが開いた。 アパートメントを出るのに警察官のお世話になるなんて。 つまりは、アパートは常にそういうトラブルが起きているということだ。 ☆私たちがこのクレルモン・フェランに立ち寄ったのは、パリへ戻る道筋のなかで、中継ぎの街で妻が面白そうだと思って選んだ。 この街の教会がこの地方の黒い火山岩で造られていて、”黒い町”として有名で、どういう町なのかを見たかったということ。 それで黒い教会のノートルダム大聖堂を観に行く。 アパートメントは観光地のただなかになって大変便利なところであった。 またクレルモン・フェランはパスカルの生地で、ノートルダム大聖堂の裏通りに”パスカルの路”があった。 街を歩いていると、昨日のボルドーに引き続き、古いものを大切にしてその中に最新鋭のファッションを取り組んでいく素晴らしいセンスに圧倒された。 こういう街の景観を大切にしている街にはゴミ一つ落ちていない。 守ってゆく古い街並みと最新のものを違和感なく調和していく街づくり。 日本の街づくりとまったく発想が違う。 ☆ひとまずアパートメントへ帰ると、またも入り口で佇んでいる人。 仲間が買い物に行っていてアパートに入れないようだった。 ☆夕食は近くのホテルのレストランで。 この地方のメニューを頼んだが、やはり日本の料理が一番美味しいと感じる。 5月24日(金) ☆晴れ。 ☆今日から再びフランスへ入る。 帰国前の最後の数日である。 ☆今日はバスでボルドーへ向かう。 バスが10時15分発だったので9時半に宿をチェックアウトして、近くのタクシー待機場所に向かう。 スペインでは街によっては流しのタクシーは捕まらず、タクシーは所定の待機場所でないと乗れない。 ところが今朝は待機場所にタクシーが1台もおらず、それどころかその通りには車一台通らない。 交差点で警察官が交通規制をしているらしい。 それでとりあえず駅まで行ってみることにした。 ところが駅のタクシー待機所にもタクシーはいない。 ようやく流しのタクシーが止まってくれて、乗り込む。 どうやら所定以外の場所で客を乗せるのは違反らしい。 ☆バスターミナルへ着いて電光掲示板を見ても、どこにも10時15分発のバスはない。 それでバス会社のカウンターで聞いてみるが、分からないのでインフォメーションに行ってくれという。 インフォメーションに行くと、改札を抜けて下の階へ行けという。 バスにも改札があった。 ところが改札の読み取り機が私のQRコードにエラーを出し、駅員が駅員のパスで通してくれた。 ☆下に降りるとそこはもうバス乗り場だった。 妻が電光掲示板に10時15分発のリオン行きバスを見つけて、その搭乗口に行くと、確かにチケットと同じバス番号だった。 バスはボルドー直行ではなく、リオン行きだったのだ。 私はずっと交渉でバタバタしてトイレにも行けなかったので、搭乗手続きは妻に任せてトイレに行く。 そしてトイレから帰ってバスに乗ったとたんにバスは発車した。 ☆バスはしばらく走って、ガソリン補給の時にトイレ休憩があったきり、途中は停留所で停車するだけでトイレ休憩もランチ休憩もなかった。 ボルドーには定刻よりかなり遅れて、16時半ごろに到着。 到着場所は列車のボルドー駅のとなり。 ☆そこで流しのタクシーを拾おうと思ったら、止まってくれたタクシーが、駅の正面に廻ってそこのタクシー乗り場で乗らないと違反になるという。 それからが大変だった。 駅の正面へ廻ると言っても駅を廻るというのは大変な距離である。 しかもタクシー乗り場という場所もわからず、妻とああだこうだと口論になり、私もへとへとに疲れてしまった。 ようやく駅前のタクシー乗り場でタクシーに乗ることができた。 ☆そしてさらに大問題である。 宿には着いたが、アパートメントの扉は閉じたまま。 情報では24時間待機のレセプションがいるということだったし、キーパッドの暗証番号を知らせるというメールなど受け取っていない。 途方にくれていると、扉に何やら張り紙があって、近くの別なホテルのレセプションへ行くようにという案内。 その別のホテルのレセプションへ行くと、確かにチェクインはそこでできたが、宿はやはり先ほどの宿で、色んな種類の鍵を受け取って、ようやく宿の部屋に入れた。 ☆アパートメントは観光地のど真ん中で、オペラ座の前にあって観光には極めて便利な場所にあった。 無事に宿へ落ち着いて、近くに観光インフォメーションがあったのでミニトレインのチケットを購入し、5時15分発のミニトレインに乗って市内観光をする。 ボルドーという街はワインの産地ということしか知らなかったが、街はとても徹底した都市計画で形成された極めて美しい街であった。 街全体が世界遺産に指定されているようだ。 したがってミニトレインの観光は、とても興味深い情景の連続で、興奮しっぱなしであった。 ☆ミニトレインを降りて、再び観光地のガロンヌ川沿いに戻り、カフェでビールとワインを摂る。 今日はバスのランチ休憩がなかったので、夕刻の酒が朝食後に口にした初めての食事であった。 5月23日(木) ☆晴れ。 午後後半からは冷え込む。 ☆この2か月に及ぶヨーロッパ周遊旅行も、いよいよ残すところ1週間となった。 今のところ大きなトラブルもなく、無事に帰国を迎えそうである。 ☆午前は残りの日程の宿と交通機関の検索と予約。 しかしまだ旅程が確定的でないところもあるので作業は途中まで。 ☆10時過ぎて、タクシーでグッゲンハイム美術館へ。 このビルバオという街はスペイン北部屈指の港湾都市で、かつては鉄鋼・造船の街として栄えた。 だが20世紀には重工業の衰退とともに深刻な不況に陥り、その打開策としてのアートによる都市再生プロジェクトによって甦った。 その象徴がグッゲンハイム美術館である。 ☆美術館に入ると、1階の大展示室にリチャード・セラの巨大コールテン鋼の作品が! こんなもの、どうやって美術館に入れたのだろう。 余りにも大きくて、幾層にもなった作品の中を歩いていると、かなりの距離を彷徨っている気がする。 実際、何度も妻と私は行きはぐれてしまった。 ☆3階では草間彌生の締め切ったミラー空間での作品展示が行われていて、一度に4人までしか入れなかった。 ☆屋外のルイーズ・ブルジョアの巨大鉄蜘蛛”ママン”は、東京の六本木ヒルズで観て居る。 ☆妻がガイドブックを読んで、グッゲンハイム美術館には、ミシュランの3つ星シェフがプロデュースする人気レストランがあり、美味しいバスク料理が手ごろな値段で 食べれるというので、入ってみた。 ところが一品30ユーロ超のメニューを一人2皿は注文しなければならないというので、私たちはびっくり。 しかも出てきた料理は一皿の量がほんのわずかなヴォリュームで、しかも信じられないくらいにまずい。 完全な詐欺である。 美術館そのものには感激していたのに、レストランのひどさには激しい怒りしか湧かなかった。 ☆グッゲンハイム美術館を出て、美術館の前のツーリストインフォメーションで、明日乗車するバスのターミナルの場所を教えてもらう。 そのあと、近くのビルバオ美術館へ。 入場料は無料だったが、作品が古典的なものからゴーギャン、ベーコンとバラバラで、しかも同じ展示室に現代のインスタレーション作品があったり、何かのコンセプト でそうしているのだろうが、ほとんど支離滅裂状態で、まったく面白くも無かった。 ☆早めに宿へ帰り、朝のうちに出来なかった残りの旅程の宿と交通機関の検索と予約をする。 ☆夕食は、グッゲンハイム美術館のレストランの恨みがあるので、昨日と同じ中華料理店で摂る。 考えようによっては、周囲にレストランがなかったことで、一生食べることもなかった美味しい中華料理に巡り合ったとも言える。 5月22日(水) ☆午前は雲の多い天候。 ☆宿の朝食が外部委託のレストランなので、レセプションに教えてもらった場所を探すが一向に見つからない。 宿に帰って確認しようにも、まだレセプションは出勤していない。 業務で宿に来ていた業者に聞いてみたり、あちこち探し回って諦めかけたところにやっと目的のホテルが見つかった。 だがそのホテルのどこに朝食を摂る場所があるのか分からず、隣のカフェらしきところを覗いていたりしたら、突然、”TANAKAさん!こちらです!”と女性に 声を掛けられた。 その女性はレセプション担当の若い女性ではない。 妻の話だと同じ宿の客だという。 しかし私は彼女と会話したことはないし、なぜ彼女が私の名前を知っていてとても親しげに語りかけてくれたのが不思議で仕様がない。 昨年10月のポルティマオンのシンポジウム中に、ホテルでいきなり男性から”田中さん!”と声を掛けられてびっくりしたこともあった。 ただその男性はスペインの作家アルベルトで、昨年のうちぬきプロジェクト招待作家だったからその理由は合点したのだが、今回は全くのミステリーである。 ☆チェックアウトの時間まで、これから先の交通機関と宿の手配。 列車をユーレイルパスで使うと、座席予約の手数料だけでOmioでバスチケットを購入した時よりも倍の費用になることが判明。 この地方ではユーレイルパスは不便だと分かった。 ☆宿をチェックアウトして、バスでサラマンカ駅へ。 こちらのバスは車椅子や高齢者のキャリーに配慮してあって、乗り降りがノンステップだし、車内もとても広い。 私たちもスーツケースなどの大きな荷物を簡単に持ち込める。 ☆12時28分のバルセロナ行きの高速電車に乗る。 指定席だが、乗客はまばらである。 ☆定刻より15分ほど遅れて、16時過ぎに乗り継ぎ駅のミランダ・デ・エヴロ駅に到着。 ミランダ・デ・エヴロ駅で今日の目的地のビルバオ行きに乗る。 乗客はさらにまばらで、一車両に5,6人しか乗っていない。 それでも座席指定なのである。 ☆ミランダ・デ・エヴロ駅を16時25分に発つ。 空模様は次第に曇天となり、山越えをするあたりから雨になった。 街へ下りれば天候は回復しているかと期待したが、20分ほど遅れて18時35分あたりにビルバオに着いた時も、雨は本降りのままだった。 ☆今夜の宿の情報から、宿は駅のすぐ近くなので歩いていくつもりだったが、雨が本降りなのでタクシーに乗る。 ところが実際は駅と宿とはかなり離れていて、タクシーを使って正解だった。 ☆宿はやはりアパートメントだったが、昨日の宿同様にレセプションの女性が居て、鍵も磁気カードで、玄関ドアも部屋も磁気カードのワンタッチで開けて助かった。 ☆宿の部屋はまずまずで、冷蔵庫やコーヒーポットもあった。 すぐに宿を出て、明日の朝食の食材を買う。 周りはスーパーだらけで、すぐに必要な食材の買い物が済んで、いったん買い物したものを部屋にキープして夕食に出る。 ☆宿のレセプションに、近くで美味しいレストランの名前を教えてもらい、その方向へ向かうが今朝の朝食会場同様、全く見つからない。 見つからないどころか、いくら歩き回っても周辺にあるのはバーばかりでレストランが1軒もない。 ここビルバオに苦労して旅程を組みなおしたりしてやってきたのは、バスク料理を味わうためだった。 妻は列車のなかでずっとガイドブックのバスク料理の項を何度も熟読していた。 ところが宿の周囲には1件のレストランもないのだ。 今日は朝食以外何も口にしていないので、究極の空腹状態である。 ☆結局、仕方なく宿の近くの中華料理店に入る。 バスク地方で中華料理店なんて話にならない。 最初に出てきたワンタンスープは、海苔の味が強すぎてワンタンのうま味が全くない。 バスク地方でこんなひどい味の中華料理を出すなんてケシカラン!と憤る。 次に出てきたエビシュウマイはまあ合格点だった。 ところが妻の注文で3番目に出てきたレンコンとエビ、カニ、唐辛子と豆板醤と様々な香辛料の炒めものが、びっくりする美味さ! 辛いけれど、食べ進むほどに美味しくなる。 こんな美味しいもの、食べたことがない。 すっかり病みつきになってしまう美味さである。 何といっても、食べた後の食後感もたまらなく好い。 生きているうちにもう一度食べたい! 5月21日(火) ☆6時に起床。 朝のうちに、明日の宿の手配。 ☆荷造りの準備をしていると、窓外に激しい物音。 雨?と思ってカーテンを引くと、もの凄い土砂降り。 これからスーツケースを引いて、流しのタクシーを拾わなければならないのに。 ☆しかし8時過ぎに宿をチェックアウトする頃には雨は小降りとなり、小ぬか雨の状態の中でサン・ベント駅から上がってくる流しのタクシーを待つと、タクシーは すぐにやってきた。 ほとんど濡れることもなく、カンパニャン駅隣のバスセンターへ向かうことができた。 運転手のお兄さんもとても気立ての好い背年であった。 ポルトガルの人は最後まで親切な好い人ばかりだった。 ☆9時発のマドリッド行きの国際バスに乗る。 道中はずっと雨だった。 ☆ポルトガルを抜け、スペインに入るころから雲が切れてくる。 再びスペインに入り、予定より30分ほど遅れて16時30分にサラマンカに着く。 スペインはポルトガルと時差が1時間違う。 バスターミナルからはタクシーでホテルへ向かう。 ☆ホテルは昨日の手続きがとても面倒だったが、着いてみるとちゃんと24時間体制のレセプションが居て、実にスムーズにチェックインは済んだ。 部屋の鍵は普通のホテルと同様の磁気カードで、何事も問題ない。 部屋も広々としている。 ☆一段落して、観光に出るが、その前にまずサラマンカ駅へ向かう。 明日のサラマンカービルドー行きの高速電車がユーレイルパスのネット予約が出来なかったので、窓口で予約するためである。 ところが窓口の担当者は私のユーレイルパスのQRコードのこともマイパスのことにも言及せず、スムーズに手数料だけのチケットを発券してくれた。 これで一安心である。 ☆サラマンカ駅からは、バスに乗ってホテル近くのバス停で降り、観光の拠点のマヨール広場へ向かう。 実は私はサラマンカのことは今日まで全く何も知らなかった。 バスク地方へ向かう旅程で、どうしても列車やバスの連結がうまくいかず、急遽数日前に中継地点として組み込んだものである。 ところが訪れてみると、とても大きな街で、見るべきものも多く、衝撃的な街だった。 ☆それもそのはずである。 古代ローマ人によって築かれ、「銀の道」の中継地点として栄えた歴史のある街であり、1218年には大学が創設され、ボローニャ、パリ、オックスフォードと並ぶ ヨーロッパ有数の大学都市として発展してきた街である。 かのコロンブスもサラマンカの大学で航海に必要な天文学を学んでいる。 街中全部が世界遺産とも言われる。 街中に至る所に書店があり、歴史的遺構の建物が公立図書館になっている。 雑貨屋にはビーカーなどの医学備品が売っている。 ☆夕刻にいったんホテルへ帰ろうとして、全く道が分からなくなってしまった。 妻とあっちだこっちだと言い争いながら、やっとスマホのナビで帰り着いた。 帰り着いてみると、マヨール広場のすぐ裏だった。 ☆夕食はマヨール広場に面したレストランで、サラマンカの郷土料理、イベリコ豚の煮込みを食べる。 味は普通。 それより、やはり有名な産地であるという赤ワインが飛び切り旨かった。 5月20日(月) ☆晴れ。 日中は陽射しが強く20度以上になるが、朝夕は冷え込む。 ☆午前は明日からの旅程についての段取り。 明日の朝にはもうポルトガルを出て、スペインのサラマンカに入る。 そのバスのチケットを昨日にOmioで購入したら、当初の予定よりスケジュールが狂ってしまったので、私が間違って明後日の日付でチケットを買ってしまった。 それで予約の日程変更をしようとするが、オンラインではすぐに出来なくて、”待ってください”の案内しか出ない。 今朝になっても同じ状態で、もうキャンセルと変更に手数料がかかるようになってしまった。 それで22日の便をキャンセルして、新たに明日の便で購入しなおす。 ☆このバスの件がはっきりしていなかったので、明日の宿も決めていなかったので、急遽、明日のサラマンカの宿を予約する。 名前がホテルだったので、ホテルだと思っていたら、予約確認のメールを読んだらまたアパートメントだった。 ☆さらに帰国便の座席を指定しようと思ったら、座席指定できるのは有料で、しかしネットでは出来なかった。 ☆昼前に宿を出て、観光に出かける。 まずサン・ベント駅近くの観光インフォーメーションに出かけて、観光マップをもらい、明日のバスの出発ターミナルを確認する。 ガイドブックではスペインへ行くバスはメトロのカーザ・ダ・ムジカ駅に隣接しているターミナルだとあったが、インフォメーションの案内ではカンパニャン駅に 隣接したターミナルで、サン・ベント駅から電車に乗ってカンパニャン駅に向かえば良いとのこと。 そして今日は、例の周遊バスで市内を廻る予定だったので、インフォメーションでチケットを購入。 他の街でもそうであったように、一日何回でも乗り降りできるし、路線の違うバスにも乗り換え自由である。 ☆最初はオレンジラインのバスで、特に歴史的な街並みを巡る。 ポルトはローマ時代にカーレと呼ばれていた州であり、名前の通り港=Portusとしての役割を持っていたので、ポルトゥス・カレーと呼ばれていて、これがポルトガルの 語源となった街である。 1415年にはエンリケス航海王子のもと、ポルトガルを出航した船が北アフリカのセウタを攻略して、大航海時代の先陣を切ることになった。 また街は坂が多く、”7つの丘の街”と呼ばれるリスボンにも劣らない。 ☆オレンジラインを約50分で一周いて昼食を摂り、さらに午後からはブルーラインで、1時間45分の長旅で新しい街並みと海岸沿いを巡る。 ☆バスを降りて、いったん宿へ戻る。 ところが朝に予約したサラマンカのホテルの事前チェックインの案内が届いていたので、チェックインをしようとするとパスポートの画像をパソコンのカメラで撮って 送らなければならない。 以前に何かの手続きで同じようなことをした記憶があるが、パソコンのカメラで撮った画像はパソコンの画面では動きが逆になり、指定の枠内に収まらない。 何度やってもエラーである。 妻は世界で一番美しい本屋へ行きたくてうずうずしている。 結局、画像はパスしてデータでの登録をすると、なんとか部屋の番号等の案内が届いた。 それで世界で一番美しい本屋の営業時間も終わってしまった。 ☆妻の不機嫌を抱えたまま夕食に出る。 遠くへ行く気もせず、昨夜と同じ宿の真ん前のレストランで摂る。 しかし高いばかりでちっとも美味しくなかった。 ☆早めに宿へもどると、同時に同じアパートに宿を取っている数グループと鉢合わせになり、彼らは扉の開け方がわからずうろたえている。 それで私が暗証番号を押してあげたが、何回やっても扉は開かない。 そのうち、後から戻ってきたご婦人が同じ操作をすると、無事に開いた。 他の宿泊人も一様に、実に問題の多いアパートメントだねと目くばせをする。 ところが大きな問題はその後に起きた。 ☆私たちの部屋の扉が全く開かない。 これまでは何度かキーを廻しているうちになんとかドアノブが廻った。 しかし今夜はどうやっても駄目である。 それでオーナーに電話を入れる。 私のeSIMが30分の電話通話サービスが付いているのでこれまで何度も助けられた。 スマホをSIMに切り替えると、ドコモとの契約が切れた状態になるので、スマホでの電話が一切出来なくなるのだ。 (それで、妻のスマホにもeSIMを入れようと思ったが、電話が一切使えなくなるのが分かったのでそのままにしてある) 電話に出たオーナーは、英語があまり喋れないので、大慌てでシドロモドロである。 何とか説得して、すぐに部屋に来て鍵を開けてもらうようにした。 ところがその直後にキーを回すと、なんとドアノブが廻って部屋に入れた。 再びオーナーに電話する。 もうこんなトラブルは金輪際イヤだ。 ☆やらなければならないことは山積しているが、明日はバスの便が早いので6時起きである。 作業をやり残して床に就く。 5月19日(日) ☆晴れ。 ☆宿のチェックアウトの時間まで、この先の旅程の組みなおし。 ポルトガルを出てスペインのバスク地方を巡る旅程がうまくいかない。 列車の連結がなかったり、バスでは移動にまるまる一日かかったり。 ☆とりあえず11時に宿をチェックアウトして、荷物を預けて観光に出る。 いつものようにミニトレインバスで市内一周の観光に出る。 ところがコインブラという街は、昨日に大学のある丘に登った界隈以外には全く何の魅力もない街だった。 どこの街よりもありふれたどうしようもない街並みが続くだけ。 詐欺に遭った感じである。 ☆3時発のポルト行きの電車までもう何も観光することがないので、土産店を物色しながら昼食を摂る。 これまたまずい料理だった。 ☆3時にコインブラ駅から普通電車に乗ってコインブラーB駅へ移動。 コインブラーB駅からは15時47分の高速電車の予定だったが、到着が22分ほど遅れた。 私たちの車両は6号車だったので、普通は6号車は最後尾なのでそのつもりで居たら、なんと最前列であった。 それでまたクエンカの二の舞になって妻とはぐれたら大変と、妻を先に走らせ私は妻のスーツケースも引っ張って長いプラットホームを走る。 先頭の6号車では車掌がニコニコ顔で私の乗り込むのを待っておられた。 ☆目的地のポルト・カンパニャン駅には20分ほど遅れて到着。 市内に入るにはさらにサン・ベント駅に行かなければならないが、チケットはカンパニャン駅までしか買っていなかったので、タクシーで宿へ向かう。 ☆今日の宿もアパートメントである。 アパートメントはトラブルばかりなのでできるだけ避けたいが、ホテルは高くて泊まれない。 アパートの管理人には事前に連絡して、私の到着時に鍵を持ってきて待機してもらうようになっていた。 しかし入り口のドアは固く閉じたままである。 それでドアを激しく叩いていたら、階上から”ドアを叩くな”と苦情を言いながら青年が降りてきた。 私は彼が管理人だろうと思っていたら、全く話がかみ合わない。 結局、彼は全く関係ない2階のオフィスの人間で、事情を話して管理人に電話してもらった。 ☆ほどなくして管理人がやってきて、入り口のドアの暗証番号、エレベーターの暗証番号、部屋の入り口の暗証番号等を伝えて部屋に案内してくれた。 部屋は思ったより広く、キッチンの設備も整っている。 管理人は簡単な説明が終わるとあっという間に居なくなった。 ☆しばらくくつろいで、買い物と夕食に出かけた。 外に出たところ忘れ物に気が付いて部屋に戻ろうとしたら、部屋の鍵が全く使えない。 暗証番号で開けるようにという説明だったが、部屋の暗証キーはプッシュ式ではなくダイヤル式のものである。 したがって番号の後に”#”を押してという指示だが、そもそもダイヤル式には”#”はない。 別のドアのものだと言われて預かった鍵がピッタリ合うのだが、一向にノブは廻らない。 そのうちに不意にノブが回って開いた。 だからアパートメントは嫌なのだ。 必ずトラブルが生じる。 ☆何度か鍵で部屋のドアが開くことを確認して外に出る。 大体、このアパートの位置がどこなのかの確認のため、近辺を歩く。 しかし夕暮れてくると寒風が吹いて、ほぼ真冬の寒さとなった。 スーパーマーケットで明日の朝の食料を調達しなければならないが、スーパーマーケットは1件も見つからず、パンと水だけ買った。 ☆夕食はアパートメント真向いのカフェレストランで摂る。 カフェの前ではストリートミュージシャンがバイオリンを弾いていた。 そのバイオリンの音に合わせてカフェの従業員の女の子が踊りだしたり、とても楽しい雰囲気で食事をする。 ☆部屋に戻ると、やはり鍵が開かない。 何度かやっているうちにやっとドアが開いたが、もうアパートメントはこりごりだ。 5月18日(土) ☆曇り。 気温の冷え込みはなし。 ☆10時半過ぎに宿をチェックアウト。 宿は4泊してもタオルの取り換えもなく、エレベーターがないので2階(日本では3階)までの荷物の持ち上げも大変だった。 しかし出入りのセキュリティーの問題はなかったし、地下鉄がすぐ近くで観光の中心地のロシオ広場までは近距離だった。 観光の拠点としてはとても便利だった。 ☆宿を出て、タクシーでサンタ・アポローニャ駅へ。 本駅のオリエンテ駅までは遠いし、目的地までのコインブラまではサンタ・アポローニャからも出ているのでこちらから出発する。 12時00分にサンタ・アポローニャ駅を出発。 出発してすぐにオリエンテ駅でも多くの人が乗車したが、すでに大きい荷物を置くスペースはなく、サンタ・アポローニャ駅で乗って大正解だった。 ☆車掌の改札にはOmioのアプリを提示。 車掌のスマホには”Hitoshi Tanaka”、”Setsu Tanaka”とすぐに表示されて実に快適。 これがユーレイルパスでもQRコードが表示できれば同じように快適だったのだ。 ☆快速電車の中で、これから先の旅程について調べる。 ポルトガルを出て、スペインのバスク地方に上がってフランスへ戻るのだが、バスク地方の都市間には鉄道の連絡が無く、当然ユーレイルパスの対象外である。 したがってバスク地方での移動は、Omioを使ってのバス移動になる。 Omioはアプリで簡単にチケットが買えて、スマホでチケットが表示できるので大変快適である。 しかしかなり高額なユーレイルパスを購入しているので、Omioでのチケット購入は別料金の発生となり負担が大きくなる。 ☆13時45分にコインブラーBに到着。 いったんそこで降りて、14時09分発のコインブラ行き普通電車に乗って14時13分にコインブラ駅に到着。 ☆宿は駅のすぐ近くだということだったのだが、距離感が分からないのでタクシーに乗ろうとしたら、宿の名前を見た運転手から乗車拒否された。 それもそのはず、宿は目と鼻の先にあった。 ☆今日の宿はレセプションが24時間滞在しているし、エレベーターもあるのでホテルかと思ったら、やはりアパートメントだった。 しかしキッチンも何もない部屋だが、快適な部屋だし、レセプションがいて鍵の問題もない。 ☆部屋に荷物を置いて、すぐにお昼を摂りに出る。 宿のレセプションが教えてくれたすぐ近所のレストランへ入ると、入り口で魚介類と肉類の串焼きを焼いている。 妻が、ポルトガルに来て食べたかったのはこの魚介類の串焼きだ!と叫んで、すぐにメニューは決まった。 私は肉の串焼きを注文。 これが塩味も微妙な調整が効いていて、とても美味しい。 ビールもワインも進む。 スペインとポルトガルは午後2時前後の食事が一日の食事のメインで、みんな大皿でたらふく食べ、みんなワインをがぶがぶ飲む。 ☆食事を摂っていると、どこからか口笛が聞こえてくる。 レコードのBGMかと思ったが、あまり上手ではない。 まるで私の口笛みたいだ。 そのうち妻が、あの魚介と肉の串焼きを焼いているおじさんだ!と言う。 確かに、実に楽しそうに延々と口笛を吹きながら串を焼いている。 それで店を出るときに私も口笛で応じてあげた。 とても愉快だった。 ☆食事の後はそのままコインブラの観光に出る。 コインブラは高校の社会の教科書で習った地名か、覚えがある。 コインブラはポルトガル第3の都市で、丘の上にある大学を中心にした街である。 街中がこれまた急こう配の坂道だらけである。 直前のビールとワインと串焼きが堪える。 ☆とりあえず今日は大学の前の国立マシャード・デ・カストロ美術館へ行く。 今日は国立美術館の日だということで入場無料だった。 こちらの美術館の面白いところはかならず会場に監視員がいて、観客の行き先を案内して監視する。 今日はすぐに地下へ行くように案内された。 地下へ行くと、そこは古い遺跡の中で、カタコンベ(地下墓地)らしい闇深い部屋が連綿と続き、おどろおどろしい効果音が流れている。 丁度、西都原古墳群の公開されている古墳墓室の中にいる雰囲気だった。 こんな驚きの仕掛けの美術館は初めてであった。 中世の宗教彫刻も見ごたえがあった。 ☆閉館前の美術館カフェテラスで市内の景色を眺めながらコーヒーを飲もうとしたら、雨になった。 カフェの中でコーヒーを飲み、閉館した美術館を出るころには雨は上がる。 今日の観光はそれまでにして宿に帰ってきたら、もう7時前であった。 ☆旅を始めて、ほとんど食事は朝夕の2食態勢になってきた。 午後のランチがまだ堪えているので、今夜は買い置きのワインを部屋呑みして夕食はパスする。 5月17日(金) ☆晴れ。 ☆9時過ぎに宿を出て、地下鉄でロシオ駅へ。 窓口の長蛇の列に並んで、ロシオーシントラの列車とシントラの乗り降り自由な周遊バスを組み合わせたパスを購入。 満員の列車でシントラ観光に出かける。 ☆シントラはリスボンから28km、深い緑に覆われた山中に、王宮を中心とした豪奢な城館や別荘が点在する街である。 シントラ駅を降りると、身を切るような寒さ。 ☆周遊バスに乗って、まず”ムーアの城跡”へ。 険しい岩山の稜線沿いに、7〜8世紀にムーア人によって築かれた険しい山城である。 入り口から城跡まで往復30分ほどかかるので、あまり無理をしないようにとガイドブックにはあった。 しかしまるで劇画のなかの世界のような山城はその眺望も素晴らしく、疲れなど全く感じなかった。 来て、上って本当に大満足の城跡だった。 凄いものが世の中にあるものだ。 この難攻不落の山城も、1147年にアフォンソ・エンリケス王によって落城しているが、攻め落とすほうも並大抵での凄さではない。 ☆次に、このムーアの城跡から見上げる山の頂にあるペーナ宮殿へ。 しかしここも例にもれず、スマホでのeチケット優先入場で、当日券を購入するためには延々と並ばねばならない。 しかたなく列に並んだが、私たちの番が来る少し前に、妻がギブアップ。 宮殿の外観もデズニーランドみたいな感じで魅力もなく、観光はパスする。 ☆いったんバスの出発点のシントラ駅に戻り、もう一か所見たかったレガイラ宮殿を廻る別の経路のバスに乗り換える。 このレガイラ宮殿もeチケット優先だったので、スマホでネット購入しようと思ったら当日券はもうなかった。 ここの庭園にある深さ60mほどの螺旋階段というものを見たかったので、我慢して当日券のチケット売り場にならぶ。 しかし庭園はグロテスクな趣味で覆われていて、観光意欲がわかず、見たかった螺旋階段もパスして早々に退出する。 ☆予定では、ユーラシア大陸最西端のロカ岬へ行くつもりであった。 しかしレガイラ宮殿からシントラ駅までのバスの振動が、また私の胃を突き上げて最悪の気分になってきたし、妻もバス酔いしてグロッキー状態になってしまった。 二人ともさらにバスでロカ岬まで激しい振動に揺られて往復する気力はなくなり、ロカ岬はパスしてロシオ駅へ帰る。 今日の観光は”ムーアの城跡”だけで満足であった。 ☆そのまま地下鉄で宿の近くまで帰ってきたが、夜に再び食事に出る気力もなく、宿の近くのインド料理店で焼きそばとモモ(蒸し餃子)とタンドリチキンを摂る。 今日はお昼も完全に一口も摂れなかったので、おいしくいただいた。 5月16日(木) ☆曇り。 夕刻に雨。 ☆今日は体調も回復したので、いつものように乗り降り自由の市内観光バスに乗る。 最初に降りたのはテージョ川沿いにある国立古美術館。 ここにはボッシュの「聖アントウニウスの誘惑」があり、友人の画家・河野富夫君からぜひ訪れるように言われていたのである。 ボッシュも素晴らしかったが、1500年代の絵画が、現代の画家以上に新鮮な写実であるのに驚かされた。 1600年代の変にきらびやかになっていく宮廷画家たちの絵よりもとても新鮮なのである。 そしてどの作品も近年の修復技術による汚れ除去によって、とても500年以上前の絵画とは思えないほどにみずみずしく鮮明であるのに衝撃を受けた。 ☆美術館にはレストランがあり、ジャカランダの咲き誇る川を望む庭園に出て、ランチを摂る。 セルフサービスだったが、とても美味しくて、ビールとワインも進んだ。 ☆次に降りたのは、ジェロニモス修道院。 世界遺産になっている壮大な修道院だが、延々と続く入場者に並びながら、私たちの入場の番になってチケットは別な売り場で購入しておかねばならないことが分かり、 内部の観光は諦める。 道向かいに有名な”発見のモニュメント”があり、そちらへ足を運ぶ。 日本は1541年に「発見された」ことになっているらしいが、それは単にポルトガル船が豊後に漂着した年だということ。 ☆カフェで休憩しているうちに、くもり空が雨になってきた。 本格的な雨になる前に次へ移動しようと思って観光バスのバス停で待つが、一向にバスは来ない。 雨に濡れながら小1時間ほど待ったがバスは来ず、バスは諦めてタクシーでロシオ駅へ向かう。 バスのチケットは1日券を買っていたので、周遊コースの半分も乗れず、詐欺に遭った気分である。 ☆ロシオ駅では、明日のシントラ観光に便利な鉄道とバスを組み合わせたパスを購入しようと思ったが、明日の便は明日しか買えないことが分かった。 ☆今夜は7時からのファドの演奏会をネット予約していたが、もう7時間近になっていたので雨の中を会場を探す。 7時前ギリギリに、色んな人に尋ねながらようやく会場に着いた。 ファドは普通はお店で食事をしながらお酒を飲みながら聞くものなのだが、終わるのが夜中2時過ぎるというので、観光客向けの50分間のショー会場に行く。 やはり観光客向けなので、私の知っている怨念のこもった恨み節は全くなく、あまりにもライトなファドでちっとも面白くもなかった。 ☆ファドが終わると、雨も上がっていた。 5月15日(水) ☆晴れ。 陽射しは強いが気温は冷え込む。 ☆5月も半ばとなり、私たちのヨーロッパ周遊旅行は残り2週間となった。 そしてここにきて体の不調が出てきた。 ☆朝食を摂って洗濯をしたあたりからどうも胃の調子が良くない。 午前の予定は地下鉄に乗って旧市街地の中心であるロッシオ駅に向かい、観光案内所でこれからのスケジュールの資料をもらって観光の予定だった。 だが地下鉄で1日乗り放題のチケットを購入して2つ目の駅のロッシオ駅で降りたあたりから体調が最悪となり、とても身動きできる状態ではなくなった。 観光案内所と近郊のシントラとロカ岬の観光拠点となる電車のロッシオ駅を確認してすぐに、妻をせかせて宿へ引き返す。 ☆体調はフランス・ボーヌの時と同じように激しい下痢と嘔吐感である。 胃薬では収まらず、腹薬を服用してベッドにもぐりこむ。 そのままずっと夕刻まで寝て過ごす。 ☆妻は午後から一人で地下鉄に乗って観光に出た。 ☆結局、今日は午前の地下鉄移動以外は寝て過ごす。 先日のセビーリャの休養日は体の休養にはならなかったので、今日は体ごと休養せよということだったのだろう。 ☆妻が帰ってきてから夕食に出る。 とても夕食の摂れる状況ではなかったが、吐き気はかなり収まっていた。 そこへカフェで焼そばを食べている場面に遭遇し、お店に入る。 インドのゴアがポルトガル領だったせいか、リスボンはインド料理店が多く、インド料理店は同時に中華系の料理も提供している。 その店もインド料理店だったが、中華メニューがあった。 迷わず焼きそばと手羽唐揚げを注文。 ビールを注文したら大ジョッキで出てきた。 結果的にすごく美味しくて、大ジョッキのビールも飲み干してすっかり元気になった。 やはり日本人は東洋料理で身も心も救われる。 5月14日(火) ☆ファーロは快晴。 半袖ではひんやり肌寒いが、空気が澄んでいて気持ちが好い。 ☆朝の7時前に眠い目をこすってファーロ駅へ。 ファーロ駅へはホテルから徒歩数分の距離。 朝のラッシュにかかる前にと、今日のリスボン行きの高速電車の座席指定チケット購入に望む。 ところが昨日とは別の窓口担当者は、QRコードが出せない旨を伝えてマイパスを見せると、すぐにチケットを出してくれた。 いつもは必要なパスポートの提示もなく、あっけなく手続きは終わった。 私がすぐに部屋に戻って来たので、妻はびっくりしていた。 ☆9時前にホテルを出て、チェックアウトの11時までファーロの観光。 主に旧市街を私が妻を案内する。 観光すべき場所はとても狭いので、2時間あれば充分であった。 ☆11時にホテルをチェックアウト。 電車まで時間があるので、ヨットハーバー沿いのカフェでビールを飲みながら時間をつぶす。 ☆14時15分発のリスボン直行高速電車でファーロを立つ。 予定より少し遅れて18時過ぎにリスボン駅着。 ☆駅へ降りると凄く寒くて震え上がる。 スマホでのリスボンの気温は17度。 ☆リスボン駅ではまず次のリスボンーコインブラ、コインブラーポルトの高速電車の座席指定チケットを購入の予定だった。 しかし駅が広すぎて、どこに駅の窓口があるのか分からない。 ようやくそれらしい窓口を見つけたが、妻が寒さに耐えきれなくなっていて、チケット購入は後日に廻す。 ☆タクシーで今日の宿へ向かう。 リスボン駅からは相当に遠い場所に宿はあった。 アパートメントでエレベーターのない宿だが、レセプションが居るのでいつもの鍵の問題は生じなかった。 ☆一段落して、妻と買い物と夕食に出る。 宿の周辺は場末で、携帯とにらめっこしている雰囲気の悪い連中ばかり。 これはとんでもないところに宿を取ったと後悔したが、すぐに大通りに出て、そこはレストランも多い明るい街並みだったので安心する。 夕食を摂って、明日の朝食の食材を買って宿に戻る。 5月13日(月) ☆快晴。 ☆11時過ぎに宿をチェックアウトしバスターミナルへ。 12時発のポルトガル・ポルティマオン行きの国際線バスに乗る。 妻は以前にセビーリャに来ているが、私は初めてであった。 完全休養日としたので、私のセビーリャ体験は咲き乱れるジャカランダの紫の花樹とカフェレストラン、そしてバスターミナルのみである。 ☆到着予定の少し前になって、バスはファーロのバス停に着いた。 私はずっとポルティマオンが国境近くだと思っていたので、なぜポルティマオンに着く前にファーロなのかと訳が分からなかった。 しかし妻が地球の歩き方の地図を見たら、ファーロの方がスペイン寄りだった。 それにファーロとポルティマオンは60kmの距離があるのに、なぜポルティマオンへの到着時間にまだファーロなのかといぶかった。 そこでハタと気づいた。 バスのチケットに時刻は12時発ー13時15分着のなのに、所要時間が4時間15分になっていた理由だ。 つまり、フランス・スペインとポルトガルは1時間の時差があるのだ。 ☆ポルトガル時間3時15分ぴったりにバスはポルティマオンのバスターミナルに着いた。 ターミナルではシンポジウムのオルガナイザー・アルリンドが待っていてくれた。 ☆早速シンポジウムの制作会場だった港へ行く。 昨年10月のシンポジウム以来だから8か月ぶりだ。 作品は制作場所の近くの波止場沿いに設置してあった。 今日は全き快晴で、港は最高に気持ちの好い空間だった。 妻が設置されている作品を見て回っている間に、私は持参したノミで作品にサインを入れる。 作業後に波止場のカフェーで軽くランチ(といってももう5時だったが)を摂る。 それからポルティマオン駅までアルリンドに送ってもらったが、快晴の素晴らしい天候に恵まれ、ビールの酔いで心地よく、そこに音楽好きなアルリンドの車の カーステレオから流れてくるクラシック音楽のなかに身を任せていると、まるで夢の中に居る思いだった。 ☆ところがその先から悪夢が始まる。 ポルティマオン駅では、窓口で明日のファーロ発リスボン行き高速電車の座席指定チケットを購入する予定だった。 ところが窓口の若い女性職員は、ユーレイルパスのQRコードがないと座席指定は出来ないの一点張りであった。 ファーロ行き電車の出発間近だったので、仕方なく座席指定はファーロ駅で手続きすることにして、電車に乗る。 アルリンドからは空港展出品の作品を預かる。 ☆電車の中の車掌改札は、いつものようにマイパス表示でOKだった。 ところがファーロ駅の窓口でリスボン行きの座席指定チケットを購入しようとしたら、ポルティマオン駅と同様にQRコードの表示ができないと座席指定はできない との対応。 これまではマイパスの表示でチケットが買えたし、今乗ってきた電車もマイパス表示でOKだったと伝えるが、一向にゴーサインを出してくれない。 それならユーレイルパスを使わずに運賃を払うので、とお願いしても、イヤそれは待っていてくれというのみ。 結局明日の座席はまだまだ空席があるので、今晩一晩対応を考えるので、明日の営業開始6時20分に再度手続きに来てくれ、という。 その間、1時間近くあれこれやり取りしたが、結局は物別れ、明朝に再対決ということになった。 ☆しっくりしない思いで駅を出て、タクシーで今夜のホテルへ。 ところがホテルは駅からわずかの距離であった。 タクシーの運転手は乗車拒否はせず、道案内と称してホテル手前まで運んでくれた。 ☆ホテルをチェクインしてすぐに街へ出て夕食を摂る。 ファーロは8か月前にポルティマオンに行く前日に宿泊している。 本当は生カキを食べたかったが、妻の体調を配慮してアルガルヴェ地方の郷土料理”カタプラーナ”2人前を摂る。 5月12日(日) ☆快晴。 今日は夜になっても30度。 ☆やはり毎日が怒涛の日々で、一日も休まず坂道を歩いてばかりで、かなり体に疲労が溜まってきているようだ。 そういう生活がもう40日になる。 妻はそれを見越してセビィーリャを2泊にして、休養日と洗濯日に設定していたようだ。 実際に私は昨夜の洗濯作業で、夜中から手首をねん挫したような強烈な痛みに襲われたし、妻も今朝に洗濯の続きをしていて右手の人差し指が攣った。 今日は休養日とする。 ☆午前はポルトガルのリスボンの宿を検索する。 しかし安い宿はどの宿もエレベーターがない。 アパートメントなのにキッチンもない宿も多い。 口コミを読みながら、エレベーターは無くてもレセプションの居そうな(暗証番号による出入りの必要のなさそうな)アパートを選んで予約。 ☆明日のポルトガル・ポルティマオン行きのバス停を調べる。 Omioではセヴィーリャのバスターミナルは昨日の到着駅と同じサンタ・フスタになっていたが、ネットで調べるとポルトガル行きのバスの発着はプラサ・デ・アルマスに なっている。 昨日届いたEチケットを確認すると、やはりバスのターミナルはプラサ・デ・アルマスであった。 宿でもらったマップを見ると、なんとそのバスターミナルはこの宿の背後の大通りに添った位置にあった。 目と鼻の先である。 それでこの界隈がホテルやアパートメントが密集している理由が分かった。 ☆午後から昼食を兼ねてバスターミナルへ出かけ、搭乗口を確認する。 その時すでに3時半だったが、太陽は真上にあり、まったくの真昼間である。 これなら明日のポルティマオン到着が3時15分でも何の問題もない。 ☆バス停を確認して、昼食を摂りに行く。 午後はそのまま近くの美術館や闘牛場を軽く観光する予定だった。 しかし暑い陽射しの中で妻の体調が悪化し、カフェの椅子に座ったとたんに眩みで身動きできなくなった。 それで私だけ食事を摂り、今日は完全休養日として宿に戻って体を休める。 ここ数日の熱暑の中での坂道の上り下りで、熱中症気味になったようだ。 ☆それでやっとじっくりパソコンに向かう時間が取れたので、今年の空港展の海外作家宛に、作品の送付先ともろもろの留意点をまとめて送付する。 5月11日(土) ☆快晴。 日中は気温が上昇。 ☆昨夜はエアコンの音がうるさいのでスイッチを切って寝たら、寒くて寒くて眠れず、またホテルの構造の問題でホテル内のあらゆる音が一晩中響き渡って、 全く眠れなかった。 スペイン人は真夜中でも早口の大声で延々と喋り続ける。 ☆妻も私もぐったりとなって、10時前にホテルをチェックアウト。 スーツケースを預けて、観光に出る。 ☆ロンダといえば、深い渓谷の上にある街と、新市街と旧市街を結ぶヌエボ橋である。 ホテルを出て大通りに差し掛かると、何やらもの凄いドタバタ音。 市民ランナーのマラソン大会で、延々とマラソンのランナーが走っている。 昨夜、ホテルの周囲のバルで大勢の若者たちが気勢を上げて大騒ぎしていたのは、このマラソンの参加者たちだったのだ。 その列は傍らの闘牛場へ入って、また道路に出るコースで、私たちが観光に向かう道路はこのマラソンコースで封鎖されている。 ☆それで街の中は通れないので、渓谷の縁沿いを歩いてヌエボ橋へ向かう。 ところが、その渓谷の断崖の縁から見下ろした風景の広がりに息を飲んだ。 ほとんど中世の世界がそのままなのである。 こんな美しい世界がまだあったのか。 ☆ヌエボ橋周辺の観光をした後、渓谷の下に向かって降りている道があったので、急こう配の道を下る。 その道筋で見はるかす、麓の伸びやかな風景がたまらなく魂を引き寄せる。 偏狭な高鍋という町で暮らすより、ここで生活することができたらどんなに魂が浄化されることかと心底思った。 実際、文豪ヘミングウェイや東郷青児がここに移り住んでいたようだ。 妻はロンダは2回目の訪問である。 彼女自身がもう一度来たいと思うと同時に、ぜひ私にこのロンダの風景を見せたかったという。 つくづく、妻に感謝である。 ☆深い渓谷の麓へ急こう配の道を下るということは、帰りはその急こう配を上らなければならない。 それで妻も私もへとへとになり、カフェで小休止してビールを飲み昼食を摂った後は早めにホテルへ帰り、スーツケースを受け取って、駅まで歩く。 ☆駅の待合室でくつろいでいると、電光掲示板に私たちの乗る電車のプラットホームが”BUS”となっている。 バスに乗るのは、乗り換え駅のアンテケーラ駅からセビーリャ駅に向けてだったはずだ。 駅員に尋ねると、やはりロンダ駅からはバスでアンテケーラ駅へ向かい、アンテケーラ駅からは電車に変更になり、バスはすでに駅前に待機しているという。 ということで、16時40分にロンダ駅を高速バスで出発。 ☆バスに乗ったのは10人程度。 私は昨夜の睡眠不足ですぐに寝てしまったが、途中で目を覚ますと窓外の風景の余りの美しさに目を奪われた。 フランスの美しい田舎とスペインのこんな風景の中をレンタカーで走ったらどんなに素晴らしいだろう。 妻はバスの一番前の席で、バス前面にパノラマワイドに次々に広がる風景に圧倒されながら、私と同じことを考えていたようだ。 ☆17時36分にアンテケーラ駅着。 18時28分に目的地のセヴィーリャ駅直行の高速電車に乗る。 ☆電車の中で、セヴィーリャからポルトガルのポルティマオン行きのバスをスマホで検索。 Omioでチケットが購入できたので、セヴィーリャを9時30分に出発してポルティマオンに13時15分着のチケットの購入手続きをする。 ところが購入手続きの最終段階、カードのセキュリティー番号入力でエラーが出て失敗。 再度購入手続きをすると、もう席は無かった。 多分私の予約手続きで押さえられてしまったのだろう。 次の便は12時発、15時15分着の便しかない。 ポルティマオンではシンポジウム作品にサインを入れて、ホテルの予約を入れてあるファローに移動しなければならない。 考えてしまう。 ☆セヴィーリャ駅には予定より早く20時に到着。 タクシーで宿へ向かう。 今日の宿も家族経営のアパートメントだが、部屋にはアパートメントに必要なキッチンや冷蔵庫もない。 単なる安宿である。 そしてこの宿も昨夜の宿と同じく、全ての物音が筒抜けに聞こえる。 私たちと同じ時刻にチェックインしたギャル3人が、よほど友人同士の旅が嬉しいのか、部屋に入るなり大声で歓声を上げてはしゃぎだし、しまいに歌まで歌いだした。 ☆部屋に入ってすぐにパソコンを開いて、再度、セヴィーリャからポルティマオンへのバスチケットの予約をする。 セヴィーリャに着いた20時はまだカンカンに陽が照って、真昼である。 これならポルティマオンに午後3時に着いてもほぼ真昼の到着である。 サインを入れる作業も真昼間の中でできるし、明るいうちにファローへ移動できる。 無事に12時発のバスチケットを購入。 スマホのOmioアプリでチケットを表示できる。 ☆バスのチケット購入を済ませて夕食に出る。 宿の周辺にはバルもレストランも全く無く、しばらく歩いて飲食街に入り、バルで夕食。 久しぶりにムール貝を摂ったら、初めてのタイプの調理法で、焼き牡蠣に似た美味しさにびっくりする。 こんな美味しいムール貝は初めてである。 超!超!絶品! ☆宿に帰ると、洗濯物が溜まって着替えが無くなったし、セヴィーリャには2泊するので洗濯をする。 洗濯を済ませてこの日記を半分書いたところでもう午前1時半。 日記の続きは明朝に廻して床に就くと、2時過ぎに隣の部屋に幼い娘と父親が帰ってきて、それから延々と娘のお喋りとシャワーの音がベニヤ一枚隣の感じで響く。 幸い、ギャル3人はすっかり疲れて、安らかに眠っているらしい。 5月10日(金) ☆快晴。 グラナダは気温が急上昇。 先日のコルドバ並みの暑さとなった。 ☆今日でヨーロッパ周遊の旅は3分の2の旅程をこなした。 毎日が波乱万丈ながら、取り返しのつかない事件もなく、楽しく過ごしてきた。 これからはポルトガルを経てパリへ戻る旅になる。 暑い日々が続きそうである。 ☆朝のうちに、今日のロンダと明日のセビリア着が夜中になるので、それぞれのホテル宛に連絡を入れる。 ☆11時過ぎにホテルをチェックアウト。 スーツケースをホテルに預けて、夕刻までの観光に出る。 グラナダも観光シティーツアー・ミニトレインが出ていて、一日切符で何回どこで降りてもどこで乗っても良い。 ホテルのすぐ近くに停車場があるので乗る。 しかも私と妻は高齢者割引だった。 アルハンブラ宮殿周辺一周をメインにして、日本語ガイドを聞きながらの観光はなかなか良い。 だがガタガタの石敷きの道路を上ってゆくミニトイレインの激しいバウンドが、次第に胃に堪えて来る。 とうとう我慢できなくなって、アルハンブラ宮殿を見下ろせる峠の停車場でいったん降りる。 ☆その後ひとまず一周して、ホテル近くの停車場で降り、昨日のお昼にビールを飲んだ近くのカフェでビールとサラダで軽く昼食を摂る。 昼食後に再びミニトレインに乗り、アルハンブラ宮殿の入り口で降り、チケットなしで見学できるカルロス5世宮殿などのエリアを観光する。 ☆夕刻5時にホテルへ戻ってスーツケースを受け取り駅へ向かう予定だったが、今日はとても暑くてバテ気味なので、3時半にはタクシーでホテルへ戻り、 グラナダ駅へ。 駅のカフェーで休憩を取りながらメールをチェックするが、今日と明日のホテルからはチックイン時間の変更についての返事はなし。 ただどちらともレセプションが24時間対応なので問題ないか。 ☆19時25分発の快速電車でロンダへ向かう。 グラナダ駅も手荷物検査が厳しく、その時に私たちの電車に乗る旅客が大事なバッグを取り忘れていた。 鉄道警察がバッグの中を開けると大きな財布が入っていて、鉄道警察が並んでいる旅客に持ち主を呼びかけるが、誰も名乗りが出ない。 これが、これからの波乱の前兆であった。 ☆乗り換え駅のアンテケーラ駅の手前で、またも電車が止まってしまった。 まさかこんなところで降りるのかと妻とオロオロしていると、車掌がやってきて”もう少し待って”と言いながら、彼も困惑状態である。 やがて電車は動いてアンテケーラ駅構内に入っていったが、今度は扉が開かない。 乗り込むお客も一向にドアが開かないし、雨も降り始めてみんなイライラしている。 ようやくドアが開きプラットホームに出ると、若い女性の駅員が駆けつけてきた。 彼女が”ロンダ”とか”5”とかスペイン語で語りかけるが何と言っているのかさっぱりわからない。 そのうちスマホの翻訳機能を使って、日本語で”ロンダへはここで降りてください。プラットホームは5番です。”と伝えてくれた。 5番のホームを見るとすでに電車は待機している。 アンテケーラ駅は結構大きな駅で、エレベータを2回使って5番ホームの電車に乗り込む。 乗り換えの待ち時間は38分だったのだが、電車に乗った時には出発12分前だった。 それで駅員さんが駆けつけてきた訳が分かった。 ☆ロンダへ向かううちに、雨が上がって壮大な夕焼けの中に大きな虹が立った。 ☆22時08分にロンダ駅へ着く。 外へ出てタクシーを拾おうとするが、タクシーは待機しておらず、タクシー待合所にタクシー会社の電話番号が書いてあるだけ。 つまり、タクシーは自分で電話して呼べ、ということである。 それでeSIMの電話機能を使ってタクシー会社に電話すると、アナウンスが流れるばかり。 看板を見ると、タクシーを呼べる時間は8:00から22:00までとある。 それでホテルのレセプションに電話をしてタクシーの手配をお願いする。 ロンダの夜は寒風が吹いてとても寒い。 寒い中をいくら待てど、タクシーは来ない。 ☆一方、私たちと一緒に電車を降りたカリフォルニアからの老夫妻も、タクシーがいないので途方にくれている。 私たちがホテルの手配したタクシーを待っている間に、老夫婦は近くにいた青年にタクシーの手配をお願いしている。 そのうちタクシーがやってきた。 それはホテルの手配したタクシーではなく、青年が老夫婦のために呼んでくれたタクシーだったが、大型だったので私たちも一緒に乗せてくれることになった。 かくして、無事にホテルに着いた。 レセプションの話では、今夜はタクシーが全部出払っていて、どうしても手配できなかったという。 またしても、あの老夫婦と青年が居なかったら、私たち夫婦は夜中の見知らぬ街で歩いてホテルを探さねばならなかった。 毎日、トラブルばかり。 だが不思議と、必ずこうして助けてくれる人が現れる。 ☆ホテルにチェックインして、すぐにホテル隣のバルで遅い夕食を摂る。 ホテルは家族経営で、このバルも一族のようだ。 ロンダのホテルはとても高くて、ようやくこのホテルを確保したが、いつも私たちが使うホテル代の倍もするホテルである。 しかし、浴槽の栓は無いしお湯がすぐ水になり、エアコンはもの凄い騒音を立てて使えないし、周囲はすごくうるさいし、今まで使ったホテルの中で最悪である。 私が若いころにインド放浪中に使っていた安宿に近しい。 5月9日(木) ☆晴れ。 ☆昨夜は宿のエアコンが効いていて、しかしスイッチのリモコンが見つからず(朝起きたら、テーブルの上にテレビのスイッチと一緒にあった)、しかもベッドには 薄いシーツ一枚しかなく、寒くて寒くてたまらなかった。 ☆9時に宿を出ると、丁度観光客を乗せたタクシーがやってきたので、入れ替わりに乗車してコルドバ駅へ向かう。 コルドバ駅では時間があったので、窓口で明日のロンダ行きの座席指定チケットを購入。 そうしたら、日中の電車はすべて満席で、かろうじて最終便しか座席がなかった。 その便だと途中乗り換えがあり、ロンダ駅に22時08分に着く。 しかしすでにホテルは予約してあるので、チケットを購入する。 ☆10時32分にコルドバ駅を発ち、グラナダへ向かう。 ところが途中で前代未聞のハプニングが待っていた。 1時間近く走ったところで電車が停止し、全く動かなくなった。 車内はエアコンが効きすぎて、私は昨夜のエアコンで風邪を引いたらしく、急激に吐き気がしてきてきつくてたまらない。 早くグラナダに着いて、ホテルで横になりたい。 だが、2時間近くして別な電車がやってきて、隣の線路に停止し、なにやらスペイン語での車内放送が流れると、乗客はみんな荷物をもって立ち上がった。 何らかの故障で電車が動かなくなり、別の電車に乗り換えるのだ。 こんなこと、日本でも聞いたことがない。 それにしても乗客の皆さんの穏やかなこと。 誰も文句を言わず、無事に代替えの電車に移動し、電車がグラナダへ向かって動き始めると、拍手さえ起った。 これが韓国や中国で起きたことなら車掌は袋叩きに遭い、大騒動になっただろう。 結局、グラナダ駅には2時間遅れの14時30分に着いた。 アルハンブラ宮殿の観光を予約していた人たちは時間指定なので、困った人たちも多かったのではなかろうか。 ☆グラナダ駅に着くと、昼休みでクローズしていると思っていた窓口が開いている。 それで明日のロンダ行きが最終便しか空きがなかったので、明後日のロンダからセビリア行きの電車の予約をした。 ロンダには夜に着くので、翌日のロンダ発を夕刻に変更して座席指定チケットを購入。 ただ乗り換えのアンテケーラからはバスだということで、バスの座席指定券も発行してもらった。 これまでバスに乗るときにチケットがないと言われて困ったことがあるので、これで安心である。 ☆タクシーで今日のホテルへ向かう。 ホテルという名前なのでホテルだと思っていたが、着いた先はホテルらしい門構えではなく、暗証番号入力キーバッドが備え付けてある。 ただレセプションには受付が居て、扉も彼が開けてくれた。 やはり表向きはホテルだが、内実はアパートメントで、入り口の扉も部屋も暗証番号入力で開ける。 明日はグラナダを発つのは夕刻なのでチェックアウト後の荷物預かりの可能性について訪ねると、明日はずっとレセプションがいるので問題ないということ。 ☆ホテルの中はいかにもグラナダという感じで、明るくてとても魅力的な空間である。 部屋も広く、キッチンも冷蔵庫もアイロンもコーヒーセットもある。 ☆グラナダといえばアルハンブラ宮殿だが、もうチケットは何か月先まで完売で中に入れないので、無料で入れる周囲を巡ることにしてタクシーで向かう。 妻はツアーで来たことがあるので、妻の案内で廻る。 それにしても今日も延々と坂道を上る。 もう来ることもないだろうと思って、必死で上る。 アルハンブラ宮殿を遠目に見て街へ降りる。 ところが街へ降りてホテルのある方向歩き始めると、すぐに見覚えのある街並みとなり、ホテルへ戻ってきた。 タクシーに乗ると、街中は一方通行なのでグルグル廻って相当の距離に感じるが、実際はアルハンブラ宮殿のある区域とホテルはとても近かったのだ。 ☆ホテルへ戻ると、もうレセプションは不在だった。 今日は私たちともう1,2組くらいのチェックインだったのだろう。 ☆一段落してホテルの近くのカフェで、夕食にパエリャを摂る。 しかしバルセロナのカテドラル前のカフェの絶品パエリャには遠く及ばなかった。 グラナダはコルドバに比べると日中の最高気温は24度くらいで、暑さは和らいだ。 だが夕刻にカフェのテラスで食事を摂っていると寒くて寒くて、思わずホテルへ戻って重ね着を持ってくる。 ☆今年の空港展の作家資料(文字原稿)の締め切り日が今日だったので、今日までに届いていた海外作家からのデータをパンフレット原稿データに打ち直す。 5月8日(水) ☆晴れ。 ☆10時にホステルをチェックアウト。 タクシーでアトーチャ駅へ。 日本の代理店に依頼していた座席指定チケットが届いていたので、朝のうちにスマホで写真に撮る。 11時05分発の高速電車に乗る。 コルドバ駅に12時52分着。 ☆コルドバ駅に着いて、駅の窓口で明日のグラナダ行きの座席指定のチケットを購入。 窓口では待っている人も少なかったので、パスポートとユーレイルパスのマイパスを見せて、すぐに明日の高速電車の予約が予約手数料だけで購入できた。 そこまでは上々であったが・・・。 ☆コルドバ駅からはタクシーで今日の宿へ。 タクシーはすぐに場所が分かり、目的地に着いたら壁に宿の名前がディスプレイしてある。 しかし、そこには例の暗証番号を押さないと開かない重い扉が立ちはだかっている。 しまった、ホテルではなくアパートメントだったのだ! ☆私には扉を開ける暗証番号も何も届いていない。 またか! だからアパートメントは嫌だったのだ。 コルドバはもう夏である。 じりじり陽射しの照りつける路上でパソコンを開き、スマホのテザリングでブッキング・コムに連絡を取るが何の反応もない。 届いていた予約受諾のメールを開き、よく読むと事前のオンラインチェックインが必要とあるので、暑い陽射しの中で路傍に座ってオンラインチェックをする。 そしてスペイン語なのでよくわからなかったリンク先を押すと、それはオーナーと私のオンライン打ち合わせページだった。 Google翻訳で内容を翻訳すると、事前のオンラインチェックインを済ませてからでないと、セキュリティーの観点から扉の暗証番号を送ることができない、とある。 それで、オンラインチェックインを済ませて、今、家の前に入るのですぐに暗証番号を送ってくれるように伝える。 ☆暑い中、妻をぼーっと待たせているわけにもいかず、近くのバルでビールと簡単なお昼を取ながらオーナーからの返事を待つ。 そのうちオーナーから暗証番号等が届いた。 ☆アパートメントへ戻ると、丁度のタイミングでチリからやってきた若い夫婦が、扉が開かずに困っていた。 それで私に届いた暗証番号を伝えると、無事に扉が届いたが、お互いに私たちの部屋の番号も部屋の鍵の保管先も全くわからない。 すったもんだの末、扉の暗証番号と部屋の番号と鍵の所在を明記したオーナーからのスペイン語が、翻訳のいい加減さで訳の分からない内容になっていることが 判明。 無事に部屋に入ることができた。 ☆部屋に入るととても広い部屋で、キッチンや冷蔵庫やアイロンがある。 アパートメント宿泊のノウハウをこれまで私が知らなかっただけで、きちんと事前のオンラインチェックインを済ませてオーナーから鍵の開け方等の連絡をもらえれば、 毎度のドタバタは起きなかったのだとようやく呑み込めてきた。 しかし私が居なかったら、チリの若夫婦は扉を開けることができなかった。 ☆私と妻は毎日のように歩き疲れているので、今回のコルドバは観光を1点に絞った。 妻が私にどうしても見せたくて(彼女はコルドバは2回目)、今回の旅程にコルドバを組み入れたユダヤ人街の”メスキータ”へ観光に出かける。 コルドバはもう真夏の陽射しで、おまけに私と妻は足腰がクタクタに疲れ切っているので、”メスキータ”まで歩いてゆくのは辛くて辛くてたまらなかった。 メスキータに着いてチケットを買った後も、しばらくは身動きできなかった。 ☆しかし”メスキータ”の中に足を踏み入れた途端、その圧倒的な信じられない空間に疲れも吹き飛んでしまった。 現在はキリスト教の協会ではあるのだが、元々はモスクであり、キリスト教とイスラム教の融合した不思議な空間が広がる。 なんといっても大理石とくさび形の赤レンガを交互に組み合わせた独特なアーチが限りなく広がり、こんな不思議な空間がこの世にあったのかと驚愕した。 昨日のトレドの装飾過剰のカテドラルに反吐の出るグロテスクな悪寒を抱いた後だけに、”メスキータ”の空間はとても清々しく敬虔な気持ちになった。 妻が私を連れてきた理由が実によく分かった。 ☆”メスキータ”からはタクシーで帰る。 ☆夕食は宿の近くのカフェレストランで、コルドバの名物料理・牛テールの赤ワイン煮込みを食べる。 宿に帰ってくると、扉付近に数名の旅人がかたまって電話で何やら抗議的な問い合わせをしている。 車で来ているが駐車場が分からなかったり、彼らの部屋が分からなかったりで身動きできないようだった。 しばらくして妻が様子を窺がうと、今度は別なグループが扉付近でうずくまっていた。 ☆明日はグラナダへ行く。 それでアルハンブラ宮殿へ行こうとネットで予約しようと思ったら、代理店もアルハンブラ宮殿の公式サイトも5月はすべてチケットが完売であった。 5月7日(火) ☆快晴。 マドリッドの朝の気温は8度でとても冷え込む。 ☆7時にタクシーでアトーチャ駅へ。 トレド行きの乗り場がなかなか分からなかった。 そしてクエンカ同様、空港並みの手荷物検査があった。 アトーチャ駅はアルカイダによるテロで200人以上が亡くなった経験を持つだけに、セキュリティーが厳しいのだろう。 ☆7時47分のトレド直行便に乗る。 昨日は自動購入機で手間取っているうちに予定の便が満席になり、早朝便しか予約できなかった。 ☆8時23分にトレド駅着。 トレドは1561年に首都がマドリードに移るまで、政治・経済の重要な拠点として栄えた街で、またギリシャ生まれのエル・フレコが後半生を送ったころのたたずまいを 今も残す町である。 そしてトレドも坂道ばかりである。 一昨日のクエンカの坂道歩行の筋肉疲労が今日になって太ももの表裏に出てきて、歩くのがきつくてたまらない。 ☆トレドは14世紀からほとんど変わっていない中世の町並みである。 歩いているとポルトガルのファロの感じによく似ている。 トレドは長くイスラム勢力下にあったということで、ファロもポルトガルにおけるイスラム勢力終焉の地となった町なので、なるほどと感じた。 ☆まずカテドラルを見学したが、余りの過剰装飾に反吐が出て、グロテスクさしか感じられなかった。 次にエル・グレコの絵を見たくて、ガイドブックにあるサンタ・クルス美術館に行くと、そこは個人収集家の美術館になっていて、グレコのグの字もなかった。 それでグレコ美術館へ行くと、グレコの絵は「オルガス伯爵の埋葬」を含むたった2枚しか展示されておらず、さらにエル・グレコの傑作を展示するとある サント・トメ教会に行くと1,2枚のグレコの絵しかなかった。 過去に何度かトレドを訪れている妻の話では、以前にグレコ美術館を訪れたときは10数枚のグレコの絵があったという。 大きな収穫もなく3時過ぎには街を出て歩いて駅へ向かう。 午後からは陽射しがとても強烈で、暑くてたまらず”TOLEDO”のロゴ入り帽子を買う。 ☆16時25分発のマドリッド行き直行電車に乗る。 トレド駅でも手荷物検査があった。 17時01分にマドリッド着。 ☆宿に戻ってネットをチェックすると、日本の代理店に依頼していたこの先の電車の座席指定は明日のコルドバ行きの分しか取れていなった。 それ以外の電車は取り扱えない路線だということで、また駅の自動購入機の操作が必要になった。 ☆夕食は妻がガイドブックで調べた、ホテルすぐ近くのソルにある生ハム専門店へ。 ところがハムメロンもサラダもひどいものだった。 スペインに来て最もがっかりの食事だった。 5月6日(月) ☆昨夜の雨は上がったが、午前はにわか雨の降る曇天。 外に出ると、風は冷たく、セーターでも寒い。 ☆午前はこの先の移動のホテルの手配と高速電車の座席指定の手配。 今月13日はセビーリヤからポルトガルのPortimaoへ入る。 昨年10月のシンポジウムの街だ。 制作期間が1週間だったのでサインを入れていないので、そのサイン入れ作業のために立ち寄る。 ところがセビーリアとPortimaoは距離的に近いのに、電車だとリスボンまで行って下ってくるという25時間以上の長旅になる。 シンポジウムオルガナイザーのアルリンドに問い合わせたら、セビーリヤからはバスが出ていて3時間くらいだという。 ☆昼からマドリード観光に出る。 宿を出ると、周囲は観光客がもの凄く、すぐ近くにマヨール広場が広がっていた。 どうやら宿は観光地の真っ只中にあるようだ。 まずはプラド美術館を目指すことにしたが、方向感覚が全く分からない。 地図を片手に歩いていると、王宮に出た。 プラド美術館とは反対方向に向かっていたようだ。 ☆王宮の周辺には観光オート三輪のトクトクが待機していたので、トクトクに乗ってマドリッドの要所を廻る。 丁度雨が降り出してきた。 ☆トクトクを降りた後は宿の周辺のバルで昼食を摂る。 スペインやポルトガルは一人前の皿の量がとても多い。 数皿取ると、妻と2人がかりでも食べきれない。 ☆夕刻まで宿で一休みして、夕刻からアトーチャ駅へ向かう。 明日は日帰りのトレド観光を予定していて、ユーレイルパスで座席指定を手配しようとしたが、ローカル線なのでユーレイルパスの対象外であった。 それで駅の窓口で直接手続きをしなければならなかった。 最初は自動購入機で手続きしたが、カード決済のところまで行ったのに、決済ができずエラーとなってしまった。 窓口に行くと、トレドは別な窓口だと言われ、そちらへ行くともの凄い数の旅行者が順番待ちをしている。 そこにも自動購入機があったので、順番待ちは止して機械を操作する。 やはりカード決済まで行ってもエラーが出てしまう。 それでみんなはどうやっているのだろと見ていると、ほとんどの旅行者は操作を途中で諦めてしまって、誰も切符を手にできない。 妻が、もう明日のトレド観光は諦めようと言うが、私は必ずどこかでうまく行く、という思いがいつもある。 諦めかけたときに若いカップルがやってきて、彼らが操作するとごく普通に機械から切符が出てきて、妻も私もびっくり。 最後のチャンス、と私ももう一度操作すると、これまでの操作と全く同じなのに、今度は首尾よく切符が出てきた! 昨夜に続き妻と抱き合った。 諦めてはいけない、かならずうまくいく。 ☆宿に帰るとぐったり疲労困憊であった。 まだお昼の食事が胃に重く、夕食は缶ビールで済ます。 5月5日(日) ☆曇り。 今日はとても冷え込む。 ☆昨夜の深酒が朝まで残っていて、辛かった。 宿酔というより朝までまだ酔っていた。 ホテルは朝食付きだった。 今回の旅行で、初めてコ−ヒーがポットで出てきて美味しかった。 ☆10時にホテルをチェックアウト。 荷物は夕刻まで快く預かってもらう。 ☆10時過ぎて、宙づりの家として有名なスペイン抽象美術館へ。 この美術館はスペインで最初の抽象美術の美術館だということ。 世界文化遺産の14世紀建立の建物を瀟洒な空間に使いこなしている。 又木さんとはそこで落ち合う。 又木さんの家は、宙づりの家の真下、歩いて45歩のところにある。 ☆抽象美術館から、さらに上ってクエンカ県立美術館へ案内してもらう。 この美術館は世界的に著名な作家とレディーメイドの日用ガラクタ品が対等に展示されている。 ☆そこからさらに奇岩の上のクエンカを見下ろせる丘に登り、カフェでワインの飲み直し。 そこでの又木さんとの会話で、私が制作して日南市に設置された伊藤マンショの話になった。 実は伊藤マンショたち天正遣欧少年使節の一行はポルトガルのリスボンからヨーロッパに入り、ローマに到達するまでにヨーロッパ中から熱烈歓迎を受けている。 彼らの訪問はヨーロッパ中に大変な日本ブームとなり、カステラ、パン、コップなどの多くのポルトガル語が日本語となっていることはその影響の強烈さを物語る。 彼らのそうしたヨーロッパでの行動は、きちんと公的に記録され、当時も多くの本が出版されて残されている。 私が伊藤マンショを制作したときには、マンショの肖像画は版画の図像しかなかった。 しかし数年前に油彩画の伊藤マンショの肖像画が見つかり、宮崎県立美術館でお披露目の展覧会が開かれた資料の中に、伊藤マンショがクエンカを訪れた記録があり、 びっくりしたことがあった。 そのことを私も思い出し、又木さんとの関係でしか縁のなかったクエンカがそうではなかったことをあらためて感じた。 私は呼ばれるべくしてクエンカを訪れたのだ。 伊藤マンショ一行はクエンカの実力者から馬車を贈られている記録があるということ。 ☆ホテルから荷物を受け取り、又木さんが制作した太陽広場へ。 彼女は年に何回かこの広場で日本文化を広める活動をしているということ。 今日も簡単な交流セレモニーを行った。 そのあとに、また広場の近くのカフェでワインを飲み、そこで又木さんとはお別れする。 ☆タクシーでクエンカ駅へ。 クエンカでは空港並みの厳重な手荷物があり、妻の荷物が引っかかった。 アパートメントでの自炊用に購入していたダイソーのキャンプ用品セットが、ナイフと認識された。 ☆21時29分発の高速電車でマドリッドへ発つ。 そこで今回の旅の最大のアクシデントが発生した。 やってきた電車は車両が2両連結されとても長い電車であった。 プラットホームにはどの各車両の停止位置の案内がない。 電車がホームに入って初めて、私たちの乗る車両がずっと先の後方車量だとわかり、重い荷物を引っ張って必死でホームを走った。 しかし妻は私に付いてこれず、指定車両ではない車両に乗ってしまった。 妻の乗った車両は先頭の車両で、私の乗った車両からは行けない。 しかも妻の座席指定の切符は私が持っているし、妻はスマホにSIMを入れていないので私のラインもつながらない。 車掌に事情を話しても、車両がつながっていないのでどうしようもないという。 幸い、電車はマドリッドまで停車駅はない直行電車だし、妻が乗っていることは確実なので、マドリッドのプラットホームで会えることははっきりしているが、切符も 持っていない妻がどうしているか気になって落ち着かなかった。 ☆22時34分にマドリッド駅着。 妻は先に降りてプラットホームで待っていてくれた。 無事に妻に会えて、思わず抱きしめた。 妻は車掌に必死で状況を説明したらしいが、車掌もあきらめて車両滞在を黙認してくれたということ。 やはり妻のスマホにもSIMを入れるべきだと思った。 そうしないとお互いに離れてしまうと、連絡のしようがない。 ☆マドリッドは雨であった。 タクシーで宿へ向かう。 ホステルなのでアパートメントなのだが、フロントも24時間体制だし、ほとんどホテルと代わりはない。 5月4日(土) ☆快晴。 ☆10時にホテルをチェックアウト。 ☆10時48分発の高速電車でカステリョン駅を出発。 ところが私と妻の予約席が離れ離れになっていて、私の隣の席には犬を連れたお客が座った。 フランスもスペインも電車には自転車、電動ボード、犬を普通に乗せることができる。 フランスではすごい大型犬を乗せている人も居た。 隣の席の犬は小型犬のマルチーズで籠の中に入れられている。 私は犬は嫌いではないが、やはりクエンカまでずっと犬の匂いと一緒なのかと思うとウンザリである。 ところがお昼に近くなると、犬連れのお客は犬に餌を与え始めて、餌の匂いが立ち込めてきた。 すると、やおら前の席の頑丈な男性が荷物の中からスプレーを出して、座席と荷物に消臭剤をスプレーし始めた。 そしてさらに自分の体には香水をスプレーし始めた。 犬を連れたお客は別に間違ったことをしているわけではないが、モロにこういうことをされるとどんな気持ちなのだろうと複雑な思いだった。 座席指定は安心して座れる利点と、周囲に嫌なお客が居ても席を代わって移動できない欠点もある。 ☆13時12分にクエンカ駅着。 クエンカには都城出身の友人画家・又木啓子さんが住んでいて、ずっと訪ねたかった場所である。 最近は情熱大陸で放送されたりして、脚光を浴びている街である。 ☆駅は市街地からかなり離れた場所にある。 明日のクエンカからマドリッドまでの高速電車の座席指定が日本の代理店ではできなかったので、駅の窓口で予約する。 ところが明日の高速電車(各駅停車の普通電車は走っていない)は全席完売していて、ようやく最終便が取れた。 ☆タクシーでホテルへ向かう。 クエンカは旧市街が断崖絶壁の上にあり、独特の景観の街である。 延々と狭い急勾配の坂道を上っていく。 ☆今夜の宿泊先は画家・ベラスケスの甥が営業を始めたホテルで、14世紀に建てられている。 ベラスケスも逗留していたようだ。 又木さんの紹介でネットで予約したが、予約でいっぱいだった。 しかしオーナーと又木さんは懇意にしているので、キャンセルが出たら連絡をいただけることになり、無事にキャンセルで眺望の良い部屋に泊まることができた。 ☆又木さんはホテルの部屋まで私たちを迎えに来てくれて、近所を簡単に案内してくれながら彼女の家まで行く。 彼女の家は有名な”宙づりの家”のすぐ下、彼女の表現では徒歩45歩の距離にあり、周囲の公共空間はほぼ彼女の庭みたいなものである。 今日は快晴で良いお天気だったので、その公共空間の彼女のお気に入りの庭にテーブルを運び、彼女の用意してくれた自慢の料理でお昼を摂る。 当然、呑ん兵衛3人の会食なのであっという間にワインが2本開いた。 観光よりも3人のこうした楽しい会話が私たちにとっては貴重な時間であった。 ☆お昼の席を片づけて、ほろ酔いで又木さんはクエンカの案内をしてくれる。 そのたびにワインの杯が重なる。 最後は貴重な洞窟内のバーでまたワインを飲む。 又木さんはさらに飲みたかったようだが、私は久しぶりにヘロヘロに酔ってしまい、やっとの思いでホテルへ帰ってきた。 とにかくクエンカは坂道だらけで、もう足腰も壊滅状態であった。 5月3日(金) ☆快晴。 ☆8時過ぎにアパートメントをチェックアウト。 丁度、オーナー夫妻も出かけるところで一緒にアパートメントを出て、流しのタクシーを捕まえてもらう。 バルセロナはとても大きな魅力のある街で、また訪れることができるなら1週間は滞在したい。 ☆10:00発の普通電車でバルセロナ駅を発つ。 ところがバルセロナ駅は降りると時には改札がなかったが、乗り込むときにはQRコードタッチの改札ゲートがある。 これは困った。 それで乗車するプラットホームが決まってから(ヨーロッパは出発20分前にならないとプラットホームが決まらない)、駅の職員にユーレイルパスのQRコード表示の 方法を尋ねるが、私が質問した職員はまったくユーレイルパスのことが分からなかった。 それで乗り込むプラットホームの改札口の担当者に聞いてくれたら、改札口には車椅子等の通過できるノーチェックのゲートがあり、ユーレイルパスを見せて 通過できるということであった。 ☆4時間半の長い電車の旅は、地中海沿いに荒涼たる岩山の延々たる大地のなかを走る。 14時30分のほぼ定刻に、目的地のカステリョン駅に到着。 ☆ところがカステリョン駅には降車口にも改札ゲートがある。 なんとかユーレイルパスのマイパスを見せて通過させてもらった。 ☆ホテルは駅の目の前であった。 チェックインを済ませてエレベーターで部屋に上がってびっくり。 日本のホテル並みの客室で、実に広い、 浴槽もあり、冷蔵庫には冷えた水のボトルが2本入っていた。 まったく日本のホテル並みである。 今回の旅を始めてから最もホテルらしい環境のホテルである。 ☆実はカステリョンに来たのは、予定していたバレンシアのホテル代があまりにも高価でホテルが確保できず、妻が思案して選んだ場所である。 カステリョンのホテルがとても格安だったので、これまでの例でアパートメントではあるまいかと心配していた。 ところがどっこい、とても立派なホテルであった。 ☆一段落して、旧市街へ観光に出る。 カステリョンはバレンシア州カステリョン県の県都であり、それなりに見どころがある。 久しぶりにほとんど観光客のいない落ち着いた街を歩くことができた。 カステリョンは年間を通して雨が少なく、5月の平均気温は22度だということ。 影地は肌寒いが日の当たる場所はとても暑く、セーターでは暑くてたまらなかった。 ☆駅前の立地の最大の欠点は、周囲にレストランがない、ということである。 本格的なレストランは、結局は旧市街にしかなかった。 疲れた体で再び延々と旧市街まで足を延ばす。 しかし入ったお店は当たりだった。 とても美味しかったし、ウエイトレスの娘さん・ロサさんがバルセロナの大学で日本語と日本文化を学び、来年5月には京都と長野を訪れるということで、彼女と 片言の日本語で楽しくおしゃべりができて、妻は上機嫌だった。 それにカステリョンの街にはゴミが全く落ちていない。 自分たちの街の環境をとても大切にしている街であった。 5月2日(木) ☆快晴。 ☆朝のうちにマドリッドのホテルの予約。 昨夜から検索しているのだが、安い宿はやはりほとんどがホステルのアパートメント。 しかしホテルとなるとべらぼうに高い。 それで安いホステルだが、これまでのように所在も鍵のナンバー等も全くわからないアパートメントではなく、きとんとしたホテル様式の構えのあるホステルを 予約する。 ☆午前のうちに、昨日のシティーバスの有効時間内のバスツアーに出かける。 昨日はサグラダ・ファミリアを含むグリーンコースだったので、今日はミロ美術館等を含むオレンジコースに乗る。 ミロ美術館で降りて、ミロの作品を観る。 私の知らなかったミロの作品世界にも触れることができて、とても有意義だった。 日本に帰ったら、やはり木版画をもっと極めたいと感じた。 ☆ミロ美術館で感心したのは、多くの幼児団体が鑑賞プログラムのプロジェクトに参加していた。 中には幼児たち全員が床に寝て、寝たままミロの天井まで届くような作品を体で感じるプロジェクトがあった。 日本の美術館で、鑑賞に来た子供たちが床に寝転んで作品を鑑賞するなんてことが可能なのだろうか。 ☆ツアーの途中でバスツアーの24時間期限が切れそうだったので、降りてもアパートまで歩いて帰れる距離にあるガウディーのカサ・ミラで降りる。 ところがカサ・ミラの中に入ろうと思ったら、またも今日のチケットはソールド・アウトであった。 ネットで予約してスマホのEチケットをかざす人しか入れなかった。 それならとカサ・ミラのウェブサイトを訪れると、スペイン語で来訪する日にちと時間を申請しなければならず、断念する。 ☆そのままいったんアパートへ帰り、午後からはアパート近くのピカソ美術館へ。 ところがここも入場口で延々と来場者と窓口がもめている。 つまりピカソ美術館も、来館日と時刻を設定してのウエブ申し込みでのEチケットでしか入館できなかった。 なんということか、ガウディーもピカソもスマホでの予約コードでしか入場・入館できないのである。 全てスマホ、スマホの時代になってしまった。 あまりにせちがらすぎる。 ☆がっかりしてピカソ美術館を後にすると、数軒先にフラメンコショーの案内を妻が見つけた。 妻はフラメンコショーを見たがっていたので、すぐに今日の夕刻5時半からのショーのチケットを購入する。 入場時刻まで付近の観光で時間を潰し、5時過ぎにフラメンコ会場へ。 会場の入り口にバーがあり、皆さんお酒を購入してフラメンコ会場へ持ち込んでいる。 過去に何度かスペインに来てフラメンコを観ている妻は、お酒を飲みながらフラメンコを鑑賞するのが一般的だという。 私と妻も赤ワイングラスを抱えて、フラメンコ会場へ入る。 私はお酒が入ると眠くなって、フラメンコショーの大半は居眠りしてしまった。 ☆フラメンコショーの後は、会場のすぐ近くのバルで夕食を摂る。 いろんな種類のタパスメニューを注文したが、どれもとても美味しかった。 スペイン料理は本当に日本人の味覚にピッタリくる。 ☆明日の朝にはバルセロナを発つ。 昨日、今日と市内全域をバスで巡るとどこも多くの人が行きかっていて、バルセロナの生命体としての活発さ、とてつもない魅力の大きさを感じた。 フランスに比べて抜群に面白い。 ただやはりイタリアのように今は観光客が多すぎる弊害が出ていて(現に美術館にも入館できなかった)、イタリア同様にバルセロナへの観光客受け入れ制限が 始まるようだ。 5月1日(水) ☆晴れ。 気温は24度まで上昇。 ☆朝のうちにたまっていた洗濯物を洗濯。 部屋がとても狭いので干し場所に苦労する。 ☆9時半から観光に出る。 昨日はもう拝観時間が過ぎていたカテドラルの中へ入ってみる。 カテドラルの中も凄かった。 そして塔を上れたので、上る。 ☆カテドラルを出て、気温が上昇してきたので着ていたダウンを部屋に戻しに帰る。 それで私と妻はようやくアパートの正確な位置が掴めた。 アパートの前の大通りが何やら騒々しく、派手なパレードがやってきた。 今日は5月1日、メーデーなのだ。 ☆再びアパートを出て、地図を見ると近くにカタルーニャ音楽堂があるので探してみようと思っていたら、アパートを出てすぐ右手に特徴のある建物が見えた。 それがカタルーニャ音楽堂で、こんなにすぐ近くにあったことに驚く。 私たちのアパートは観光にはとても条件の良い位置にあるようだ。 カタルーニャ音楽堂はアール・ヌーヴォー様式のレンガ造りの音楽堂で、内部に入ってみるととても装飾が美しい。 1997年にユネスコの世界遺産に登録されている。 ☆音楽堂を出て、近くのカタルーニャ広場でシティーツアーの2階建てバスに乗る。 私は屋根のない2階席に、陽射しを避けたい妻は1階に乗る。 このバスは33ユーロで、好きな場所で自由に乗り降りできて、しかも24時間以内なら何度でも乗れるとても便利なものだ。 ツアーの内容も赤ツアーと緑ツアーがあり、そのどちらにも自由に乗れる。 ☆私と妻のツアーの最大の目的地は、ガウディーのサグラダ・ファミリアであった。 遠景のサグラダ・ファミリアには心が踊る。 実は私は結婚前の1985年4月・36歳の時に、宮崎県内の建築家グループが開催したガウディーを巡るパネルディスカッションに彫刻家としてパネラーで 参加したことがある。 当時の私はほとんどガウディーのことを知らなくて、トンチンカンな話をしたのではないかと思う。 それからようやく38年目にしてガウディーの建築に会えるのだから、心は弾んでいた。 しかし、バスがサグラダ・ファミリアに近づくと、大きな違和感に襲われた。 私がこれまで写真で見てきたガウディーのサグラダ・ファミリアではない。 ほとんどデズニーランドの張りぼて建築である。 どこにも宗教的な尊厳さはない。 カテドラルの荘厳な深い美しい空間に触れてきたばかりの私には、反吐が出る代物であった。 過去にサグラダ・ファミリアを2度訪れたことのある妻も、以前にはこんなアニメキャラの世界丸出しのキャッチーなものではなかったとびっくり仰天であった。 ガウディーが生前に手がけた部分は、確かに今でも写真で見ることのできるガウディーのサグラダ・ファミリアである。 しかし彼の死後に造られたものはガウディーの世界ではない。 世の中の人が、よくもこんな醜悪なものを許しているものだと怒りがこみあげてきた。 バスの中でネットで調べると、やはり今のサグラダ・ファミリアは観光目的化してしまってガウディーの世界を捨て、デズニーランドになってしまっているという批判が 起きているようだ。 どこにも宗教的な感動も何もない。 今はやりのアニメキャラの世界そのものだ。 こんなものを後世に残していいはずがない。 おそらくサグラダ・ファミリアを見に来られた観光客の8割は、内心は私と同じ思いだと思う。 ☆残りのバスツアーでは、ガウディー関係ではグエル公園とカサ・バトリョに立ち寄った。 グエル公園はバスから降りて延々と坂道を上っていったが、一日の入場制限があり、今日はもうチケットが無かった。 カサ・バトリョはまったくガウディーの素晴らしい世界で、感動的な建築だった。 だから、余計にサグラダ・ファミリアの醜悪さが許せない。 ☆夕食は昨夜に引き続き、カテドラル前のレストラン街で、昨夜のレストランの隣でパエリャを摂る。 これがまた滅茶苦茶に美味しくて、こんな美味しいパエリヤを食べたのは初めてである。(といってもパエリャはあまり食べたことはないが) |
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